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「どうしてこんなところにいる……!」
「ディピアの兵だ。あそこの王には嫌われているからなあ。帰り道を襲うように命じられたか」
 誰一人殺さずに捕虜にした者たちを見下ろす。猿轡を噛まされ、縛り上げて転がされている。素性の分かるものを身につけた者はいなかったが、グレイははっきりと断定した。
「違う! お前だ!」
「それはこちらの台詞だ。突然逃げられた身にもなれ。誤摩化すのが大変なんだぞ」
 驚いた。捕虜たちを気にして、小声で問う。
「……逃げた、とは公表してないのか」
「気疲れで臥せっていると言ってある。もうひと月以上になるからさすがに不審がられて、キルタ公爵も説明しろとうるさい」
 だからこちらに逃げてきた、とグレイは言った。
「ユリアが気を揉んでいた。これから寒くなるのに、あの軽装でどこへ行っているのか、風邪を引いていないか。お前に会えるなら着替えを持ってくるんだったな」
「それで?」
 御託はいい。冷ややかに答えを求めると、グレイは肩をすくめた。
「王宮にも、国境沿いで起こっている争いと怪異の噂が届き、こちらの事件解決に来た。あとは、ディピアに用があってな」
「それだけで刺客は送らんだろう」
「俺は王子とは友人だが、王には嫌われている。息子をたぶらかすなという警告だな」
 けろりとして言われて頭痛を覚えたが分かってしまった。ディピア王は、朱に交わってほしくないのだ。これと同じ息子が出来上がるかもしれないと思うとさぞかし嫌な気分になるにちがいない。
「刺客たちはここに置いていけば拾ってもらえるだろう。連れて行くのは手間がかかって面倒だ。獣に襲われるかもしれんが、まあそれはそれで」
「極悪だな」
 言ってから、ふと、同じように批難を唱えるはずの騎士の姿がないことに気付いた。さきほど見た金の肩章は間違いなく近衛騎士の制服だが、彼がいない。
「ミランはどうした」
 グレイはにやりとした。
「あいつは留守番だ。お前を怒らせた罰に、離宮に王太子妃がいないことが絶対にばれないようにしろと言ってきた」
 ……さすがに可哀想になった。思いがけない罰だったに違いない。ミランの言葉は、グレイのためのものだ。あそこまで怒らせたのはレシュノルティアの非だった。
 そうして、ふと首を傾ける。
「私より、お前が怒っていないか?」
 グレイはきょとんとし、隠すように口元を押さえた。深々とした息を、遠いところに吐き出している。
「……我ながら情けないとは思うのだが……お前がいなくなったと聞いて、怒りのぶつけどころがなくてな」
 やはりとんだとばっちりだな、とミランに同情した。
「私にも修行が足りなかった。あのまま姿を消したのはじっとしていたくなかったのと頭を冷やすためだ。後でミランに謝っておこう。銀青花の護符を置いていったのは戻ってくるという意味だったんだが……伝わってなかったか」
 グレイはまじまじとレシュノルティアを見る。
「……帰ってくれるのだな?」
 小さなささやきにレシュノルティアは立ち尽くした。
 ざあ、と森が揺れ、雲が晴れていく。
 光が注ぎ、空には貴婦人のような白くまるい月が輝いている。
 胸が、ざわつく。
 伝わらなくていい、とも考えていた。もし「王子妃が逃げた」という噂が流れているようなら帰る必要はないと、レシュノルティアは逃げ道を作った。その可能性が高いことも推測していた。グレイは、自身のすべきことにためらいがない。無駄だと思えば切り捨てるだろう。
(私を、待つつもりだったのか……?)
 グレイの瞳を見ていると幼子のような少し頼りない自問が浮かび、急いで顔を背けた。
「……月が出た。追っ手が来ないとも限らない。早くここを離れろ」
 墓地へと引き返す。この戦闘が魔術師と関係がない以上、戻らねばならない。死体を奪われる前に、早く。
 なのに足音がついてきていた。レシュノルティアはげっそりと振り返る。
「どうしてお前がついてくるんだ!」
「ついていきたいからだ。当然だろう?」
「ここは、ディピアだぞ!」
「そうとも。だが国境よりも、俺は自分の妃の方が大事だ」
 妃という称号の不自由さに絡めとられそうになる。これは、役の名前だ。レシュノルティアにとって、愛し愛された者の証にはならない。偽物で都合がいいからと名乗っているだけ、自分の一部になりもしない。
 なのに、あの方はお前を救いたいんだと思う、という、ここにはいない騎士の言葉がよみがえる。
 澄んだ灰色の目に追いつかれないよう、足を進めるしかなかった。
 墓地に戻ると、去る前とは変わらない静けさに満ちていた。追いついてきたグレイは、地に十字架が打たれる異界のような光景にちょっと立ちすくんだが、なるほど、と一人ごちる。レシュノルティアが怪異を追ってきたのだと得心したのだろう。
 そういうところが、本当に腹が立つ。
「……何してる」
 男は、辺りを見回して適当な木の枝に手をかけている。
「ここでは視界が悪い。せっかく木があるんだ、上から見下ろす方が効率がいいとは思わないか?」
 その通りだったが、いい年をした王子が木登りするとは、ミランが見たら何と言うかな、と思ったレシュノルティアだった。
 王子とは思えぬ器用さで、グレイはみるみるうちに高いところに行ってしまう。急いで後を追うが、途中でほんのわずかな時間だが目を下にやってしまい、ひゅっと息を吸い込んで木にしがみついた。
「……くそっ」
 小さく悪態をつくと、手に力を込めた。こんなところで怯むわけにはいかないのだ。
 額に汗を浮かべたレシュノルティアは慎重に自身が座れる枝を探し、グレイよりも高いところに腰掛けた。風が、遮られることなく地平線に向かって吹き抜ける。暗黒に思えた森は、月と星の光を受けて、限りある青緑の海でしかない。
「古戦場が見える……あそこは、銀青花がよく咲く場所だった。だが、汚れた大地にあの花は咲かない」
「……ああ、ギエナーの戦いのか? ずいぶん歴史に詳しいのだな。三百年前の戦場だぞ」
 大地が美しく豊かである証の、穢れを嫌う青い花。花の色にはかすかな魔法の力があり、抽出したその色で布や糸を染めて、人々は魔除けや祭祀の帯を仕立てたりした。ただの迷信と笑う者の方が、今の世にはずっと多いけれど。
 この男は、たぶん、そうじゃない。
「……どうして」
「……うん?」
「どうして、何も訊かない。ミランが、お前が私に何も訊かないのはどうしてか分かるかと訊いた。確かに、私には分からない」
 グレイはレシュノルティアの行方を訊かない。閉じ込めない。傭兵たちですら一度はレシュノルティアの素性を探ろうとするのに、話題にもしない。慎重に避けているのだ。気持ち悪い。何も言わない自分がまるで悪いことをしているかのような気になる。何も悪くはないのに。これが自分の付き合い方なのだから、何も。
「……本当に分からないのか?」
 雲の流れのせいで闇が淡く明滅する中、グレイは顔を押さえて苦笑したようだった。くつくつと笑い声。馬鹿にしているのか、とレシュノルティアは目を吊り上げる。
「おい……!」
「いや……そういえば、何も言っていなかったと思ってな」
 言うと、グレイは外套を脱いだ。
 ぎょっとし絶句するレシュノルティアに、その分厚い毛皮のそれを押し付ける。
「着ていろ。冷える」
 むっとした。そんなにやわだと思っているのか。
「装備はきちんとしている。それに、私は死なない。凍死もしない」
「ばか。冷えた身体をいたわるのは当然のことだ」
 笑って小突くような声だったので面食らった。
 そうして、少し考えてから、のそのそとそれをまとった。
(他人の優しさも受け取れない人間になるのは嫌だっただけだ)
 自分に呟き、毛に顔を埋めると、あたたかかった。グレイの体温が移った外套は、革と毛と、ぴりっとした香草のにおいがほんの少しする。自然で、落ち着く香りだった。
「不老不死の剣士も、木登りは苦手か」
 不意打ちされた。レシュノルティアが、負けず嫌いで高いところに座ったことに気付いて、彼はにやりとする。せっかく話題をそらしたのに。環境に対する政策のことを、誇りにするどころか口にもしないことに苛々し、レシュノルティアは仏頂面で答えた。
「高いところが嫌いなだけだ。人に怪我をさせたからなおさらにな」
「怪我?」
「下りようとしたら落ちた。彼は私を受け止めようとしたが、受け止めきれず、一緒に降ってきた枝が胸に刺さって、半年以上絶対安静の大怪我を負った。彼には傷跡が残ってしまった」
 なのにレシュノルティアには傷一つなかったのだ。彼、レイアスは目が覚めたとき、大泣きする従妹に微笑んで「君が怪我するよりずっといい」と言った。
「それは……その御仁が、ちょっと鈍くはないか?」
 レシュノルティアはきっとして抗議した。
「お前と違ってレイアスは上品な人間だったんだ! お前なら、例え熊が降ってこようと怪我しないだろうさ」
 レイアスは、グレイのような大剣を振り回すには少々細身で、体力もあまりなかった。その触れれば崩れてしまいそうな儚さが貴族の女性たちの憧れだったのだが、さすがに今のレシュノルティアの基準では、連れ回すには少々頼りない。
 そういう点では、健康で体力があり、剣術も処世術も身につけている、殺しても死ななそうなこの男は、理想的な旅の連れになりえた。絶対に、本人に言うことはないが。
「そうだな……熊はともかく、お前が降ってくるくらいなら、受け止められるかな」
「……真剣に検討するな」
 それよりも墓地だ、と視線を地上に投げる。グレイは木の上で、まるで生活しているかのようにゆったりを足を組んだ。

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