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 毒の澱がまだ重く、意識がはっきりとしなかった。時間の経過があまり分からないが、月の形から見て一週間か、もう一ヶ月経ったかというくらいだろうか。
 目覚めるとき、今、自分がどこにいるのか分からなくなる時がある。それに怯えたり、不安に思ったりすることはなくなった。
 例えこの世界が終わっていても、目覚めるかぎり、レシュノルティアと魔術師はすべてから残される。それが呪いであり、絆だ。
 ――憎々しい安堵感、そして、死にたいくらいの愛おしさを覚える。
 夜の光を見て、実感する。まだこの世にいる。月の満ち欠けを見ている。青い夜を、まだ駆けている。
 どのくらい黙っていたのかは分からないが、「死ぬ時の気分はな」と、気付けば口を開いていた。
「苦しいし、冷たいし、痛い。寒いんだ、とても。凍えるくらいに。悲しくて腹が立って、次に恐怖に支配される。暗闇に沈んでいくとき、この世の絶望のすべてを味わう。何度経験してもその感覚は褪せない。人は、幸福だ。その思いを一度しか感じないで済む」
 だから私は魔物。何度死んでも、何度でもこの世界に戻ってくる。
「私がこの身になって感じたのは、己のおぞましさと人間の醜悪さだ。何百年生きても人は傷つけ合い殺し合う。戦争は終わらない。大地は汚れる」
 目を閉じる。まぶたの闇は、深い青。降り注ぐ光の色は、剣にひらめく冴えた光と同じ。その光でレシュノルティアは人を斬ってきた。罪の概念は遠い。何故なら、もう人を殺すことにためらいがないから。それだけの時が、流れた。
「私は剣を手放せない。生きているかぎり誰かを殺め続けるだろう。不老不死を実感した時、これが私のさだめだと思った。私は魔物。魔物は人を殺す。だがお前たちは違う。――人間に人間は殺せない。誇りを、魂を、奪うことはできない……」
 だからこそ、人の魂は天に昇って星になると人々は語るのだ。誇りと命の輝き。誰もが胸に灯す信念の光。死者となっても地上を照らす、心。
「魔術師と私は、この世の不浄の最たるものだ。私は人殺しをして人を嫌悪し、魔術師は死者たちをさらい、己の欲のために利用しようとしている」
 月の中心と同じ色をした、銀の瞳に告げる。
「許してはならない」
 言ってから、これは魔物の唆しになるのだろうか……と考えるとおかしくなった。目をそらし、清潔な寝台に顔を埋める。心地いい香りがした。グレイが身にまとっている、革と香草だ。
「……倒れ伏したお前のそばに公爵がいた」
 グレイが寝台に近付き、影が差した。
「だが俺の目には、それが公爵でないことが分かった。そいつは、『待っている』と死んだお前に言って、笑った」
 淡々とした声だったが、見上げた瞳には感情がきらめていた。切とした、怒りと、悲しみ。寝台が軋む。グレイがレシュノルティアを覆うように手をついたからだ。
「そいつが遺体消失事件の犯人で、お前が追い続けてきたものか」
「そして私を不老不死にした男だ」
 口にするだけで燃えそうになる。身体の奥から、髪や爪の先まで。
 敷布を握りしめる。
「何度も夢に見る――私の家族を殺し、罪のない人々を殺し、その血と肉で術を使い、私を不老不死にした。何百年と駆けてきた夜に、私は繰り返しあの日の夢を見る。幸せだった頃を、それを奪われた時のことを。そして、魔術師を殺すと決めた、あの炎の赤い色を」
 幸せな夢にはいつも終わりがある。続くのは始まりの日の苦しみ、怒りと憎しみだけ。尽きることのない憎悪で、やがて髪の色は青く染まった。時を経るごとに、深く。その色は、空や月や剣と同じように見えるのに、お前はこの世ならざるものであると告げる。
「魔術師を殺す。魂の欠片も残さずに。その時ようやく私は救われる。永遠の楔が断たれ、ようやく空の星になり、流れて、消える」
 永遠に輝く高貴な星にはなりえない。罪科を雪ぐため、自分もまた欠片も残さずに消えるだろう。それでいい。それでようやく、すべてが終わる。
 ――あわれだと、おもうか?
 それまで体勢にそぐわぬ鋼のように頑なだった会話が、不意に睦言のような甘さを帯びた。はっと素早い瞬きをしたグレイは、身体を起こすと、額を押さえてレシュノルティアを見下ろした。笑いたいような、どうしようか悩んでいる顔だった。
 グレイはそのまま月を仰ぎ、その光を浴びてから、レシュノルティアに手を伸ばした。レシュノルティアはびくりと震えたが、その手を受け入れた。手は、落ちかかった髪をかきあげ、頬を撫で上げる。
 暖かい、固い手だった。剣を握る者、生きるために戦うことを選んできた、レシュノルティアがずっと手に入れようとしてきた手だった。
「……いつも見る夢がある。俺の前で、少女がくるくると踊っている。顔は分からない。光が眩しくて何も見えん。少女が舞うのだけが見える。そうして彼女が言う。『じゃあ、さよなら』」
 抒情的な夢だと思った。美しい夢だ。夢の美しさをレシュノルティアは知っている。
「……切ない夢だな。誰か、そういう娘がいたのか」
「いや、記憶の誰でもない。その夢を見ると気分が安らぐ。祈るような、誰かの幸せを願うような気持ちに。俺が答えようとすると、いつも目が覚める。おかげで二十数年間言いそびれている」
「……聞いてもいいか。なんて答えようとするのか」
 グレイは我ながら子どもっぽいと頬を撫でた。
「『行け。すぐに追いかける』」
 レシュノルティアは思わず笑い、笑ってはいけないと力を込めて堪えた。
「『行くな』、じゃないのか」
「そうだ。……俺は今、お前にそういう気持ちでいる」
 今度こそ、レシュノルティアは顔を歪めた。
 この男はいつもそういうことを言う。いきなり現れたかと思えば、一緒に歩こうとし、しかし何の鎖の用いずに、背中を押す。
 目を閉じ、唇を結んだ。
 そうして感じたのは。気恥ずかしさや照れの向こうにあったのは、とても凪いだ思いだった。
「……生き返ったとき、お前がいて嬉しかった」
 思うままに口にすれば、安らかな言葉が出た。素直で、穏やかな。
「生き返る時は大体死体の山の中か、狭く暗い棺の中で、私を見た者はみんな怯えて逃げ出す。……近付いてきたのは、お前が初めてだった」
 言葉を紡ぐ先から熱が灯り、指先で何かに触れればそれを暖められる気がした。汚れない白い敷布を辿っていくと、グレイの手に触れることができる。
 だが、触れない。
 アウエン・グレイが与えたのは、レシュノルティアが五百年間遠ざけてきた、奇妙で目眩がする日々の中の、帰ろうと言われる場所。暖かい寝台一つ。初めて感じる、でも最初から知っていたような、ぬくもり。
「もう、それだけで充分だ」
 細められた灰色の瞳に浮かぶ痛みに、見ないふりをする。
「……エルディアの南に、魔女の家がある。魔術師の手がかりを聞きに行ってくる。倒すための準備にも協力してくれるはずだ」
「俺も行く」
 間髪入れなかった。王子が気軽に城を離れていいと思っているのだろうか、と生き返ったばかりの王子妃は呆れた目でグレイを見た。
「非常識な奴だな……いや、私もとんだ非常識だが……」
「何と言われても、行くぞ。俺の見ていないところで死なれるのは嫌だ」
「子どもみたいだぞ、お前」
 鼻で笑って言うと、グレイは膨れた。
「いいから、行くぞ。新婚旅行にちょうどいい……うお!?」
 窓硝子が、枕を跳ね返した。二個目の枕に手を伸ばしたレシュノルティアに「待て! 待てと言って……!」とグレイは逃げ惑いながらも、枕を拾い上げて応戦してくる。更に長椅子の椅子布団まで持ち出して、レシュノルティアに投げつけてきた。
「私は病み上がりだぞ! 手加減しろ!」
「それを言えば俺もそう変わらんぞ! お前もつくづく容赦ないな、知っていたが!」
「ちょっと、何を騒いでるんですか!?」
 ミランが扉を開けたとき、二人は枕を放り出し直接掴み合って床に転がっていた。
「黙っていれば絶世の美女だというのに」
「それはそれは。育ちが悪くて申し訳ない。……心にもないことを言うと、その口引きちぎるぞ!」
 髪を乱し、一方はあられもない格好をしている光景を目の当たりにして、騎士は顔を真っ赤にして、黙って扉を閉めた。

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