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「いい森だ。必要なだけ木を切り、獣を狩っている。このまま保てればいいのだが」
 肌に柔らかくまとう薄布のような、少し冷たい、瑞々しい風が、レシュノルティアの髪を優しく梳かす。晴れ空。雲の色も薄い。季節は、ゆっくりと秋へ向かっていた。国の南へ向かうと、空気はほんのわずかに温かになる。森が近付いてきたが、レシュノルティアは人が足を踏み入れないような奥地から遠回りしてきていた。
 非常識なグレイは、本当に旅に同行していた。レシュノルティアも止める気がなかったから当然だ。彼は自身で周囲との調整を図ったし、何より、グレイが行きたいというのなら、一緒に旅をしてみるのもいいかとも思ってしまったのだ。
 旅人に身をやつした二人は、王都から南下して魔女アザレアの家へ向かっていた。
 レシュノルティアは傭兵仲間に対するようにグレイと接したが、グレイはどんなぞんざいな扱いにも平然としていた。宿を取れる時はともかくとして、交代で火の番をしながら夜盗を警戒したり、美味くもまずくもない食事に「今日は美味い」と言ったりと、王子様にしては旅慣れしすぎていた。
「母が非常に変わった人物でな。俺が生まれたしばらくは戦争が耐えなかったし、そんな情勢なら生き残る術を学べと騎士団に預けられて、その時に行軍や旅の仕方を学んだ。剣もそのときだな」
「……変わった人だな」
 控えめに言った。王族の育児が一般とは違っているのは知っていても、平和な地方に疎開させるのではなく、騎士団に預けるというのはやはり少々変わっている。
 だが納得した。グレイが妙な人物である原因が分かった。
「おかげで今まで助かってきたから、まあ正解だったんだろう。ふわふわとして何を考えているかよく分からない人だが、付き合ってみると面白いと思う。お前に会うのを楽しみにしていたが、延び延びになっているな」
「不出来な妃で申し訳ないな」
「申し訳ないように聞こえないぞ」
 静かな森に笑い声が響く。肩を揺らしながら森へ踏み入り、木立を抜けた。現れた光景にグレイは目を見張った。
「銀青花!」
 緑が小人の足跡のように慎ましく広がっている中、青い花がこっそりと揺れていた。夏に咲く銀青花は今が開花期だが、それにしては青の色はわずかにしか見られない。それでも、グレイには驚くほどだったようだ。
 レシュノルティアはその銀青花を集めて、花束を作った。あまり摘んでは可哀想なので、本当に遠慮がちなものになる。
「手土産か?」
「今度来るときに持ってきてほしいと言われた」
 そうか、と言ったグレイも、密かに花開く銀青花を一輪取った。
「昔、母に銀青花とはどういう花かと尋ねると、ここに似た場所に連れてこられたことがある。そこで初めてこの花を見て、鮮やかで美しい花だと思った。これが何百年も後にも咲き誇ってくれたらいいと思ったな。この花が、もっとたくさん咲くようになればいいのだが」
 だから自然保護の政策を進めているか。訊いてもよかったし、答えてくれただろうが、そうかと目を伏せるにとどめた。
 綺麗な水と空気と土でなければ、銀青花は咲かない。戦争が終わり、武器が作られなくなり、大地が美しさを取り戻していかなければならない。今の世では、あと数百年はかかる。もしくは、決してそんな世界はやってこないか。
 もし、魔術師を殺せず、また旅を続けるようなら、その結果を見守ってやってもいい。
 そんな思いは胸に秘める。
「……って、どうして私を見ている。銀青花の話じゃなかったのか」
「うん、銀青花の話だ。お前を初めて見たときは別の感動があった。ただの伝承ではなかったのだと思った」
 妙ににこにこしているので、レシュノルティアは眉を寄せ、首をひねった。
「死神に会って感動するのか。変わった感性だな」
「お前は自分の価値を知らないな。お前に出会えることが、剣を持つ俺たちにとってどんな意味があるのか、知らないだろう?」
 何の嫌味もなく素直に不思議に思っただけだというのに、グレイはよく分からないことを言った。価値と意味、とは。
「不老不死の青い女傭兵と呼ばれるのは知ってる。だが、こっちに来るな、とか、こわい、とか、戦場では会いたくない、としか言われた記憶しかないな……」
「……本当にお前ってやつは」
 苦笑とともに手のひらが降ってきた。頭を撫でられ、顔に熱が昇った。不本意な自身の反応に驚き、レシュノルティアは抗議の声を上げた。
「や、やめろ!」
「はは、怒るな。かわいいとな、撫で回したくなるものなのだ」
 グレイの手が頭の形をなぞるようにしっかりと撫でていく。首をすくめ、赤い顔のまま黙り込んでいた。唇がふるふると震え、何か言いたいのに何も言えない。だって、何も言わなくていい気がする。
「……グレイ」
「うん?」
 また、あの熱の粒が胸にある。爪先まで暖かく、真昼の光に染まっていく気がした。心が優しい鼓動を打ち、願っている。祈っている。望んでいる。
 死んだ者、魔物の手さえ取る男。五百年生きて、そんな男は初めてだった。
「……私は」
 ――お前のことが、好きなのかな。
 喉がひくつき、最後まで口にはできなかった。けれど、グレイは動きを止めた。レシュノルティアは目を落としたままで相手の顔が見えないから、離れた手が軽く握られるのを見ていた。
 馬鹿馬鹿しいことを、口にした。
 でも分からなかったのだ。戦う術も、生き残る力も手に入れてきたのに、この感情だけは理解できなかった。あの日が来なければ手に入れるはずだった思いだが、始まりを迎えることがなかったレシュノルティアは、五百年の生を経ていても、うまく形にできずに持て余してきた。
 与えられた温もりや、あの寝床や、この男に抱く思いは、果たして本当に愛という感情なのか。
 だから考えた。これは、恋なのか。
 グレイが、噴き出すような苦笑をこぼした。
「……俺は、お前が」
 弾かれたように顔を上げた。
 泣きそうな顔で微笑していた。それを見て、表情が伝染する。灰色の瞳に宿る温もりと切なる光で、答えを知った。
 グレイはレシュノルティアをそっと胸に引き寄せた。額がぶつかり、けれどそれ以上、近付くことも、触れることもしない。
 それぞれにすべてを口に出さなくとも、分かった気がする。
 同じ思いを抱き、心地よさを感じ、側にいたい、側にいてほしいと望み、相手のために何かをしてやりたいと願って――決して、同じ道は歩めないことを。
 アウエン・グレイは不老不死ではない。彼は彼自身の人生を生きる。他人に譲ることなく自身の生を全うしようとする。レシュノルティアは魔術師を殺し、自身も消滅することに後悔はない。充分に生きた。思い残すことは何もない。
 未来へ続く輝く道と、復讐に燃えて途絶える道。その二つは、交わったとしても、重なり合うことはないのだ。
「……答えはくれないのか?」
「……そっちこそはっきり言ったらどうだ」
「俺に訊くな。分かっているくせに」
「知るか」
 目も合わさずぼそぼそと呟き合った後、二人してふっと笑った。
 そうか……とレシュノルティアは晴れるような気持ちになった。そうか、こういう形もあるのか。復讐の終わりにもう二度と会えなくても、ともにいることがこれが最後でも、グレイが与えてくれたのは、これまで手に入れられなかった優しい思いだった。
「……人間は醜悪だと、以前私は言った。あれに、付け加えさせてくれないか」
 グレイが背筋を伸ばす。ああと答える声は固い。
「私は、自分も魔術師も、人間も醜く汚いと思う。でも今は――人間とはそう悪いものでもないかもしれない、と思っている」
 ゆるりと目を開く。見つめた灰色に、笑う自分が見える。
 お前がいたんだよ、アウエン・グレイ。
 この世界に、お前が。
「争いは尽きず、戦いは終わることなく、いつまでも人間は世界中のあらゆるものを傷つけると思う。この五百年は、そうだった。……でも、今はお前がいる。私に手を伸べてくれた、大地を守ろうとしてくれている、アウエン・グレイが」
 信じてもいいと思うのだ。誰かが泣き叫び誰かが憎み誰かが血を流しながらも、心優しい誰かが、大らかな誰かが、笑ってくれる誰かが、許してくれる誰かが、どこかできっと生まれてくる。
 世界は続く。守られる。
「私は、お前に会えてよかった」
 心の底からその言葉を言えた。
「お前がこの世界に生まれてきてよかった」
 グレイの言葉を聞かずに、レシュノルティアは一度微笑んでから背を向けた。澄み切った空に顔をあげると、衝撃があった。呼吸を殺したような声が、青い髪に触れた。
「……ありがとう」
 頷いた。身体に回った腕に触れて。
「さあ、行こう」

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