「羽宮常磐です」
「内藤佑子です。……おいくつですか?」
「十七です」
 殴られた気がした。
(わ、私より八つも年下!)
 胸を押さえてよろめく。常磐が生まれたとき、佑子は小学二年生。小学一年生のときには中学三年生だ。犯罪だ。
「…………」
「…………」
「……佑子、お前社会人なんだろう。もっと何かあるだろうに」
 あまりのダメージに沈黙した佑子に、祖母はため息をついた。
 わっはっは、と豪快に笑ったのは羽宮氏だ。
「うちの孫も照れ屋ですみませんなあ。常磐、こういうときは相手を褒めるんだぞ」
 はい、すみません。
 常磐の返事は、彼がここにいないような薄っぺらさだ。それだけで、彼がこの結婚に心から賛同しているわけではないのが分かる。万が一の可能性で相手が自分のことを好きだったら、と描いていた夢が打ち壊されていく音を、佑子は聞いた。
 よじ上ろうとした壁をちらちらと伺った。高額な懐石料理を出してくれる料亭は、建物も内装も古ぼけたと言いたくなるが風情があると言葉を置き換えられる雰囲気を保ち、美しい緑を眺められるよう、入り口は庭に面していた。とても静かではあったが、それでも蝉は絶えず滝のような勢いで鳴いている。青い枝が風で揺れ、木漏れ日が輝き、それが廊下や部屋にまで届いていて、なんだかぼうっとするような、平和そのもののように思える庭風景だが。
(こんなところで上品におほほとか笑えるか!)
「ご商売の方はいかがですか」
「おかげさまで……本当におかげさまで、なんとか持ち直しました」
 染み入った、という風に、羽宮は机に両手をついて頭を下げた。
「本当に、ありがとうございました!」
「いいえ、こちらこそ。孫の世話までしてもらって」
 聞き捨てならないことを言われた。素早く祖母を見ると、応えたのは羽宮だった。
「佑子さんも大変ですなあ。不景気というやつは、本当に手強い。しかし安心してください。お仕事の方、こちらで世話させていただきますので」
「え?」
 失業状態がもう伝わっているのかと恥じたのもつかの間、そんなことを言われて混乱する。
「あの……どういう……」
「司書の資格をお持ちなんでしょう。私が理事をしている黎明学院で、ちょうど司書職に空きがあったので、心当たりがあると言ってきました」
 まったくいいことをしたという顔で、羽宮は言った。
「黎明学院はこの常磐も通っておるんです。今、二年だったな?」
「はい」
 なんと言っていいのか分からなかった。司書として勤める人間の多くは派遣でまかなわれている現状、直接学校に雇ってもらえる人間は多くない。羽宮の言葉が本当なら、佑子はみんなが難しいという司書に就職できたことになる。
 だが、それでいいとは、ちっとも、思えなかった。
 顔色が変わったのが分かったらしい。祖母が「佑子、ちょっと庭に出といで」と有無を言わさず追い出した。
「常磐、お前も行ってきなさい」
 二人はそう言って佑子たちを庭に追い出し、『大人の話』を始めることにしたらしい。例え二十五歳の孫でも、あの人たちにとって佑子はまだ子どもでしかないようだ。

 太陽の日差しは、掃いて乾いた白い土の上に濃い光と影を作り、その上にはしきりと蝉時雨が降っていた。ものすごい質量の夏の音だ。田舎の夕暮れは蝉の声が違ってもう少し涼しいのだが、昼間の大合唱はずいぶん暑さを重くする。その合間に鳥が、圧されるように控えめに短く鳴いた。
 本当なら今にも逃げ出したかったが、そうもいかない。ため息をつきそうになったのを、質問に換えた。
「……羽宮君」
「はい」
「君はこの件、どう思ってるの?」
 少年はガラス玉みたいな、感情のない目で佑子を見る。
「どう、とは」
「無理矢理、じゃないの?」
 十代の少年がどうして二十五の女と結婚するのか。家のためと言われて、彼は無理矢理同意させられたのではないか。そう思ったのだ。
 少年はまったく心を揺らしていない声で答えた。
「この話は、僕も同意しています」
 ぽかんと口を開けた。
「……は?」
 彼は憐れむように目を細め、そして遠くを見やった。彼の視線の先の緑の桜の木から、小さな鳥が飛び立っていく。
「羽宮家が名家であったのは昔のこと。現在は財政が傾き、土地を手放し、家をも手放そうかという状態でした。祖父は内藤家の蓉子夫人に援助を頼み込みました。蓉子夫人は了承しました。見返りとして、孫の今後を保証してくれるのなら、と」
 まだ何も言えない佑子に、常磐は少し間を置いた。
「そして、羽宮は、一族の中でも適齢期に一番近い僕をやりました」
「せいりゃく、けっこん……」
 洩れた呟きに何の反応もなかったが、そうなのだった。ようやく理解が追い付いてくる。全身に震えがきた。岩のような祖母を思い浮かべる。
「援助の代わりに人身売買みたいなことを要求したわけね、ばあさまは……!」
 佑子は常磐を睨んだ。怒りもなく悲しみも浮かべず、淡々と話をする彼にまで、肩をつかんで揺さぶってやりたいほどの怒りを覚えた。
「納得したような顔しないで。それってすごく」
 気持ち悪い。さすがにそこは呑み込んだが、彼は察しがよかったようだ。皮肉に笑った。
「僕は、そのためにあるんです」
 凄絶とも言える言葉だった。その顔は決して『表情』とは呼べない、貼付けられた仮面のように無機質でもあった。胸が詰まった。こんな顔をする人を、見たことがなかった。
「……君は、それでいいの?」
「はい」
 それ以外何があるだろう、そんな迷いない答えだ。目眩がしてくる。そこへ、追い討ちをかけるように声が言った。
「あなたにも不利益はないと思います。再就職は難しいと思いますし」
 がつんと殴られたような衝撃があった。
 私は、今、高校生に、知ったような口を利かれたのか。
 就職を世話してやったと、直接に自分の手柄のように言われたわけではない。しかしそう聞こえてしまったのだ。くらくらし、胃がぎゅうっとなった。お腹に力を込めたせいだ。ぼんやりした口調で、なんとか煮え立つものを堪えて問いかける。
「……君、好きな人はいないの」
「必要ですか」
 何が、と眉を跳ね上げると、常磐は皮肉と呆れの混じった、馬鹿にするような顔をした。
「答える必要と、好きな人がいる必要がありますか?」
 ――そう太くもない血管はあっさり切れた。
 相手のお上品なストライプのネクタイを引っ掴み、頭一つ分は高い位置にある少年の顔を自分の目の前まで引き寄せ、怒鳴りつけた。
「人を好きだって気持ちを馬鹿にするんじゃない!」
 怒鳴られたことが初めて、という顔になり、彼はあっさりと佑子が突き飛ばすままによろめいた。もう目が離れないといった様子で、締め上げられた喉を押さえ、呆然と佑子を見ている。
 その顔を見て、ああ、この子は子どもなんだ、と腑に落ちた。甘やかされて、叱られるかわりにおもちゃやお菓子を貰ってそれ以上考えるのを止めて、自分で考えるかわりに親の言うことを聞くようにしつけられた可哀想なお人形さんだ。
 そんなのは、だめだ。
「もう大体分かった。君は、人を馬鹿にして、斜め下に見て、いい気になってる。君、十代でしょ。十代を生きるって、すごいことなんだよ。すごく大切なことがいっぱい詰まってるのが学生時代だって私は思ってる。それを馬鹿にして、きっと痛い目見るよ」
 常磐は黙っている。今は分からないだろう。でも、いつかきっと思い出す日が来る。十代の頃、何を感じ、何を思って、何を大切にしてきたのか。眩しい気持ちで振り返る。
 だから、自分よりずっと若い男の子が恋も愛も経験できないなんて、絶対にだめだ。
 どうでもいいことで喧嘩したり、泣いたり、笑ったり。未成年だった佑子はありふれた学園生活をして、今それをとても懐かしく思うから、彼の将来と幸せを願わずにはいられない。ああいう日々は、二十五にはもうないのだ。
「いいよ、受けて立ってやる。好きな人を作ればいいんだよ。そうすれば生活が楽しくなる」
 佑子は指を突きつけた。
「君の通う学校に、司書として赴任する」
 計画も何もなかった。ただただ、目の前の男の子に教えてやろう、と居丈高に思っただけ。おせっかいでも、馬鹿みたいな正義感でも、その気持ちは浮ついている分、まぎれもない本物だった。

「――そして君に、恋をさせてあげる!」

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