第二章 恋をさせてあげます

 泥のような眠りの中、夢に見たのは、めちゃくちゃ懐かしいあの部屋だった。
 古いパソコン。脚のない椅子。ダイヤルのテレビ。鳩時計。紐で綴じてある古い本が山のよう。和室だということを忘れてしまうほどに溢れ、奥へ行くごとに時代をさかのぼる。山と積み上がったがらくたの山。錆のようなにおいがして、埃がきらきらと舞っている。――祖父がまだ元気だった頃の風景だ。
 今はもうそこは普通の部屋の姿を取り戻していて、祖母が岩のような顔をしながら汚れた畳を睨んでいたことを、まだ幼かった佑子は覚えている。親戚たちが一同に介し、そのごみたちを片付けていた。綺麗な石のついた箱や、今ならおもちゃじみていると思うようなアクセサリーといった、子どもにとって掘り出し物もあったけれど、本当に、あの広い内藤の実家で、祖父の部屋だけがごみ屋敷の様を呈していた。近所に責められなかったのは、あそこが広い庭を持つ田舎だったからだろう。マンションなら苦情が出て、行政が来る。
 でも、佑子は知っていた。それらには、アトランティスの水晶、火星の石、タイムマシンの部品など、祖父の物語がセットになっていたことを。
「これはなあに?」
「楊貴妃が身につけていた腕輪だよ」
「ようきひって?」
「中国の綺麗なお妃様だよ」
「ふーん。じいさまってなんでもしってるね! 学校の先生だから?」
 夢の中では時間は行きつ戻りつする。ああ、そんなことがあったなあと、現実の佑子はぼんやり思った。
「ふたをあけたら時計だよ、これ!」
「時計に見えるねえ」
 祖父の笑い声が、遠くなっていく。でも佑子の胸の中には、あの時の気持ちが、解き放つようによみがえってきた。うさんくささを感じつつも、大真面目な顔で夢物語を語る、豊じいさまが大好きだったこと……。その腕輪は多分、実家の自室の、勉強机の引き出しの底に今もある……。
 指輪やネックレスといったきらきらしいものに目を向けていたところは、私も女の子だったんだなあと思うのだが、祖父の部屋の品物で、ひとつだけ、由来を聞きたくても聞けなかった代物があった。
 人形だ。
 着せ替え人形には馴染みがあったが、日本人形はだめだった。黒髪や着物は綺麗だと思っても、子どもだったゆえか栗色の髪ほど心惹かれなかったし、何より彼女たちの目が怖かった。どっしりしたところも嫌だったのかもしれない。日本人形でも、すらっとした舞姫より、女童の方がずっと怖かったのだ。
 佑子はある日、本を読んでいた。読書は大人たちから推奨されていた。本を読むことを褒めそやされるのは、きっと子どものときだけだろう。ただ、褒められることが嬉しくて、何より物語を追うのが好きで、毎日のように畳の上に肘をつき、座布団を折って腹這いになって、一生懸命、本の表紙を握りしめていた。
 その日は、高学年向けのホラージャンルの本だった。持ち主の女の子は若くして亡くなってしまい、やがてその霊が人形に取り憑いて、次から次へと新しい持ち主を死に追いやる、というものだ。
 脳裏にちらついたのは、祖父の人形だった。黒髪、麻呂眉、星のない黒目におちょぼ口。朱金の着物には花が散り、袖から覗く手は小さく白い。その子は引き出しになっている台を舞台のようにして立ち、曇りのない透明なケースで覆われていた。祖父の部屋にはいくつか人形があり、その中で最も大事にしているのがその人形で、存在感も圧倒的だった。
(じいさまがいなくなったら誰のものになるんだろう……)
 私じゃなければいいなあ……と思ったことを覚えている。
 しかし、その時はやってきたのだ。
 ある日の夕暮れ時だった。学校から帰ってすぐ、祖父の部屋に行った。西日が差し込んできて、庭木の影が締め切った障子に映し出されていた。
 祖父は佑子と正座で向き合い、佑子の前にその人形を置くと、重々しい声で「この人はミキ様というんだよ」と言った。
「この子は佑子のお守り。佑子をこれから守ってくれるよ。じいさまが、佑子を守ってくれるようにたくさんお願いしたから。大切にしてくれるね?」
「じいさま、どこかにいっちゃうの?」
 突然泣き声になった孫に、祖父は目を見張った。別れの準備という言葉が頭の中にあった。身の回りの整理ってやつでしょ。そんなある意味失礼なことを訴える頭でっかちで生真面目なだけが取り柄の孫を、祖父はいつまでも「いい子だね」と撫でてくれていた。
 佑子は人形を引き受けた。
 その日の夜に、夢を見た。
 黒で塗りつぶした空間に、少女が立っていた。佑子より、うんと年上だ。髪が真っ黒で地面につくほど長く、簾のようだった。中腰で、髪の間から真っ赤な口で笑っていた。
 その姿は、トイレの花子さんの挿絵そっくりで、笑った顔は口裂け女そのものだった。
 夢の中で竦み上がってしまった佑子に、少女は甲高い声でケケケケケと笑った。
『約束――したからねえええええ!!』
 その日、疑いは確信になった。
 じいさま。彼女は呪いの人形です。



 目を開けて、呻いた。
「新学期になんて夢見の悪い……」
 だるい身体を引きずって起き上がりカーテンを開けた。磨りガラスがモザイクのように朝の光に照らし出され、部屋を早速温め始めている。今日は天気が良さそうだ。
 駅から徒歩五分、築五年のワンルーム。白色で見た目にもすっきりと綺麗な建物の、二階奥が佑子の住居だ。たまたま空きがあるときに運良く滑り込めた。
 佑子は水を一杯注ぐと、チェストの上、ここまで一緒に連れてこなければならなかったミキ様にお供えをし、手を合わせた。
「新学期初日……どうぞ、無事に仕事できますように!」
 ガラスケースの中、日本人形のミキ様はほんのり笑っていた。

 職場までは徒歩二十分。公共機関を使うなら十五分程度だ。常日頃そう時間もかからない支度を終えると、新学期というせいか早めに出ることができたので歩くことにする。
 空気は、すっかり初秋の涼しさだ。ブラウスの袖口や襟元に触れる風が、凛と涼しい。空の雲の色が、光の眩しい鮮やかさより、いつの間にか溶けるような色合いに変わっていた。
 出勤する大人たちや登校中の学生たちとすれ違うが、目につくのは白い詰め襟の少年たち、黎明学院の生徒だった。かっこいい制服なのだが、あれを着ていると悪いことはできなさそうだ。一方でかわいいチェックスカートの少女たちが歩いている。
 私立黎明学院高校。佑子にとっては、浅からぬ縁のある学校である。創立者、内藤竜之介は曾祖父なのだった。ただ、終戦の後に運営組織を立て直してからは、内藤家は黎明学院の学校法人から手を引いている。学院創立時の曾祖父の写真を見たのだが、それまで実家のアルバムで見たはずの顔を覚えていなかったため、それが本当に曾祖父なのか分からなかった薄情なひ孫の佑子である。
 そんな曾祖父が大正十五年に女学院として創立した学院は、外観を一言で表すなら、『大正ロマン』だった。竜之介は、実にハイカラな人物だったようだ。
 年月を経てくすんだ白の外壁は見上げるほど高く、上の方には鉄格子が張られていた。外から入れるまいとするのか、それとも出すまいとしているのか。コネとはいえ一応臨んだ面接対策用に記憶した学院の変遷を思い出した佑子は、後者かなと思った。ここは女子校だったのだ。正門は鉄であることからも、巨大な鳥かごを思わせる。
 この学院の校舎は四つ。東西に伸びる北棟、接続された西棟、正門正面の建物は東棟だ。この三つの棟で下向きのコを描き、その三辺に囲まれるようにしてドーナツ形の中央棟が立っている。どれも明治期や大正期の洋館を思わせる赤煉瓦と青銅色の瓦屋根で出来ていた。遠くから見れば、ここだけぽっかりと時間が止まっているように見える。
 二学期の初日は、図書館は昼から開館する。朝の職員会議で教諭たちと挨拶を終えてから、始業式の行われる体育館、生徒たちの後頭部が見える後方に立って話を聞いた。引き継ぎ期間中に部活動の生徒たちは見かけたが、佑子は、それが現実であることを実感してしまった。
 佑子は大いなる失敗をしてしまった。常磐に「恋をさせる」と宣言したはいいものの。
「男子校だったんだよねえ……」
 隣に立っていた教諭が、生徒を咎めるような目でちらりとこちらを見た。
 黎明学院高校は、昭和四十一年に男女共学となったものの、六十三年に男子校として改組されたのである。つまり教職員以外に女性はおらず、生徒はすべて男子。これでは、常磐の相手を見つけることができない。
 登下校を一緒にするとか、手作りのお弁当とかが楽しいイベントなのに。あてはあっさり外れてしまって、視線を上にしつつ息を吐いた。みんな同じように見える制服の中、後ろ姿では常磐の姿を見つけることは困難で、何も起こらないまま式は終わった。

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