住宅街に漂う夕飯の香りを嗅ぎながら、心地よい疲労とともにアパートの階段を踏みしめ、部屋の前まで来て。
「…………?」
 ふと、家の中に誰かの気配を感じた。
 思わず部屋番号を見、隣の部屋も見て、ここが自宅だと確認する。しっかり戸締まりして、電気代節約に気をつけて真っ暗にしているはずの室内は、何故か、明かりがついている。
(……ちょっと待って、また泥棒!?)
 よぎったのは常磐の顔だった。
 追いかけて「助けて」と言ったら、来てくれるだろうか。
 だが頭から振り払う。いけない。未成年を頼るところだった。
 鞄の重みを確かめる。本が数冊入っているから、殴り掛かれば武器になる。向こうが刃物を持っていたら盾にもなるだろう。鍵を差し込み、そっと回した。深呼吸する。
(……よし!)
 ノブをがっと掴んでがっと引いてばっと開けた。
 室内の人物が「うわっ!?」と悲鳴を上げる。
「……あ! おかえりー」
「…………」
 佑子は鞄を降ろした。投げ捨てるように置いたためにどす、と鈍い音がする。靴を適当に脱いで上がり、フローリングを踏みしめると、逃げようとする相手の頭をぎりりっと引っ掴んだ。
「いった! 何すんのよ、同僚に!」
「元同僚、でしょ」
 次の瞬間、お互いに大爆笑しながら肩を叩き合った。
「元気そうじゃない、京野! 職探しどう?」
「さすがに見つかんないわー。でもまあ貯金あるし、もうちょっと頑張ってみるつもり。究極、結婚するって手もあるもんね」
 社内で仕事ぶりも人間関係も華やかそのもので、こんなところでも鮮やかな原色のスカートを履いている佑子と同じ倒産の憂き目に合った元同僚に、らしいわあと笑いながら、佑子はやっと、部屋の隅に縮こまるものを直視した。
「で、君は……香芝?」
「俺がいて悪いかー!!」
 黎明学院の生徒は真っ赤な顔と正座状態で叫んだ。
 京野の笑いながらの説明によると、佑子の顔を見に来たら、彼が部屋の前をうろついていたので声をかけたのだという。
「さっそく男子生徒憧れの的? やるねー」
(単純に不法侵入しようとしてたんじゃないかなあ……)
 最近の高校生は根に持つようだ。今もぷるぷると震えながらこちらを睨んでいる。しかし蹴飛ばしたいのはこちらの方だ。鋏を向けられた恨みを佑子は忘れていない。
「香芝、君、尾野辺君は?」
「何故俺に訊く!」
「腰巾着だと思ったんだよ、お山の大将」
 笑顔と低い声で言うと、香芝はぎょっとしたようだ。
「お、前っ……学校と態度が違うじゃないか!」
「家で取り繕ってどうするのよ」と耳をほじるポーズをわざと取ってみて言う。あからさますぎる態度に、京野が背中を向けて肩を震わせたが、香芝には効果覿面だったようだ。
「で、お友達は?」
「いつも一緒にいるわけないだろう、幼稚園児じゃあるまいし。そんなことも分からないのか?」
「京野、鍵どうしたの?」
「大家さんが開けてくれた。今時そんな人いないよねー。気をつけなよ。はいこれ、大家さんからきゅうり。あたしからは米と牛肉」
「わ! 助かる、ありがとう! ご飯は? 食べてく?」
「すぐ帰るからお気遣いなくー」
 香芝が小爆発した。
「俺の話を聞けー!」
「うるさいなあ。迷惑になるでしょ。ご飯出してあげるから静かにして」
「誰が飯が欲しいと言った! 飯を食ったら大人しくなるとか俺は動物か! お前の料理なんて誰が食いたいかー!」
「そんなこと言ってー。あたしが内藤の料理の話をしたら興味津々だったじゃん。茄子と海老の煮物とか、ちりめんじゃこと紫蘇の混ぜご飯とか、牛スジの味噌煮とか」
「もうちょっとおしゃれなの紹介してよ……」
 そんな酒の肴のようなものばかり。脱力しつつ冷蔵庫を開ける。
「牛スジなら作り置きがあるけど」
「出して出してー」
「すぐ帰るんじゃなかったの?」
「内藤のご飯おいしいからね。食べたいよねーマメシバ君?」
 香芝の顔がみるみる真っ赤になった。見事な温度計化で感心してしまう。からかうんじゃないと言ってやってもよかったのだが、これは恨みを晴らせる機会だと、京野と同じ微笑みを浮かべた。その名を、『オトナのおねえさん』という。
「へえ、仲良くなったんだ? かわいい名前で呼ばれちゃって」
「ねー。おねえさんに、いっぱいお話してくれたもんねー?」
 無理矢理聞き出したのだろう。佑子は、彼女の質問攻撃の餌食になった社員を何人も知っている。
「黎明学院生っていうのが親近感だわ。今大変なんだよね」
「え、そうなの? 初耳」
「うちのばあちゃんと縁があってさ。誰を次の理事長にするかで揉めてるんだよね、確か」
「『学院創始の書、『暁の書』を手にした者に学院を委ねる』」
 低い声が響いて、佑子は口を閉ざす。
 目を巡らせて見つめる女二人に向かって、少年がびしりと指を突きつけた。
「俺たちは『暁の書』を探している。内藤佑子。黎明学院創立者、内藤竜之介の子孫であるお前が持っているはずだ!」
「香芝……」
 思わず、言った。
「……白ランで正座してそんな目をされても、全然緊張感がないよ?」
 ワンルームに三人膝を突きあわせていて、室内は佑子の私物によって生活感に溢れすぎていた。畳まれた花柄の夏布団を背景に言われても、威力はない。
「うるさい黙って聞けっ!」と沸騰した薬缶のように香芝は怒る。京野と目を見交わした。水を差してもよかったのだが、京野の方が面白がる目になっているので諦める。
「内藤竜之介って人は確かにご先祖様だって聞いてるけど。だからってその『暁の書』なんてもの、心当たりないんだけど?」
「ないはずないだろう! だったら何故黎明学院に来た? これまで『暁の書』の手がかりはなかった。そこにお前が現れた。お前、学院の理事権を手に入れるために来たんだろう。そうじゃなかったら何しに現れた!?」
(こりゃー面倒だわ。仕方ない)
 ため息をついた。
 そして、どん! と一歩足を踏み出すと、鋭く右手を突き出し、香芝の小さな頭をぐっと掴んだ。
「うっ!?」
 微笑んだ。
「聞きたいことがあるなら口の利き方があるでしょう。でも質問に答えてあげる。私は、『暁の書』なんて知らない。私はただの新任の学校司書なの。私の職を奪うようなことすると……」
 頭から放した手を、だん! と床に拳を叩き付けた。
 そして、ぐりぐりと、執拗に手をこすりつける。
 顔を上げ、言った。
「潰すよ」
 ……しんとする。
 しばらくして、京野の拍手が聞こえてきた。いきなり二度も音があって下の部屋の人はびっくりしただろう。まだ顔も知らないが、会ったらいい顔をしておかなければ。
「香芝」
「な、なんだ!?」
「今日はもう帰りな。もう遅いし。でもちょっと待って」
 空のタッパーに牛スジを詰めると、ビニール袋に入れた上に風呂敷に包んで押し付けた。青ざめた香芝の周りには「!?」が飛んでいる。毒と疑われるのは心外だったので、表情を緩めて肩を叩いてやった。
「いらなかったら捨てな。食べるんだったらあっためた方がおいしいから。はいじゃあ気をつけて帰りな。また明日」
 立ち上がらせて反転させ、背中を押して肩を掴み、追い出す態だ。テンポに乗ってしまったのか、香芝はされるがままに鞄を持ち、靴を履き、扉を開けて出て行こうとする。が、我に返ったようだ。
「って、おい!」
「ばいばーい、マメシバ君」
 京野がにこやかに手を振った瞬間、耳まで真っ赤になった彼はもごもご口ごもると反転してしまった。扉が閉まった向こうで、階段を下りていく音。
 ……彼の弱点が、ちょっと分かったような気がした。
 冷蔵庫からお茶を取り出してあおる。少年をもてあそぶ魔性の女、京野の「お腹空いたー」の一言が無邪気だった。

前頁  目次  次頁
INDEX