結局、お惣菜程度のものをいくつか出して、二人でだらだらとテレビを見ながら食べる。冷えた缶ビールを勝手に取り出して、京野はごくごくとやっていた。
「で、新しい仕事、どうなの?」
「さっきので分かったでしょ。意味分かんないんだけど……」
 一通り説明する。彼女はふむと頷いた。
「『暁の書』って、ロールプレイングゲーム?」
「ファンタジーだよね、学園と伝説と幻のアイテム……」
 勘弁してくれ。とんでもない。どう回避しようか考えるが、巻き込まれる予感しかない。ため息でほうれん草に振った鰹節が揺れた。
「鬼弁天としてはどう対策するわけ?」
「あのね……相手は高校生だよ?」
「うわー、気に入らない同期をばっさり退職に追い込んだ人とは思えぬ台詞」
「相手は部長の愛人であることをかさに独裁してて、っていうのは無視?」
 じろりと睨みつけると京野は手を挙げた。降参のポーズだ。
「それに、たまたま部長の奥さんが叔父の知り合いだっただけで、私は何もしてないからね。こういう人いるんですけど心当たりないですかって言っただけ」
 その結果、あまりありがたくないあだ名をちょうだいしてしまったのだが、せめてもうちょっとかわいらしかったらと思う。何故そんな日本酒か酒のツマみたいなのだろう。
「仕事ができればよし! 目標が達成できればなおよし。ねえ、京野。男の子が女の子に出会うにはどうしたらいいと思う?」
 箸をくわえて、京野はきょとんとした。
 そして、急にとろけるみたいににまーっとする。
「なに、紹介しろって言われたの? 言われたのね? 高校生やるぅ」
「違うって。ちょっと恋した方がいいよなーって心配になる子がいて、その子がどうやったら女の子と出会って、誰か好きにならないかなって思ってるの」
 がっはっは、とテレビが笑った。
 しばらくして後、ため息。
「……なに、そのため息」
「内藤、あんたおせっかいが過ぎるわよ。自分のこと考えなさい。このままじゃあんた、その調子で三十になるわよ」
 無表情なくらいに呆れ返られ、うっと思ったが、ない胸を張った。
「それのどこが悪い!」
「あんたが心配するのと同じことよ。恋をしないあんたの人生が心配。……そりゃあ、十代の頃と比べて、簡単にくっついたり離れたりできないけどさ」
 知った顔で箸を振り、ビールを煽る。
「好きな子なんて、できるときにできるし、できない時にはできないもんよ。無理にくっつけたって続きやしないわ」
「でも、誰も好きになったことないなんて言う子、すごく心配になるでしょ? その子、自分のことなんて誰も好きにならないなんて思い込んでるんだよ。せめて私くらいは好きでいてあげたいんだけど」
 相手は十七歳だから過度にならないようにしないと、と唇を尖らせた。
 京野は酒臭い息を佑子に吹きかけた。
「うっ!?」
「ばーか。ばかばかばーか。そういうのをエゴって言うの。あんたは大人の感傷で高校生に優しくしたいだけよ。大人の分かったような顔って、すっごいウザイって知ってる?」
「う……」
「守りたいだとか救いたいだとかってエゴにも程があるわ。貫き通せば美談よ? でも、そんなまっすぐな大人なんてこの世にいないって、あたしたちにはもう分かってるでしょう」
 強く、辛い、現実だった。
 京野は言う。あっさり喉を通るようになったビールをごくごくと飲み干して。
「そういう自分が恋もしないのに、高校生に恋愛させようなんてちゃんちゃらおかしいわ。馬鹿、阿呆、間抜け!」
「だ、だって……」
 だって、別に恋人なんて必要ないし。そう言おうとして、引っかかるものがあった。
(あれ?)
 必要ない。そう思った自分の声が、常磐の声と重なる。
 迷惑そうな声。表情。
(それって、すごく……)
 恋なんて必要ない。佑子は自分のことをそう思う。それは、今でも十分楽しいからだ。恋人がいないということは寂しいものであっても、佑子は別に、それで生活を不自由するわけではない。それでいい人だっているだろう。
 でも、あの人形めいた平坦さを装い、見せる感情といえば鋭いだけの常磐は、決して楽しそうには見えなかったから。だから恋をさせてみせるなどと思ってしまって。でも常磐の表情や態度を見る限り、導き出される答えは。
「……うああああ!! すっごい迷惑なことしてたあああああ……!」
 ということになる。
 やってしまった後悔と自分の最低さにどん底に沈んだ。
 埋めたい。過去を埋めたい。やってしまったことをなかったことにしたい。あの啖呵を、今の自分を消してしまいたい。というか埋まりたい。とにかくこの恥ずかしくてたまらない気分をどうにかしたい。
 畳んで重ねてあったタオルを引っ掴み、顔を押さえつけながら、床をごろごろと転がり、足をばたつかせる佑子を京野は呆れた目で見やり、ため息をつきながら頭を掻いた。そして膝で立って上半身を伸ばすと、冷たいものを佑子に押し付けた。
「そういう時は、これよ、これ」
 ピンクのタオルの向こうに、水滴をまき散らして揺れる銀色の缶がある。
 明日から頑張るための元気の源。大人のための魔法の飲み物、その名はビール。
 佑子は起き上がると、すんと鼻をすすり、息を吸い込んだ。
「……よおし、呑むかぁ!」
「おうよー!」とトロフィーのように缶が掲げられる。


 ピンポーン。聞こえたインターホンの音に聞き覚えがなくて、佑子は重たい瞼をあげる。見慣れぬクリーム色の天井。ここはどこだっけ。
 くん、と嗅いだ空気は鼻につんと来て、朝のそれでしかない。わずかにアルコールのにおいがしていた。昨夜は冷蔵庫のビールを空っぽにして、結構いい勢いで酔ってしまって、京野に乗せられるまま、週末に呑もうと思っていたワインまで開けてしまった記憶がある。目を動かすと、京野のふわふわした短い髪が見えた。ぐっすりだ。
 起き上がると、酩酊感と睡魔の名残がごたまぜになって、胃の中がぐるりと回った。時計を見る。かすむ目をしばたたかせながら読み取った針は六時半を指していた。支度をしなければ。
「京野。京野、そろそろ起きな」
「……んー……」
 色っぽい声をあげて寝返りを打った。その胸元にタオルをかけてやる。職探し中ということだから、まだ起きなくても大丈夫だろう。それよりも自分の用意をしなければ、早速遅刻という不名誉な記録ができてしまう。
 またインターホンが鳴る。家の内側で響いたそれに、そうだ、これは家だとようやく気付いた。訪ねてくる人もいないので、インターホンの音を初めて聞いたのだった。急いで出る。
「はーい、……!?」
「おはようございます。朝早くからすみません」
 秋口の朝らしい白っぽい空気の中にいたのは、羽宮常磐……でしかなかったのだが。
(何故、満面の笑み!?)
 ビフォーとアフターを並べたら同一人物か疑われるレベルだ。氷のような暗いオーラは一掃され、朝というだけではない、金色に輝くきらめきが、彼の表情にはある。大変喜ばしい。喜ばしいが、一体、どういうことだ。
「一晩、ゆっくり考えました。考えて、決めました」
「な、なにが……っ!?」
 その手を取られた。ひっと悲鳴を上げる。
 握られた手が熱い。目が吸い寄せられてまばたきも許されない気がしてくる。何か言えば破裂しそうで言葉も出ない。
 そして、常磐は強い調子で言い放った。
「あなたじゃ、だめですか」
「え?」
 あれ、常磐君、すごく顔が赤い。熱でもあるのかな。今日もいい天気みたいだし、暑そうだ。その制服は暑いよなあ。かっこいいしすっごく似合ってるけど。声をかけようとして、できなかった。
「佑子さんを好きになっちゃ、だめですか」
 石のように固まる。
 何を言っているのか分からない。でもここで倒れなければとんでもないことになる気がする。滲み始めた焦りに追い打ちをかけるように、どこまでも真っすぐな瞳で、彼は言った。

「佑子さんに、恋をさせてください」

 背後で「おお……!」と喝采した京野にどうか嘘だと言ってと佑子は真剣に祈った。

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