第五章 負けるものか

 一人暮らしの部屋で、びっくりするくらいの音量で家の電話が鳴る。どうせいつものセールスだろうと思って何気なく取ると、聞こえてきたのは『夜分遅くに申し訳ありません』という丁重な断りの言葉だ。
『内藤佑子さんのお電話番号でしょうか? わたくし、嵯峨氏の秘書をしております伊原と申します』
 しかし続く言葉は思いがけないもので、誰だ? と思ったが、すぐに思い当たった。
「黎明学院の嵯峨理事の代理人の方ですか?」
 はい、と聞き取りやすいはきはきとした声で肯定される。
 嵯峨氏。理事の一人で、羽宮や香芝と同じように『暁の書』を子どもたちに捜索させた人物。佑子が黎明学院にいることを知り、直接コンタクトを取ってきたわけだ。でも、よく考えると、一番最初に接触を持ったのは羽宮氏だ――何かを掴みかけたが、『もしもし』と応答を求められ、慌てて返事をした。
「そうです、わたくしが内藤です。どういうご用件でしょうか?」
『内藤女史にお会いしたいと嵯峨が申しております。それに香芝氏も同席させてほしいということで、お願いのお電話をさせていただきました』
 わー……と気が遠くなりそうだった。理事二人。どんな話をされるかは、もう想像がつく。『暁の書』の行方はよほど知れないらしい。
 しかし、ちょっと興味が湧いてきた。幻の書、というだけで心が躍るのは本好きな文学部出身としては仕方のないことだろうと思う。どんな古書なのだろうか。
「分かりました。お会いします」
 都合のいい日を挙げていくと、スケジュールを確認する間があって、週末の土曜日に、学校でということになった。学校というのが不思議だったが、彼らは理事だ、別に学校に足を踏み入れても不思議ではない。しかし学校を選んだということは、メンバーに入れられていない羽宮氏に対しての挑発か。
(ちょっと大人の事情がうるさくなってきたな……)
 苦々しく思いながら丁重な挨拶に頭を下げつつ応え、電話を置いた。
「――…………」
 口を覆い、腰に手を当てて、思考に沈む。
 次期理事長になる権利を手に入れられるのは、『暁の書』を手に入れた者。理事三人の中からという限定はされていないが、理事でもない人間が理事長になるのは難しいので、関係者以外は除きたい。だが、香芝に尾野辺がいるように、それぞれの派閥に与する者がいないとは限らないだろう。だが『暁の書』の情報はほとんどないというのが分かる。単純に、内藤家である佑子が最も持っている可能性が高いと見なして突いているだけなのだろうからだ。
(情報が欲しいな……。本の形体とか、本当に実在しているかとか)
 そう、嘘という可能性もある。大体、そんな子どもじみた後継者争いがあるだろうか。加瀬理事長の人となりは知らないが。
「この課題、何かある気がするんだよね……」
 独り言を聞く相手は人形のミキ様くらいしかおらず、覗き込んだガラスケースには佑子の顔が映った。湿気を保つための水がそろそろなくなってきていることに気付き、明日の朝に換えようなどと思って視線をふと横にずらすと。
 長い髪、その間で笑う唇。
 ――ふふ。
 ぎょっと振り返った先には誰もいない。
 遅れて、心臓がどっ、どっ、と打つ。
(……今)
 何か。
 ごくんと喉を鳴らすと、急いでテレビを点けた。音量をいつもより上げて、騒がしい色彩と音を流すテレビを見る。次の瞬間素早く振り向き、台所の窓や、食器棚のガラスや、玄関を見るが、やはり誰もいない。
「……き、気のせい気のせい!」
 明るく言って机の前に座り直した。だが、玄関に背を向けるのではなく、机を引き寄せ、壁に背中をつけて横向きに座り直す。気を取り直すべくくるりと回したペンの先が、まだ動揺で震えていたせいか教科書に引っかかり、慌てて消しゴムをかける。図書館はともかく、学校図書館の知識や運営についてあまり自信がないので、帰宅後は勉強時間を作っていた。
「……ん?」
 そこで、ある単語を目にとめた。
「あっ……!」と声が漏れ、背中にぞくぞくと快感のようなものが走っていく。これだ、と目眩にも似たひらめきがあった。



 次の日、登校してまず、図書館の開架で最も古い蔵書目録を取り出した。
(学院創始の書だとかいうんだったら、目録に載っていてもおかしくないはず!)
 学院創立は大正十五年。『暁の書』は一九二五年以降の蔵書に入っていると考えられる。目録をめくっていくが、ひとつひとつ確かめてみても、『暁』という言葉の入っている怪しい本は見当たらない。小説のタイトルや作者も当たってみたが、よく知られている作品ばかりで、創立に関係した資料である可能背は低そうだと、チェックするだけに留めた。
 だったら表に置いていない本だ。
 図書館を施錠し、書庫に向かった。棚に並べてある開架以外の資料は、図書館から出てすぐの書庫に収められている。鍵のかかる鉄製の防火扉を開くと、中はやはり埃っぽかった。明かりを入れた途端、久しぶりに空気が動いたためか霧のような埃がにおう。虫が出たら嫌だなあと思いながら足を踏み入れた。人気の感じられない空気は、肌でも感じられる。冷たく、暗く、湿った感触だ。
 棚がずらりと並べられており、鍵を開けて本を取り出した。本もまた埃っぽく、開けば、ごわごわとした古い紙とインクの香りが立ち上る。佑子は、ちょっと眉間に皺を寄せた。
「……読めない」
 旧字体で書かれているのだ。読めないことはないが、一苦労する。だがここで読むのは少し気味が悪い。薄暗いし、虫や鼠を見つけそうで嫌だ。やれやれと本を抱えて出ようとすると、声がした。
「ここで何してる」
「香芝」
 通り道を塞ぐようにしてこちらに来るので、佑子は身構えて下がった。彼は目を鋭くし、佑子の抱えている本を見ると、顎を上げて言い放った。顔がいいので、傲慢な王子様そのものだった。
「それを寄越せ」
「……ただの蔵書目録だけど?」
「寄越せと言っている。『暁の書』に関係あるんだろう?」
 本が重い。手から落ちそうになる。落としてはならないという意識でつい動作が鈍くなり、そのまま本棚に背中をぶつけてしまった。その隙に距離を詰められ、強い力で手首を握られる。本を取り落とすのは防がねばと踏ん張ってみたものの、優男の外見とは裏腹に、香芝は骨が痛むくらい手を掴んできた。
「いっ……! ……たいんだよこの馬鹿!」
 思わず右手の本の角を彼のこめかみに入れた。香芝はその勢いで横に吹っ飛んだ。
「本を落とすでしょうが!」
「その角で殴ったのは誰だ!?」
 相当痛かったに違いないのは、右腕がぶるぶるしているのでよく分かる佑子だった。だがそれで吹っ切れてしまった。袋の口が勢いよく開くように、もう何もかも言ってやろうという気になった。本を持った手を腰に当て、同じように本を持っている手を突きつける。
「私は『暁の書』なんて持ってないの! だからいい加減私を狙うのは止めな。十七歳だったら犯罪になるよ!」
「なんのことだ!」
「とぼけないで。図書館の梯子に細工するとか、上から水の入ったバケツひっくり返すとか、生徒たちも操作してるでしょ! それから泥棒とか!」
「全校に通告は出したが他は知らん!」
「はあ!? でも実際……」
 佑子は言葉を止めた。
 ぎいいい。蝶番の軋む音がした。ものすごくいやな音だった。
 差していた外からの光が消え、薄暗いオレンジ色の電灯だけが濃く書庫内を照らし出す。ごん、と扉の綴じる重い音。異変を感じた佑子は本を持ったまま扉に飛びついた。
 がちゃん、とだめ押しのように音がした。
 押して、引いてみるが、扉がびくとも動かない。
「おい、どうした、なにふざけてるんだ」
「ふざけてない」
 声まで青ざめた。
「閉じ込められた……」
 香芝が佑子を押しのける。彼もまた扉を押して、ノブを引いてみるが、錠の引っかかるがちゃがちゃという音が響くだけだった。

前頁  目次  次頁
INDEX