苛立ちに似た焦りに、唇を、思いっきり噛み締める。このままでは、弱くなってしまう。だから力一杯、叫んだ。
「――わああああ鼠だああああ!!」
「きゃあああ!」
「うおぅ!?」
 少女のような悲鳴を上げて香芝が佑子に抱きついた。自分より体格のいい彼を支えきれずよろめたい時、ぶつかるはずの扉は外に開いて、佑子は香芝もろとも倒れ込んだ。背中をしこたま打ち、息が止まった。
「いっ、たぁ……」
「内藤さん!? 香芝くんも……」
 三年生の学年主任の驚愕と困惑を聞く。
「そ、その体勢は……」
 ん? と思って見てみれば、香芝が上に乗っている。
「……!」
 急ぐあまりに彼の鳩尾に膝を立てた。うっと呻いて香芝が転がる。
「失礼しました」
 ささっと服装の乱れを直し、立ち上がる。もちろん笑顔を貼付けてだ。
「一体書庫で何をしていたんですか!? まさかいかがわしい、」
「香芝君が入ってすぐのところでつまずいたんですが支えきれなかったんです。そこへ扉が開いたものですから、一緒に倒れてしまって」
「生徒と密室に二人きりなんて、」
「つまずいて、倒れたんです」と佑子は教諭の懐に入って、一言一言噛み締めさせるように目を見て言った。その上で香芝に二割増し上品な笑顔を向ける。
「香芝君、怪我がなくてよかったわねえ、私を下敷きにして。つまずいて倒れるなんて。気をつけてね。川岸先生、生徒は身を挺して守らなくちゃいけませんよね。つまずいたのもちゃんと支えてあげないとですよね?」
 改めて至近距離での言い分を受け入れてくれたようだ。川岸教諭は細かく頷いた。そこへ、我を取り戻し立ち直った香芝が前へ出た。
「申し訳ありません。内藤さんに手伝いを頼まれて中で作業していたら、誰もいないと思われて鍵をかけられてしまったようです」
 庇ってくれるのは意外だった。教師に対するせいか、心なしか貴公子然とした顔をしている。傲慢王子様もやるときはやるものだ。
「え、それは危ないなあ! 大丈夫だったかい? いや、図書館が開いていないと言うし、書庫の扉が中から叩かれているみたいだと言われて、どうしたのかなと思ったんだよ」
「すみません。ありがとうございました。助かりました」
「いやいや、それなら知らせてくれた生徒に言いなさい。ほら、羽宮くんに」
 ぎくっと心臓が跳ね上がる。知らないうちに常磐が立っていた。彼は微笑していいえと首を振り、佑子を見る。反射的にまたびくっとしてしまった。彼に何も言えない自分がいる。恐れが胸にあるのを自覚した。しかしその視界を、背中に遮られた。
(香芝?)
「…………」
「…………」
「内藤さん、図書館、早く開けてやってくれる?」
 無言の対峙に、のんびりとした川岸の声が上がる。
「あ、すみません! すぐ行きます」
 駆け出そうとしたとき、香芝に手を取られた。何かを押し付けられたので、見ると、きれいに洗ったタッパーだった。
「返す」
 佑子は呆れた。
「この前の? かさばるのに、今日一日ずっと持ってたの? さっきも? 朝イチで返しにきたらよかったのに」
「う、うるさい! 俺は忙しいんだ。お前とちがって!」
「まあいいけど。食べてくれたんだ?」
 香芝は忙しなく目を動かし、ぼそぼそと言った。
「……めずらしい味だったが、まあ悪くはなかった……単にめずらしかっただけだぞ!」
 笑い声を立てそうになり、口元を抑える。
「そう。悪かったね、無理に食べさせたみたいで」
「別に悪いとは言ってない!」
「あらそう。……君も気をつけて。それじゃあ」
 常磐の方は少し見ただけだった。彼は物言いたげにこちらを見ていたが、気付かないふりをして図書館へ走る。



 内藤佑子が去ると歩き出した羽宮常磐の肩を、思いっきり掴んで引き止めた。だが反射のように激しく振り払われる。想定した反応だったので腹も立たなかった。
「お前じゃないんだな?」
 重く尋ねると、抑揚のない声で返答がある。
「何が」
「閉じ込められた」
 羽宮が足を止める。聞くつもりがある姿勢だと判断した。
「あの女、狙われてる。梯子に細工されて、バケツの水が降ってきたと言っていた。その上さっきまで閉じ込められていた」
「……それが?」
「先の二つはともかく、さっきのが俺を狙ったものなら、お前には俺に対する動機がある。あいつは巻き込まれただけだと考えられる」
「同じ理事家の子を蹴落とそうって? 悪いけど、僕じゃない。そう言うなら君は? 彼女、手に擦り傷があった。君に心当たりがないらしい二つの件も、君の仕業じゃないよね?」
「見くびるな」
 答えながら、よく見ているな、と意外に思った。誰にも関心を寄せない風だったのに、こいつはこんなだったろうか。それとも、何か変わるようなきっかけが?
「ならいい」
 うっすら笑った顔に寒気を覚えた。
 歩き出したヤツにはもう聞く気はないという意志が感じられた。足は図書館へ向かっているのだろう。毎日通っていることには調べがついている。だが、何を考えているのか。
「香芝、遅かったな」
 声が降ってくる。階段から降りてきたのは尾野辺だった。
「災難に遭ったんだ。おい、尾野辺。羽宮の周辺はどうなってるか分かるか?」
 尾野辺は眉を寄せた。羽宮の名前がまた出たことが意外だったのだろう。
 内藤佑子は羽宮を異常に気にしていた。あれが女子高生であれば単純に羽宮の周辺を探ろうとしているのだと思えるが、二十五歳の、赴任してきたばかりの司書が、ひとりの生徒を気にするのは普通ではない。羽宮の話を聞いて、妙に動揺していた。内藤佑子は、家や個人関係なく、何らかの理由で羽宮と関わりがあるのだ。
「羽宮か」と尾野辺は呟いた。
「羽宮は、古くは剣守の家系だ。しかし、今の当主はよくないな。私の邪魔をして、いけない」
「……尾野辺?」
 尾野辺は妙に赤い唇で笑った。
「香芝も、嵯峨も、みんな私の邪魔をしていけない。それにお前、せっかく二人っきりになったのに、意気地がなくてだめだねえ」
 混乱する。どうしてそんなことを知っている。いつ内藤佑子と二人気で閉じ込められたと説明した?
 いや、その前に、こいつは誰だった(・・・・・・・・)
 俺を壁に追いつめて、尾野辺はくすくす笑った。まるでその声は少女だった。
「それで、羽宮の何が知りたいの、香芝?」
 階段に、やけに濃い影が伸びていた。縦に大きいそれは、髪の長い女のようで――。
 ふと気付くと、階段を上がろうとして、壁に手をついているところだった。
「……?」
 どうやらぼんやりしていたらしい。内藤佑子も、羽宮常磐もいなくなり、あまり使われない廊下に、一人で立っていた(・・・・・・・・)

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