駅に到着すると、仕事帰りの大人たちや、他学校の子どもたち、ようやく部活を終えた黎明の生徒たちだろう、スポーツバッグを足下に置いて、電車を待っているのが見られた。
(なんか、つかれたな……)
 だから電車で帰ることにしたのだ。眉間を押さえる。頭の働きが鈍く、頭痛になる予感があった。目の奥も鈍く痛むので、かなり疲労がたまっているようだ。気疲れもあるのだろう。いつ危険な目に遭うかと注意を払って気を張り詰めて。生徒たちとの関係もいいとは言えない微妙なところだし。今日は閉じ込められたことがなかなかきいた。
(私、もうあそこにいない方がいいのかも)
 目が痛みとは違う感覚で熱くなり、いけないと空を見上げた。ホームの屋根から秋始まりの空に星が見えた。夏の大三角形ももう終わりだ。
 目をホームに戻すとスーツ姿の女性の姿が目に入った。これから帰宅するのだろう。かつて自分もそうしていたことを思い出すと、無意識に呟いていた。
「次の仕事、探した方がいいのかもなあ……」
 目を閉じてため息を逃がす。
 その時だった。
 どんと衝撃があり、思いがけなかったために膝が崩れた。
 鞄が飛んだ。中身が飛び出す。
 かしゃーん、と携帯電話がホーム下に落ちる音がした。
 電車待ちをしていた人々が何事かと注目し、駅員が駆けつけてくる。
「大丈夫ですか!?」
「お怪我はありませんか!」
 どっ、どっ、と動悸のする心臓の確かさを自覚する。佑子は声もなく悲鳴を上げた。
(う……そでしょ!?)
 突き飛ばされた……!
 線路の砂利の中に、携帯電話につけていたストラップの天然石の薄ピンクが、破片になって光っている。粉々、だった。
 背後の人が、咄嗟に佑子の腕や腰に回した腕の力を強くした。首をわずかに巡らせると、繊細な少年の顔がある。
 どく、どく、と動悸がする。
 彼は、敵、それとも、味方?
「大丈夫です」
 急に血が下がったからか目眩があって、意識はふわふわしていたが、割としっかりした声で返事をしていた。
 携帯電話と荷物が拾われる中、彼は背後から佑子の肩に顔を埋めた。抱きすくめられるような形で、佑子は動けない。例えば、このまま突き飛ばされれば。
 手を引いて佑子を立ち上がらせた羽宮常磐は、ただ佑子の手だけに触れて、最後まで何も言わなかった。ホームに電車が滑り込み、ごっ、という風の音を耳の奥の方まで響かせた。乱れてしまっていた髪が、勢いよく頬や目に叩き付けられる。
 常磐は微笑みのまま、佑子がやってきた電車を気にするのに気付いて、手を離し、黙って見送ろうとする。
 佑子が彼を避けようとしたことに気付いていると悟って、自分の子どもっぽい振る舞いを、恥じるよりも憎らしく、苦しく思った。
 何か。
(言わなくちゃ。何か……)
 ――あなたは僕が守ります。
 必死になる自分の内側でそんな声、そして何かが光るような綺麗な音が響いた。
 忙しなく鳴り響く発車メロディ。出発のアナウンスが佑子を急かすが、何も言えない。言うべき言葉が見つからない。ありがとうと言うべきなのに、それはふさわしくないと感じて、胸の奥は焦燥と切なさで震えている。
 私は、逃げようとした。向き合わなかった。
 なのに彼はここにいる。
 一度離れた手を佑子は思い切って掴んだ。常磐は瞳も揺らさず佑子を見つめ続けて、ただ、感触だけに嬉しそうに、柔らかく小さく顔をほころばせる。
 笑えと、そう言った自分を覚えている。
 笑顔を浮かべながら行う気遣いと優しい態度が辛くなる気持ちは、分かる。『いい顔』というのは際限がなく、親しい人にもなかなか本音を言えなくなって、『本当の自分はどれだろう?』という穴に落ちてしまう。真面目で優しいみんなが大抵落ちる穴だ。二十歳を過ぎればそれなりに割り切れるようになって、自己も周囲の関係もさっぱりしてくるが、常磐は、やっぱりまだ十七歳で。笑っているよりは、全部を遮断した方が楽だと思ったに違いない。
 誰も本当の彼を見つけてあげられなかった。
 自分だけを見て笑う彼が、すごく辛かった。
(……胸が、痛い)
 いつものように叫び出したくなるようなときめきではない。
 私は、こんな彼の思いに見返るだけのものを、あげたことがあるのだろうか。
 佑子が踏み出せない一歩を、常磐が踏み出した。佑子を車内に押し込んだのだ。吐息するようにドアが閉まり、夕闇のホーム、黄色く光る車内灯で照らし出された常磐は、口だけで「また明日」と言って、にこっとした。
 その笑顔も、あっという間に速度を上げた電車にあっという間に見えなくなった。
 呆然とした心地でアパートにたどり着き、閉めたドアに背中をつけると、気が緩んだのか、足から力が抜けてずるずると座り込んだ。たまらなく泣きたかったけれど、色々ありすぎたせいか何も考えられず、ただ目を閉じて、膝を抱えた。
 明日の朝、また常磐が笑うように。彼の側にいられる人が一人でも増えるように。そんなことを絶えず願っていた。
(あんな顔を、させたいわけじゃなかったのに――)

 部活動の声がグラウンドから聞こえ、佑子の、玄関ホールに響く靴音と混ざり合い、ため息と重なって、もやもやと立ちこめたように聞こえた。階段をのぼりきった先の廊下に生徒たちがいたが、佑子を見て一瞬口をつぐみ、背を向けるようにして話し始める。
 あんな顔を。繰り返す思いに目を伏せる。
 笑ってほしいと思っているのに、信じられる人間がこの世にひとりしかいないみたいな。
 私は、そんな人間になりたいわけじゃない。彼に、もっと大きな大切なものをつかみ取ってほしいと思っているだけなのに。
(……ああっ、だめだ、こんなんじゃ負ける!)
 今日は嵯峨氏と香芝氏との会談の日だ。何があっても「知らぬ! 存ぜぬ! 言っている意味が分からぬ!」で通すつもりだ。理事になるような成人男性を相手に、意志を貫けるほど強気でいられるかは、考えると弱くなるので止めた。
 黒塗りのハイヤーが静かに、レトロな校舎の前に停まる。時代が時代なら髭の紳士か正装のお嬢様が降りてきそうだったが、残念ながら現れたのは細身の老人と香芝で、彼らが校内に入ると同時に停まったもう一台からは、眼光鋭い父子が降りてきた。
 校長室で待っていた佑子は、ノックの音に返事をし、どうしても浮かんでしまう緊張の面持ちで二人の理事を迎えた。香芝の顔が見えたときにはほっとした。知った顔があるのはいい。眼鏡をかけシャープな凄みを持った少年は嵯峨生徒会長だろう。父親とよく似ていた。
「内藤佑子さん?」
 口火を切ったのは嵯峨氏だった。はい、と頷き、挨拶を口にしようとした瞬間、「『暁の書』はどこだ」と嵯峨理事は詰め寄った。
「内藤家が持っているという調べはついている」
「私は……」
「まあまあ、嵯峨さん。少し落ち着きましょう」
 割って入る華奢なお年寄りに佑子は息を抜いたが、しかし、香芝氏がこちらを見る目は、決して笑っていなかった。
「そうでなければ、我々に本当のことを話すこともできない」
 顔を歪めるように笑って言われ、背筋が震えた。
 これは、面会なんかじゃない。
 そんなことを思い知らされるようなぞっとする胸騒ぎがあった。これはただの尋問だ。そして言うことを聞かせるためだけの。助けを求めようと香芝と嵯峨を見るが、彼らは人形のような、どこを見ているか分からない目をして、黙っている。
「本当のこと、なんて……何もありません。私は『暁の書』なんて持ってません!」
「長谷川豊」
 心臓が、握られたように跳ねた。そしてそれを握りつぶすようなことを、氏は言った。
「あなたの祖父、長谷川豊氏は、かつて黎明学院に教師として籍を置いていた」
 目を見開く。脳裏に、じいさまは学校の先生だから、と言った自分の声。
「加瀬理事長が教諭として学院に赴任してきたのは昭和三十七年から。君の祖父殿が教鞭を振るっていたころと重なる。つまり、君の祖父は『暁の書』を見ていた可能性が高い」
「……飛躍しています」がんがんと頭をぶつけられるような痛みを覚えながら、驚きも恐怖もごた混ぜに絡まる声でなんとかそれだけを言った。
 嵯峨氏は笑う。佑子を何の脅威とも思っていない顔で。
「だが『暁の書』はこの学院にはない。誰も行方を知らない。我々は、まだご存命の教師陣に連絡を取り、行方を尋ねた。話を聞けないのは死者だけでしょう?」
 足場がなくなっていく気がする。逃げられない。じいさま、と声にならない声で呟いていた。助けて、じいさま。このままじゃ、負けちゃう。
 追いつめる獲物を見るように、あなたにはまだまだ秘密がある、と嵯峨氏は嘲笑する。
「羽宮家と手を組んで、一体何を企んでいるんです?」
 蔑んだ目で言われ、衝撃を受けて硬直した。ストレートな敵意。
「内藤家は学校法人から手を引いたはず。なのに羽宮家と縁付こうという。そちらの目的はなんです? 再び理事長に? 仕事が欲しかっただけ? それとも、高校生に手を出すほど不自由していらっしゃるのか」
 侮辱、でしかなかった。香芝ですら眉をひそめ、息子の嵯峨もわずかに視線をそらしている。上司ほどの男性にここまで言われたのは後にも先にもこれが初めてだと思う、それほど下種な言葉だった。
「――……」
「仕事はお世話できますよ。きちんと話をしていただけたら、ですが」
 俯き、唇を噛み締めて、なんとか、一言でもいいから反論しなければと考えを巡らせる。罵倒なんてもってのほか。冷静に、相手をえぐるような言葉が欲しい。でも、偽善的な祈りや願いを唱えてきた佑子の言葉の刃は鈍い。
 相手を傷つけるためだけの言葉なんて、持ちたくない。でも、今、相手に傷を負わせ、辱める言葉を吐き出したいと思っている。
(小娘を脅さなきゃ目標も達成できないなんて、あんたの器が知れる)
 決して上等とは言えない毒を吐き出そうと、して。
 話し声を耳に拾った。縋るように耳を澄ませていたせいだ。それが常磐の声に似ていると思い、眉間に皺が寄る。そんな自分が嫌になった。自分を好きだと言ってくれる少年に甘える私。こういうときだけ誰かに縋る、ずるい私。

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