第六章 届いたのですか

「おはようございます」
 アパートを出た最初の挨拶は、大家ではなく、婚約者からだった。思いがけなかったので一瞬現実感がなく、ちょっと立ち尽くした後、佑子は笑って言った。
「おはよう」
 啖呵を切った土曜日から、日曜日を挟んで月曜日。ドアの前でどこか影を感じさせる笑顔を返す常磐は佑子と同じく、少し、寝不足気味のようだった。
「朝早くからすみません。登校した後、時間をいただけますか」
「うん、大丈夫だけど?」
 では行きましょう、と詳細を明かさず常磐は微笑み、佑子がトートバックをアメフト並みに両の肩を張って下げるのを見て、「持ちます」と手を出してくれた。
「ありがとう。本音言うと、これ、すっごく重いんだ……」
「うわっ、本当だ。何の本です?」
「読み物じゃない、事典みたいな本だよ」
 明らかに一冊ではあり得ない重みに、常磐は感心したらしい。「よく一人で持って帰りましたね」と佑子を賞賛したが、世の中では弱い女子が贔屓される現実を、きっと彼は知らない。
「うん、君はそのままでいてね」
 常磐は無邪気な顔で笑みを浮かべながら「はい?」と佑子の顔を見つめた。
 荷物を置くと、常磐はすぐ迎えに来た。連れられるまま北棟の階段を上り、四階へ向かう。校内は静まり返っていた。この辺りは会議室など使用が限られている部屋ばかりなので人の出入りがあまりないのだろう。
 歩いてみると、ずいぶん古く感じられる校舎だった。廊下はすっかり木材の色が褪せてしまい、モノクロ写真のような、息を吐くにも気を使う静かで粛とした陰影を見せている。よくある横にスライドする窓でも、黒っぽい格子で何者も寄せ付けないような高潔さがあっておしゃれに思えた。外側から見ても相当レトロだが、内側から見ても雰囲気がある。
 西棟に一番近い一室の、上の一部分だけがガラスになっている古びた扉を、常磐は叩いた。それに合わせてガラスががたんがたんと鳴り、そうして、どうぞ、と声がする。
 見上げたプレートには生徒会室とあった。
 もちろん、中に立っていたのは、土曜日の校長室で、後ろに控えながらもあの茶番のような会見に冷笑していた、嵯峨生徒会長。そして、香芝だった。
「おはよう、会長。香芝」
「遅かったな」
 香芝が常に不機嫌そうな物言いをするのは、もう性格なのだろう。さて傍らの生徒会長の性格はいかがなものかと目をやると、その印象は笑顔で拭われる。親しげな顔を向けられたのだ。
「おはよう、羽宮、内藤女史。生徒会長の嵯峨です。先だってはご挨拶できず申し訳ない」
「やあ、おはよう、羽宮!」
 嵯峨に対しての印象が変わりつつある中、飛び出すように後ろから現れたのは槙野だった。
(生徒会長と常磐君と香芝と槙野君……一体これは何の集まり?)
 それぞれを見るが、説明してくれる様子はない。
「突然メールをして悪かった。槙野にメールアドレスを聞いたんだ。槙野、ありがとう」
「いやーここに同席させてもらえるんだからいいさ。三人の会談の場にお招きいただけて嬉しいよ!」
「勝手に来たくせに、ふてぶてしいやつだな!」
 どうやら香芝と槙野は相性が悪いらしい。槙野がカメラを持ち上げると、香芝は一瞬びくっとして、風船が膨らむように大きく胸を張って上から睨みつけている。
「ああ、意外なメールで驚いた。それで、話とは?」
 その様子を横目で笑いながら見ていた嵯峨が言うと、常磐は槙野を気にした。嵯峨は頷いて話を促し、常磐はそうして佑子を見ると、意を決したように口を開いた。
「――あなたたちに協力を頼みたい。嵯峨会長。香芝」
 ひゅうっと槙野が口笛を吹いた。
「とき……羽宮君?」
「高いぞ?」佑子の声は無視される。生徒会長はにこやかだが、笑ってはいない目で常磐を見る。予測していたのだろう、返答は低かった。
「……十月頭の文化祭で、『王子』役を引き受けてもいい」
「槙野、録音したな」
「ばっちり」
 佑子も常磐も言葉を失った。呆然とする前で、嵯峨は槙野から録音機器を受け取っている。言質の固まりを振ってみせ、恐ろしいくらい嬉しそうな顔をしていた。「こういうやつなんだ」と苦々しい口調で香芝が呟いた。
「去年から打診しているのに引き受けてくれないから困っていた。契約成立としよう」
「ちょっと待って! 私抜きで話を進めないで!」
「僕も気になるなー。どういう理由で内藤さんと嵯峨会長、羽宮、香芝が関わってるわけ?」
 掴み掛からん勢いで見据える佑子の後ろで、無害そうな顔をして好奇心を隠さない槙野だった。少年たちは一瞬目を交わし、嵯峨が「槙野、外せ」と会長らしい強い調子で命じた。
「ええー? ……ま、いいけど? 『今後のこと』がやりづらくなったら困るしー? 見返りは予算でいいよ」
「考えておく」
「それじゃあね」と槙野は夜中の猫に似た笑みで出て行った。「やけに素直に出て行ったな」と香芝が呟く。それぞれ何か思うところがあったらしく、常磐が廊下を一度覗いて戻ってくると、一呼吸置いてから嵯峨が尋ねた。
「協力というのは、『暁の書』の捜査協力ということでいいんだな?」
「ああ」
「都合のいいときだけ俺たちを利用して。後でみてろよ」
「君たち、それって……」
 信じられない気持ちで少年たちを見る。
「あれはどう見ても陰湿ないじめだった。ああいうのは、俺の美学に反する」
 慰められろと真っすぐに言った香芝が腕を組めば、大人たちを冷ややかにみていた嵯峨が気持ちよく晴れやかに笑う。
「あの啖呵は気持ちよかったな。『黎明学院は、黎明学院の生徒たちのものだ』。まったくその通り!」
「祖父たちの言うことに、これまで思うところがなかったわけではないんです。あの人たちの物言いを変えることはできないと思っていたから、何も言わなかっただけで……。でもこの、死んでいた気持ちに、佑子さんが息を吹きかけて、蘇らせてくれた」
 それを、なんと言っていいのか。
 感動なのか、興奮なのか、よく分からなかったけれど、彼らが揃い、こちらに生き生きと笑いかけてくるのを見て、何かとてつもなく素晴らしいことが起きているような気がして、胸がいっぱいになった。ガラス窓の朝の光は強く、鮮烈で、それでいてとても優しかった。
 光って、こんなに、綺麗だったんだ。
 頬が熱い。今、顔は真っ赤になっているはずだった。
「だから、あなたの手伝いをしたいんです」
 常磐は言った。
「『暁の書』を見つけ出します。――僕たちで」

前頁  目次  次頁
INDEX