閑話二

 次々と持ち込まれる期日の過ぎた企画書を突き返し、決済した企画書をコピーすべく、私はコピー室へと向かった。そんな雑用は俺がやります、と雑用係化している書記は言ったが、寄るところがあるからと言って生徒会室を出た。
 本音は、一人になりたかったのだ。
 毎日誰かと顔を突き合わせて議論し、するべき仕事をこなして、指示を出し、問題を解決し。日常の合間に行われる非日常の準備に、現実感が次第に失われていく。理由は、生徒たちが醸し出す空気だった。文化祭というイベントに、笑い声は増え、話し声は大きくなり、そんな興奮が学院を取り巻いていく。それをクールダウンさせるためにも、私は必要ならば何も考えない時間や、別のことを考える時間を作っていた。
 コピー室は、冷暖房がないが一人になるのにはうってつけだ。機械的な作業で、いくらでもぼうっとできる。いくら切れ者と言われようと、それを保つだけの精神力は必要で、だから私は自分のことを、普通の人間だと思っていた。
 普通でないというのは、授業を聞かないでもテストで満点が取れるとか、スポーツが万能だとか、誰に対しても優しくできるとか、自分らしさを失わないとか、平坦で無表情でいられるとかのことを言うのだ。そんな人間、滅多にいない。私は機嫌によって態度を左右してしまうし、毎日必死に勉強しているし、スポーツはそれなりにできる程度で、本当はそんな自分を知られたくないから、こうしてコピー室に逃げ込んだりする。
 そんな私を、父は許そうとはしなかった。
 平凡な次男を、彼は常に長男と比較した。私は兄がやったことと同じことを求められた。生徒会長という役職に就くことも、嵯峨家の人間として当然のことだと思われていた。
 馬鹿馬鹿しい、と常々思っていた。しかし現実には、私はまだ高校生でしかない。
 義務的にとはいえ、生徒会長という権威を手に入れたのだ。何か、記憶に残るようなことをしてみたかった。父の、意に反するような。それも、平凡な能力では、何のトラブルもなく生徒会を運営する、ということくらいしか思いつかない。
 職員室の前を通りかかると、羽宮常磐が、東教諭と何か話し込んでいる現場に遭遇した。静かな表情で東教諭の言葉に頷いている。漏れ聞こえてきた会話は「文化祭の後に話を聞くから……」というもので、今この学院を取り巻いている最大の噂が関係していると推測できた。東がこちらを見たので軽く頭を下げてから、コピー室に入った。
 コピー室と呼ばれている空き教室は、埃っぽく、冬場に使われる灯油を入れるためのポリタンクが、奥の方に積み上げられていた。学院の冬には電気ストーブも使われるが、それは化学実験室や各教科の準備室など、危険な場所や紙類が多い場所だけのことで、全十六クラスでは今でも石油ストーブが愛用されていた。
 起動させたコピー機が唸りを立てる。
 扉が開く音に顔をあげると、羽宮が扉を閉めて、こちらに近付いてきた。
「手伝う」
 めずらしいな、と言ってもよかったが。
「ありがとう。助かる」
 そう言ってしまったのは、彼の心情を慮ってのことだった。
 羽宮は黙って三部コピーされた企画書を、放置されていた椅子を三つ並べて、仕分けし始めた。その間に私はコピー機の企画書を入れ替え、蓋をしてコピーしていく。
「大変だね」
 本当にめずらしい。羽宮が自分から話しかけるとは。
「いや。喜んで引き受けたんだ。たまには静かなところにいたい。お前が迷惑だという意味じゃないぞ」
「分かってる」と羽宮は少し唇を引き上げた。
「君のそういう正直なところとか、フェアなところが、僕は好きだと思う」
 眉をあげる。正直な台詞にしても、意図を疑ってしまうストレートさだ。
「フェアか?」
「条件次第で敵にも味方にもなるところがね。きっとそういうのが、君の強さなんだろうと思う」
 そのてらいない微笑みに、本音を言ってやろうという気になった。
「お前、変わったな」
「そうかな」と羽宮は気にしていない様子だった。
「僕はただ単に自分を偽っていただけで……最初からこうだったと思うから」
「引き出してくれたのは、内藤女史か」
 がしゃ、がしゃ、がしゃ、うぃーん。それが三度連続する。古いコピー機は音がうるさい。だから羽宮が何を囁いても聞き取りにくいだろうと、私は彼の顔を注視した。一枚ずつ振り分けてからこちらに戻ってきた羽宮は、皮肉な顔ではなく、苦い笑いを浮かべていた。
「槙野の記事、読んだんだろう」
 号外と銘打って生徒たちに密かに配られた学校新聞のことは、知っていた。生徒会の認可の判を押していない生徒の配布物は処罰の対象になるからだ。槙野は今回の件で、情報屋のような真似事をしているらしい。流すのはもちろん羽宮と内藤女史の日常で、金銭の授受はないが、物を行き交いさせているようなので、そろそろ締めなければならないだろう。
「誰が出元なんだろうな」
「さあ……誰でもいいけど」
「いいのか?」と聞きながらコピー機のふたを開ける。
 羽宮は少し笑った。
「それで終わる恋ならしないよ」
 恋。陳腐で安っぽい言葉だが、羽宮が言うと様になるのは、それまでの本人が凍っているようだったからかもしれない。内藤佑子という女性が、どうしてそこまで羽宮の心に飛び込むことになったのかは分からないが。
「政略結婚なんだろう? 向こうはどう思ってるのか、まだ聞けてないのか」
 彼女と接していて感じるのは、内藤佑子という人間は、政略結婚と聞いて怒り狂うような健常な精神の持ち主だということだ。家のためと言われれば納得できるよう教育を受けてきた私たちとは違う。
「めちゃめちゃ怒ってた。最初」と懐かしそうにくすくすくす、と羽宮は笑った。
「僕がまだ子どもだからだ。今も男として見られてもいない」
 それでも好きなのだというのが、笑った顔に滲んでいる。笑いながらも眉を寄せ、自嘲したい思いでいっぱいになっているのだ。
 がらりと扉が開いた。
「あ」という顔をし、羽宮を見たのは、確か彼と同じクラスの木野下という生徒だった。
「コピーか」
 私が尋ねると、「あ、はい」と彼は頷いた。
「少し待ってくれるか。あと十分くらいで終わる」
「はい。待ちます」
 そうして木野下は羽宮を見た。羽宮は目礼し、私のコピーを椅子に置いていく。
「羽宮、どうしたんだ?」
「……え?」
「嵯峨会長になんか言われたの?」
 私は木野下を見て、羽宮を見た。羽宮は首を傾げる。
「なにか、って」
「あ、いや。気のせいならいいんだ」
 どうやら羽宮の表情に気付いたらしい。この学院内では隠し続けてきたはずの感情をあっさり見られてしまったことに後ろめたそうな顔をして、羽宮は俯く。
 私は言った。
「こいつにアドバイスしてやってくれないか。道ならぬ恋をしてるんだと」
「嵯峨っ!」
 にやりとする。
 噂が噂でなくなればいい。羽宮は何を言われても受け流すことができるだろう。だが、内藤佑子が悪く言われることに傷つくのだ。
 だから噂を、別のものにすり替えてみればいい。こいつの恋心はきっと、全校生徒の胸を打つはずだ。
 面白がっているのは、自覚済みだ。
「それって……あれか?」
 噂の、という言葉を含ませると、羽宮は視線をそらし、私を睨みつけた。笑って受け流す。そんなの、痛くも痒くもない。
 へえ、と木野下は興味深そうに羽宮を見る。
「どういうことで悩んでるの、羽宮」
「…………」
 ぼそぼそと羽宮が呟いたところによると。
「好きになってもらいたいだけなのに、何をしていいのか全然分からないんだ」
 ということらしい。木野下ははーとひれ伏すときのような感嘆を漏らし、羽宮に言った。
「マジなのかぁ……」
「……悪かったな」
「あっ、いやいやいや! 悪いとかそういうんじゃなくてだな。なんか嬉しくてさ。羽宮が俺に相談かって思うと」
 冷たく拒絶しようとした言葉に笑って手を振る木野下を、羽宮は驚いて見ている。木野下はそんなことには気付かずに、腕を組んで真剣に考え始めた。なかなかいいじゃないか、木野下。
「どきっとする瞬間ってギャップがあるんだよな。嫌いだと思ってた人間がちょっといいことをすると見直したり、悪ぶってる人間が優しくすると意外に思えて記憶に残ったり。年下が、ちょっと年下らしくないと、いいなって思うきっかけにならないかな」
「詳しいな、木野下」
「雑誌の受け売りです」
 しかし他校の女子生徒と付き合っているというバスケ部の有力選手は、その手を使ったことがあるのだろう。
「今年の文化祭『王子』やるんだろ、羽宮。その時どきっとさせればいいじゃないかな」
 羽宮は難しい顔をしていた。誰からの干渉も拒絶してきた彼にとって、目立つことは極力避けたいはずだったが、『王子』役は私との契約範囲なので、避けようがないのだった。
「……うん、分かった。ありがとう」
「いいってことよ」
 私は言った。
「羽宮。コピーを手伝ってくれた礼だ、応援してやろう」
 羽宮が「なに?」と顔をしかめる。
「文化祭。いい舞台を用意してやる。手伝ってくれるか、木野下」
 目を丸くする羽宮に、「もちろんです!」と木野下は内容も聞いていないのにいい返事をした。「人数いります? 声かけますよ!」とお祭りごとが大好きらしかった。

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