第七章 このときだけ

 十月。黎明学院では文化祭準備日に当たる金曜日。
 平日の昼間だが、駅周りにそれほど人は多くない。バスとタクシーが緩やかに動いている程度だ。駅前のロータリーをぐるりと回ったところで、白いジャケットにボーダーのシャツ、七分丈のボトムスの足に、更にミュールを履いて背を高く見せている、ショートカットの女性を見つける。京野だ。
 クラクションを軽く鳴らすと向こうもこちらを見つけた。車内にまで聞こえる靴音が心地いい。ずいぶんそんな踵の高い靴を履いていない。
「待った?」
「いやいや、今来たとこ。おばあちゃんにおつかい頼まれたのよ」
 乗り込みながら本屋の袋を掲げてみせる。後ろからバスが来たので、佑子は車を発進させた。
「ごめん、忙しいのに」
「いいわよ、気にしないで。マメシバ君は元気?」
「元気元気。この前も一緒に帰った」
「ふうん、仲良くやってるんだ。あ、そこの信号左に」
 黎明学院の最寄り駅周辺は商店街や団地で密集しているが、そこから都市部へ行った、急行電車が停車するこの駅の辺りで京野と待ち合わせすることにしたのだった。「そのレストランを左」という指示を受けて走れば、スーパーマーケットを横手に見ることができる国道だ。
「しかしびっくりしたわ。電話を取ったら聞いたことある営業ボイスで『内藤と申しますが』って言うんだもの。そこ、そのコンビニの脇入って」
「私も驚いた。京野のおばあさまが――黎明学院に勤めてらしたなんて」
 途端、金色の稲穂を傾ける水田が横手に見える。土地の持ち主だろう停車している軽トラックと民家の横を通り過ぎ、突き当たりまで進んだ住宅が、京野の実家だという。
 車を降りると、京野は和風の平屋住宅の玄関を開ける。遠慮のなさっぷりに驚きつつ、実家への態度はどこも似たようなのかなと笑って、道路脇に車を停めて佑子も降りた。軽トラが停まっていても通れるくらいだから、しばらく置いていても構わないだろう。
「失礼します」という挨拶の声に現れたのは、小柄でほっそりした中年の女性だ。
「先日お電話いたしました内藤と申します。波野先生はご在宅でしょうか」
「まあまあ! 娘からお話はうかがってます、美優の母でございます」
 自然と笑みが浮かんだ。顔がよく似ているのだ。
「内藤上がってー」
「どうぞどうぞ! 狭苦しいですが」
「失礼します。これ、つまらないものですが。ご家族で召し上がってください」
 駅前で購入してきた和菓子の詰めあわせを渡す。今が旬のさつまいも餡の大福と普通の大福餅だ。それだけで京野の母は感激した様子で丁寧に頭を下げてくれる。
「先日も娘がお宅に伺ったとか。よくしていただいて。今後とも娘をどうぞ……」
「内藤、もういいから! お母さんも引き止めないで!」
 苦笑しながら「こちらこそ」と会釈して、京野に続く。
 天井が低いところが実家を思い出させる。しかし京野宅は箪笥の上に細々したものが置かれて、廊下の角に生けてある花は庭のものらしいというような生活感に溢れていて、人の温もりで満ちていた。京野は奥へと向かう。どうやら離れがあるようだ。
「教師一筋の人でねー。その縁で私、黎明の近所の愛芯学園って女子校に放り込まれたのよ。でも時代が時代だったら黎明学院に入学させられてたわね。男子校になっておばあちゃん嘆いていた」
 なるほど、それで初対面の香芝に親近感を覚えたわけだ。思えば理事長の後継者問題について京野も知っているようだった。彼女の祖母からの情報だったのだ。
 障子をこつこつと叩いた。
「おばあちゃーん、おばあちゃん、内藤さんが来たわよ!」
 返事を待たずに開けてしまうのでびっくりした。部屋の籐椅子に座っていた白い髪の夫人が、こちらを向いて上品に笑った。
「みぃちゃん、騒がしいわよ」
 うっと京野が後じさる。そのまま下がり、ごゆっくりーと佑子に囁いてそそくさと立ち去ってしまった。少々の気まずさを感じつつも、佑子は戸の前で正座し、礼をする。
「突然ご連絡いたしまして申し訳ありません。内藤佑子です」
「初めまして。私が京野、旧姓波野です。どうぞ、お入りになって」
 失礼します、と再び頭を下げて、示された座布団に膝を揃えた。部屋にはテレビと彼女が座っている椅子、机、ベッドが置かれていて、棚にはカバーのかかった本が刺さっている。襖の奥はクローゼットにしているのだろう。部屋はすっきりとまとまっていて、溌剌とした彼女の意識が見えるようだ。
 しかしじろじろ見るのは失礼だった。改めて連絡と訪問を詫びると、波野は微笑ましげに言った。
「長谷川先生のお孫さんでいらっしゃるのね。お会いできて嬉しいわ」
「こちらこそ。突然で申し訳ありません」
 悲しいかな、同じ台詞を繰り返してしまうのは人と接する経験値が少ないせいだ。
「黎明学院に勤めていらっしゃるとお電話で仰っていたけれど?」
「はい。先生がいらした頃は、共学が始まってすぐだったんですよね」
「ええ。近くに女子校があるでしょう? だから女子の一貫教育ではやっていけなくなって、共学に。今は男子校ですってね。つくづく、変な学校ねえ」
 ころころと波野は笑った。
「さて。あなたの用事はもう分かっていますよ」
 まだ笑いの余韻の残る顔で見つめられ、佑子はきょとんとした。確かに『黎明暁星』に関してお話を聞きたいと申し入れたが、貴婦人のように堂々と笑んだ波野は、それ以上に何かを知っている風だった。
「じゃあ……『黎明暁星』について、何かご存知なんですか!?」
「『黎明暁星』は、内藤家が持っています。正確には、長谷川先生が」
 そういうことを、嵯峨氏も言っていた。でも、佑子に心当たりなど全然ない。あのがらくたばかりの祖父の部屋に赤い本なんてなかったはずだ。片付けの際に処分されてしまったのか。しかしそんな大切な本なら自分に託されたはずだと、佑子には自信と確信があった。
「あなたは、『暁の書』を探し出してどうするつもりなの?」
 はっとした。背筋が伸びた。
 ずっとそれを考えていたのだ。
 佑子の理由は、他人を顧みず私利私欲に走る人間に学院を渡したくないというものだ。自分が理事長になりたいわけではない。渡したくはないが最終的にはあの三人の誰かか、それとも別の誰かに委ねるか、決めなければならない時が来る。
「もし祖父が持っていったのだとしたら」
 責任を取らねばならない。
 佑子なりの方法で。
「図書館の本は、図書館に返します。もうずいぶん、返却期限を過ぎているので」
 波野はにっこりした。答えは、どうやら合格点をもらえたらしい。
「『黎明暁星』は厳重に守られているはずです。長谷川先生は私たちに言いました。……『守人に頼んだ』と」
 きっと厳しくも優しい教諭だったのだろうと思わせる声で、波野は言った。
「守人……」
「古くからの知り合いのように、先生は『彼女』と呼んでいましたよ」
 守人。古い知り合い。彼女。頭の中に無造作に放り込んだキーワードが渦を巻き、何かに、引っかかった。
 大事なものは、自分に託されるに違いなかった。
 なら佑子は、祖父に、何を託されたか。

『お守り』

 触ってはいけない台座。童女の人形。
 じいさまが託した、たったひとつの。

「――ミキ様……!」
 ――あの引き出し。
 開けたことはない。ミキ様が開けさせないからだ。引き出しの中はてっきり空だと思っていた。引っ越しの際、重い気はしていたが、単にケースが重いだけだと。彼女はケースを拭くにもお伺いを立てねばならない気難し屋なので、極力触れないようにしていた。
「分かったようね」
 言うべき言葉が多すぎて、見つめるしかない佑子を、波野は追い立てた。
「さあ、早くお行きなさい。でなければ、こんなおばあちゃんになってしまいますよ」
 頭を下げると「気をつけて!」と叫んで波野は楽しげに佑子を見送った。
「ごめん京野! 帰る!」
「え、もういいの?」
 ダイニングテーブルで、手土産を頬張っていた京野が席を立つ。
「うん。ごめん、慌ただしくて。やらなくちゃいけないことができた」
「そう。じゃあ、行きな」
 同じ会社に同じ年に入社して、気があっただけ。来し方行く末を話すほど親しくはなかった。誰かに過去や未来を話すのは、とても勇気がいることだ。何を思って生きてきたか、何を思って生きていこうとしているかを語ることに繋がるから。
 今も説明していない。日々の愚痴を言い合うだけで、本当のところを話したことはない。
 でも、こうして京野は、背中を押してくれる。
「若いときは短いよ? 内藤」
「知ってる」
 にやっと笑って、どちらからともなく挙げた手を合わせた。
「ちょっと、走っていってくるわ!」
 京野の母親にお邪魔しましたと頭を下げ、車に飛び乗った。すぐに追いかけてきた三人の女性が、夕焼け色に染まった家の前で、笑って手を振って見送ってくれた。
 コンビニのある二車線道路に出た途端、佑子は気持ちだけ急がせて、慎重に家へ戻った。駐車場に車を停めるのもそこそこに帰宅し、息を吸ってから、思い切って玄関の扉を開けた。
 曇り調の窓ガラスからオレンジ色の夕日が差し込んでいる。
 佑子は部屋へ上がり、明かりをつけた。何の変哲もない部屋なのに、違和感がある。誰か別の人間の名残のようなもの。
 いやな予感がした。
 首を巡らせたとき、歯ぎしりしていた。
「――やられた……!」
 部屋のものは何一つ変わっていない。ただ一つ、チェストに座していた、ミキ様の姿がないことを除いては。
 たどり着いたのに。せっかく、本当に託されたものに、気付けたのに。泣くときのうめき声が漏れそうになるのを、額を押さえ、歯を噛み締めて耐える。
 一体、誰が。理事たちの権力でなら、きっと何でも出来るだろう。もし本当に三人の誰かが手に入れたのなら、この戦いは終わってしまう。佑子は嘲笑われ、子どもたちはばらばらになる。
 そう思った時、沸き起こったのはたった一つ。
「誰が、負けるか……!」
 それしか言えないと分かっていても、もうそれしか佑子にはないのだ。

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