二年生教室のフロアは、野太い客引きの声で満ちていた。
「いらっしゃいませぃ!」
「せい!」
 道場か! と突っ込むよりも先に目眩がした。肩幅もあり首も太く声も野太い二年生がぬっと立ちふさがった三組は、メイド喫茶だった。すね毛の生えた足をレースの白靴下に包んでいるだけで、視覚には強烈な武器となっている。
「こりゃあべっぴんさんだのう!」
 しかしおじいさんは楽しそうだ。
 出来るだけ遠くに目をやろうと中の様子をうかがうと、普通のウェイターもいるらしく、女性たちが嬉しそうに目で追っていた。香芝がいた。白いシャツと黒いエプロンのコントラストがなかなか決まっている。
「みんなきらきらしとるね」
 生徒も一般客も行き交う廊下で、佑子に支えられながらおじいさんは言った。
「わしにも同じ時間があったはずなのに、もうずいぶん遠くなってしもうた。変わらないものなどないが、とても寂しい。ここにいる生徒たちは、今が刹那の光であることに卒業まで気付かないというのが切ないのう」
「……そうですね」
 佑子も頷いた。あの頃、高校生。あの日々の本当の切なさを実感できたのは、卒業式とそれからずいぶん後になってからだった。このおじいさんくらいの年齢になれば、その思いはますます強くなっているのだろう。
 いつの時代も、未熟だった人たちは、未熟だからこそ輝いて。愛おしくて。強く鮮烈に。鮮やかに、大人になった自分たちの記憶に残っている。
 佑子は、今は現実に、学校に職員として入ることで見守っている。そうしているのは眩しくて、少し、寂しい。自分はもう彼らと同じものにはなれないのだから。
 そんな風に気を取られていたら、目の前に二つの影が立ちふさがった。
「そこの司書待てーい!」
「待て待てーい!」
「変態だー!!」思わず本音が口を飛び出した。
 目の前に立ったボディコンに、蝶々を模した派手な仮面の男子生徒は、揃ってたくましい腕を組み、雄々しい声で言った。
「我々は変態ではなーい!」
「我々は愛のメッセンジャーなのであーる!」
「というか二年三組の子たちでしょ。何やってるの」
 愛のメッセンジャーはどう見ても、発禁すれすれのただの変態だ。おじいさんは目をぱちぱちさせている。しかし、彼らはなりきっていた。
「我らー総統の命によりー、司書殿をー、連行するのであーる!」
「確保ー!」
「え、ええ!?」
 がっしり両腕を掴まれ、廊下を引きずられる。
「おじいさん、失礼するのであーる!」
「お騒がせしましたのであーる!」
「ええよーええよー」とおじいさんは過激な服装とは裏腹に礼儀正しい生徒たちににこやかに手を振り、佑子は「嘘ぉ!?」と叫びながら、二階フロアのさらし者と化した。
 佑子を拉致した二人組は、中央棟から北棟へ移動する。一気に行き交う人の華々しさ、コスプレ度が上がっている気がして驚いていると、二人は被服室と書かれた扉をがらりと開け、佑子を放り込んだ。
「被服室って……」
「いらっしゃいませー! 衣装レンタル『金糸雀』でーす!」
 いらっしゃいませー! と少女たちの声が唱和する。
 カナリヤの声で呼び込みをしているのは、黎明学院にはいないはずの女生徒たちだ。
「予定してた司書さんです。よろしくお願いしますー」
「設定どこいった!?」
 女子校の生徒たちに、サラリーマンのごとくぺこぺこする黎明生。女子生徒たちは二人のむちむちした格好にきゃあきゃあ言いながらも、そこから目を逸らそうとはしない。
「はい、窺っております。おつかれさまでした。控え室にジュースと食べ物を用意しておりますので、よかったらどうぞ」
「あ、ありがとうございます!」
「すみません! ありがとうございます!」
 一気に普通の男子校生徒と化した変態仮面たちは、さっと近付いてきたボブカットの少女に頭を下げ、佑子に向き直ると、ぐっと顔を近づけて言った。
「頑張ってくださいねっ!」
「応援してます!」
「は、はい?」
 じゃ! とポーズを決めて去っていく。呆然と、何を頑張るんだろう、と考える佑子だ。
「それでは、おねえさま、始めましょうか!」
 少女がぱんと手を叩くと、一斉に女子生徒たちが近付いてきた。
「おねえさま、こちらなんていかがですか?」
「どういうものがお好みですか? こちらなどいかがでしょう?」
「張り切ってお衣装を選びましょう!」
「おねえさま、細身でいらっしゃるし、黒髪もお綺麗ですから、白いお衣装がいいと思うのですけれども! ああでも袴も捨てがたいですわね。お着物がお似合いになりそうな背筋のよさですし!」
 かしましい。みんな可愛いしいい匂いがする。ドレスやアクセサリーや化粧道具を手に押し掛ける少女たちに面食らってしまい、にこにことその様子を見守っている、リーダーらしき少女に呼びかけた。
「あの、衣装レンタルっていうのは何のために?」
「黎明学院さんの目玉行事が、仮装パーティなんです。愛芯学園がお手伝いとして参加して、衣装レンタルショップをやるのが恒例なんですよ。代わりにわたくしたちの文化祭にもお手伝いいただくんですけれども」
 それでこの女生徒たちなのだ。彼女たちの制服には見覚えがあった。通勤でよく見かけるのだ。嵯峨の言っていた、女子校からの手伝い要員なのだろう。
 被服室は運び込まれた大量の衣装で埋まっていた。ドレス、着物、袴。何故かゴジラの着ぐるみまである。どこで調達してきたのだろう。教室内では、主に女性たちがきらきらした顔で衣装を選んでいる。納得したところで、少女はドレスを掲げ持った。
「さあ皆様、かかれー! ですわ」
 その瞬間上がった少女たちの歓声に、もしかしてとんでもないことが始まるのでは? と冷や汗が噴き出した。

     *

「嵯峨!」
 呼び込みの声と仮装の行列を縫うようにして、羽宮常磐が声をあげて駆けつけてくる。
「羽宮。メール見たか。香芝は?」
 風紀副委員長の行方を尋ねると、首を振られた。
「後で行くって。忙しくて抜け出せないみたいだった。……見間違いじゃないんだね?」
「多分。実行委員に見回りをさせた。あちこちに黒服の男たちがうろついてるらしい。――要人が来てる」
 二人して眉間に皺を寄せる。上着の中で、さきほどから携帯電話が着信で震えていた。恐らく文化祭実行委員だろう。羽宮と香芝を連れて、生徒会室に行って後夜祭の準備を始めろという指示だ。
「羽宮、お前、この一連のことが誰によって始められたことだと思う?」
「……嵯峨?」
「加瀬大老の課題が始まりだったことは間違いないだろう。だが、何故内藤佑子はここへ来た? 二学期という中途半端な時期に。彼女がやって来たことで、事態は急速に動き始めた。これまで接触が最低限だった私たちが協力することにまでなった。お前は、どうして自分は内藤女史と婚約することになったんだと思う?」
 疑問と問いかけをひとつひとつ吟味していた羽宮は真顔になっていく。喧噪が耳につく。それは自分たちが、立っているこの場所から、冷たく暗いものを見つめているからだ。
 策略。陰謀、誰かの仕掛けた罠。羽宮も香芝も、もちろん自分も、いずれそれが渦巻くところへ行かねばならない。そのための教養、そのための学院だ。やがてやってくる責任のために今を生きている。あの香芝でもそうだろう。こいつも同じのはずだ。だから自分たちは、この黎明学院に存在する。
「……まさか……」
 羽宮の顔が血の気を失っていく。
「祖父が……おじいさまが、全部」
「問いただすべきだな」とそれ以上の言葉を遮断した。
「現状ではただの推論だ。だが裏があるのは間違いないと思う」
「ごめん」と苦しげに羽宮は吐き出した。ありとあらゆる後悔や罪悪感を、口にしようとして、その資格はないと思っているのだろう。
「気にするな。とりあえず、今は『計画』のことを考えろ」
 文化祭の騒々しさを背景に慰めの言葉を口にして、突然、不思議な感覚にとらわれた。お互い不可侵だった、嵯峨、香芝、羽宮の三人が、こうして親しく話すことになるとは思わなかったと思ったのだ。司書室で揃って茶を飲むことなんて想像もしなかった。協力しあうことも。
 特に羽宮。お前は、変わったよ。
 内藤佑子が現れなければ、そうはならなかった。
 込み上げた感傷が思いがけなくて、眼鏡を押し上げる。口に乗せたのは、我ながら陳腐な台詞だった。
「すべての答えは――私たちの前に現れた、内藤佑子という存在にあるんじゃないか?」

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