(つ、つけ睫毛が重い!)
 佑子というイケニエは、少女たちの乙女心に火をつけてしまったらしかった。衣装レンタルのスタッフになっているくらいだから、衣装やメイクに関心があるに決まっている。人間を全身コーディネートできる機会など滅多にないようで、彼女たちは一斉にドレスやアクセサリーを持って、佑子を囲んだのだった。
 毛虫並のつけ睫毛を装着させられる危機に、「メイクは自分で!」と主張したのだが、それでも押し付けられたのだ。市場のセリのごとく枚数を競ってしまった。最終的に二枚になったのだが、仕事ではそんな派手なメイクは必要ないので、かなり抵抗がある。自分が自分でないような。
「体育館に向かってくださいね」とリーダーは微笑んだ。佑子が「どうしてこんなことを」と問うても答えてくれず、返ってきたのがそれだった。そこでお待ちになっている方がいらっしゃいますよ、と言った彼女を始めとした少女たちは、まるで妖精のようだった。
 体育館に向かう階段の踊り場には鏡があった。ドレスは水色と白のグラデーションになっていて、裾だけが人魚のひれのような細かなプリーツになっている。肩も腕も剥き出して、首にはパールとビーズの光るアクセサリーで飾っていた。靴は白。踵は高くない。ずいぶん寒い格好に見えるが、こうして姿見に映すと、胸の奥がじんわり温かくなってくる気がした。いつもまとめている髪は、少女のように下ろして毛先だけ巻いている。
 思わず、微笑んだ。――魔法にかけられてしまったなあ。そんな他愛ない子どもみたいな言葉が浮かんで。
 そのとき、彼女が目に入ったのは、同じように笑ったからだ。
 少女がいた。派手なセーラー服の女生徒は、まるで鏡越しに佑子を見つめるようにして、微笑みかけていた。
(えっ?)と驚いた時には誰もそこにいない。いつの間にか体育館へ続く階段には大きな人波が出来ていて、黒髪や茶髪の頭がひしめきあっている中で、人を捜すのは困難なことだった。
 何だったのだろうと首をひねりつつ、その波に乗る。
 体育館に入ると、眩しさに目を射られた。目が慣れてくると、わ、と声を漏らしていた。
 床は白いシートで敷き詰められ、壁は味気ないコンクリートではなく、イギリス調文様の布が貼られている。さすがにシャンデリアはないが、間接照明のランプが並べられて、オレンジと白の光が混ざりあい、舞踏会の大広間を模していた。
 人の流れは奥の舞台に向かっている。あっという間に後ろは人で埋まった。ドレス姿の女性が多いが、中世貴族のような格好の男性もいる。カップルもいたが、一人も多かった。
 やがて、照明が落とされた。オペラ座の怪人のような仮装をした男子生徒が、マイクを持って舞台に現れる。拍手が起こる。知り合いらしき野次も上がった。
「――皆様、大変長らくお待たせいたしました。これより舞台最後の演し物、そして後夜祭である、舞踏会を開催いたします!」
 再び拍手が起こる。音楽が聞こえてきた。舞台の上の奥に隠されるように設置されたスピーカーが、オーケストラとワルツアレンジされた最近の曲を流し始めたのだ。
「それでは皆様、パートナーの手をお取り下さい。パートナーのいらっしゃらない方は、これも一期一会、お近くの方とどうぞ……」
 周囲にはいつの間にかダンスの輪が出来上がっている。
 男女のペアだけでなく、男子同士、女子同士でも踊っていた。本物のワルツではなく、手を取り合ってそれっぽく回っているだけだ。フォークダンスを踊っている人もいる。ドレスやフリルの服装の男女の中に、戦隊物の全身タイツや着ぐるみの姿もあって、ここが現実なのかちょっと分からなくなってくる。
 手を挙げ、打ち鳴らし、腕のアーチをくぐり抜け。
 ステップを踏んで、レースとフリルが舞う。
 翼のように、手がひらめく。
 女子たちの照れくさそうな笑い声の中で、恋人たちが甘く見つめあい、足を踏んだの踏まないのと男子たちが笑う。初めて会ったペアたちは気まずそうに、でも楽しげに、うまく形にならない円舞を踊る。
 音楽が、明かりが、人の声と表情が、輝く。光を放つ。花のように開く。人を包む。記憶を、刻んでいく。
 一曲目が終わると、自然と拍手が起こった。佑子も手を鳴らす。
 突然悲鳴のような声が響き渡った。驚くと、舞台の上に嵯峨、香芝、そして常磐が、貴公子の姿をして現れたのだった。
 嵯峨は王子というより悪役の方が様になっているような軍服らしき黒っぽい服装に長いマント。香芝はフランス貴族のような派手な襟のブラウスと上着にぴったりしたズボン。常磐は、短いマントに、学生服と変わらないような白っぽい詰め襟を着ていた。
(なるほど、これが『王子』ね……)
 そりゃあ嫌がるだろうなあと噴き出しそうになった。ものすごい黄色の声なのだ。表情を出そうとしない常磐がおかしい。だが会長としての嵯峨の目のつけどころはいいと思った。黎明学院三王子が本当に王子役をやるのなら、女性の集客率は跳ね上がるに違いない。
 人の流れができた。女性たちが、降りてくる彼らに群がっていくのだ。
 後で、かっこよかったよって言ってあげよう。彼らの姿は夢の王子様のようで素敵だった。佑子が声を張り上げる少女たちと同じ年齢だったら、遠くから胸をときめかせて一緒に踊ることを夢見たかもしれない。
 現実は、二重のつけ睫毛に怯む二十五の大人だけれど。
 彼らはそれぞれ女子をパートナーに踊るようだ。嵯峨は愛想よく笑顔で、香芝は不器用だが丁寧にエスコートし、常磐もまた相手を探している。
 ――いいなあ。
(いいなあ)
 あそこで踊っていたら。他愛ない想像は胸から込み上げた。――自分はきらきらと輝けて。常磐は、笑ってくれたかもしれない、なんて。
(……なんか涙出る……年取ったのかな……)
 ひとり立ち尽くす佑子は現実に二十五歳で――姫君にもなれず、遠くにいて見初められることもない。王子様と恋ができる年頃は限られている。彼が年下なら尚更だ。
 彼に恋をするには、魔法使いの登場が遅すぎて。
(君に恋がしてみたかったよ、王子様)
 少女たちに取り巻かれ、笑い声とヤジを受ける彼を眩しい気持ちで見上げ、目を伏せた。
 佑子が背を向けた途端。
「――佑子さん!」
 体育館に、ひときわ通る声が響いた。
 ざわめきが佑子を取り巻き、生徒たちの視線が集中する。振り向いた壇上では、間違いなく常磐がこちらを見ており、佑子の頭は混乱でこんがらがった。
 一体、何が。
 どうやら全員が舞台に向かっている中、ひとり背を向けた佑子は、壇上からよく見えたらしい。常磐の真っすぐな視線が、何の疑いもなく佑子を射抜く。次の瞬間「わあああ!」と男たちの声とともに、生徒たちが一気に押し寄せてきて、今度こそ佑子は硬直した。
「え、なに!? え!?」
「わっしょーい!」
「わっしょーい!」と生徒たちは佑子を高く抱え上げると、怒濤の勢いで舞台へと走り出した。客たちがどよめき、佑子は(わああああ!?)と声にならない悲鳴をあげる。
 階段の下で、佑子は更に高く抱え上げられた。無数の手の上でバランスをとれず、後ろに倒れそうになる。その目の前に、階段を一段、二段と降りてきた常磐の姿があった。
 体育館が、一気に息をひそめる。
「と、常磐君?」
 声が響かないように小さく呼ぶと、常磐は手を差し出した。意味が分からず顔を見ると。
「――僕と、踊ってくださいませんか」
 王子様は、言った。
 これは、なんだろう。まじまじと目の前の白い少年を見つめるが、これが現実だということが、あまり実感できない。なんだろう、これは。この子は、どうしてそんな目で私を見るんだろう。
 私は、何も、していないのに。
 困って辺りを見回し、嵯峨の笑った顔を見つけて、悟った。一気に現実が近付き、我を取り戻す。
(悪の大総統めええ……!)
 二年三組の生徒を使って佑子をさらわせ、被服室に佑子の丈にあったドレスや靴を揃え、女子生徒たちに話を通し、ここに来るよう指示をさせ、そして、この舞台に連れてくるために生徒たちを使った。
 こんなことをされても、どうしようもないではないか。一体何を考えているのだ。噂が払拭されていない中、手を取ったらまた新しい問題になる。でもここで断ったら、どう考えてもノリの悪い大人にしか思われない。
 はっとする。そうか、そのためなのか。
 これを、一時のイベントにするつもりなのだ。何があっても「ノリでやりました」で言い訳するための。佑子に、そう言い訳させるための。
(そっか……学生って、そんなだったっけ……)
 苦笑が込み上げる。敵わないなあと思って、胸がいっぱいになった。なんて眩しいんだろう。佑子や常磐本人たちの迷いやためらいを吹き飛ばすくらい、高校生たちにはわけないのだ。愛とか恋とかいう言葉に面白がっているのが大半なのは置いておいて。
(よし)
 こうなったら、それに応えてあげよう。
 いや、佑子が応えたいのだ。
 だって、王子様にダンスに誘われて、断れる女がいるわけがない。
 ふっと笑った佑子の声が、小さく響いた。その声を聞いた常磐も、くす、と笑った。それで、覚悟が決まった。
 夢を見よう。ひとときの。
 この時は、二度と来ない。
 常磐が佑子に向かって更に手を伸ばした。佑子はその手に手を重ねるべく、身を乗り出し――。

 ばん! と大きな音を立ててホールが暗闇に包まれた。

「ぐ!?」
「誰だ、今踏んだの!」
 佑子の下にいた生徒たちが騒ぎ出す。
「――っ!?」
 口を塞がれ、腰をさらわれた。咄嗟にもがいたために足から靴が片方すっぽ抜けたが、苦しさのあまり息がもうろうとし、力が抜ける。そのまま担がれたのが分かったところで、意識が途絶えた。

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