第八章 あなたのために

「羽宮!」
 嵯峨の声が聞こえた。常磐は素早く辺りを見回したが、明るかった時の照明のせいでまだ目が慣れてくれない。目測をつけたが、探している人物は見当たらない気がする。
「照明まだか!」
 天井の明かりが一斉に灯る。常磐は嵯峨を探した。もう一人、足りない。
「香芝がいない!」
 常磐は走った。邪魔なマントの留め具を外す。女子から悲鳴じみた叫び声が上がった。体育館を突っ切っていくのを、「羽宮! どこへ行く!」と焦った声が止めようとするが、そんなものには、足を止めることはできなかった。
 三階の廊下から北棟に入り、辺りを見回し、それでも見つけられず階段を駆け下りて一階の、中央棟へ向かう。周りに彼女の姿を探す。呼ぶ。答えはない。走る。一階、図書館。明かりはついていない。鍵もかかっている。
「佑子さん! 佑子さん……!」
 通行人たちが不思議そうに開かない扉を叩く常磐を見ている。
 こちらをずっと食い入るように見ていた彼女。あんな、泣きそうな顔をして笑って。
 いつもそうだった――唇を噛み締めていた。泣きそうになっても、眉を寄せて笑った。弱音を吐くよりも動いた。自分に出来ることをしていた。
 なのに、手を伸ばしたときの、本当に嬉しそうな顔。
 手が差し出されることを求めていたのは彼女だったんじゃないか、とそれを見たときに思った。
 それでも、きっとあの人の中では、これはただの非日常のひとつでしかないはずだった。夢や幻と同じで、いつか醒めるもの。
 悔しかった。叫ぶしかない自分が、たまらなく。
(本気にされてなかった。いつも。好きだ、って、ちゃんと言ってたのに)
 彼女は望まない。子どもに恋はしないと頑なに思っているようだった。いつも精一杯大人であろうとしていて、だからすごく愛おしかった。その立ち姿に恋をした。でも必要以上に踏み込めば離れてしまうと、分かっていた。逃げている彼女を見れば、なおさら思い知った。
 彼女は、年下を、世話を焼く対象として見るのだ。年下のいとこたちが大勢いるせいだろう。佑子の名前を呼ぶいとこたちを、初めて会った日、常磐は見ていた。
 ――彼女にとって自分は、いとこたちと同じ、子どもだ……。
 学校というものは準備段階だった。これから家のために尽くす大人になるための前段階。自由を夢見ることはなく、常に家への責任と重圧を背負って過ごす。高成績を、高評価を、完璧な人格を、求められる。学校生活に喜びを感じられないことは、黎明学院に入学してから顕著になった。祖父が理事をしている黎明学院。
 だって、祖父と父のようにつまらない人間になるために生きている。
 ここは、僕の檻。僕を監視する、自由のない箱。
 無理矢理押し付けられたアドレスを消さなかったのは、何かが変わらないかと期待したから。
 メールの内容に従ったのは、義務が半分。期待が半分。
 そして本当に彼女の姿があった時、どれだけ胸がいっぱいになっただろう。
 図書館で本を読んでいる。カウンターで本を受け渡して微笑む。校内を歩いていれば、彼女とでくわして視線を交わすことができる。秘密めかした距離で。ありふれた言葉で。

『好きな人を作ればいいんだよ! そうすれば学校生活が楽しくなるよ!』

 彼女の言ったことは正しかった。
 世界が彩られる。言葉は少なく、足りないはずなのに、それを補ってあまりあるほどに輝く。青銅の屋根。赤煉瓦の壁。敷地を囲む木々の色。中庭の花々。窓から見える青い空。白い雲と、太陽の光。
 退屈だったはずの学校で、あなたに会うことができる。
(思い込みでも、刷り込みでもいい)
 世界が輝いて見えて、何もかもに感謝したくなるようなこの気持ちが嘘だとは、僕には到底思えない。
「羽宮っ!」
 嵯峨が駆けてきた。めずらしく焦りが浮かんでいる顔をみて、常磐ははっと涙と後悔を押し込める。
「今、生徒会と実行委員で探させている。何かあったら連絡が来るはずだ」
「僕も探す」
「一緒にいろ。携帯がないから連絡がつかん」
「守るって言ったんだ」
 気圧されたように嵯峨が目を丸くし、そして息を呑んだ。
「羽宮……」
 視線を辿って、振り返る。円形の中央棟、その中心にある吹き抜けのフロアに、蝶が風と舞っている。しかしその美しい羽根の持ち主は、ふわりと煙のように溶けると、ぐるりと渦を巻いて人の形を成した。
 蝶は、魂の象徴。死者の化身――。
「ゆ……」
 白い開襟シャツに黒いスラックスの、学生のような少年は、すうっと上を指差した。二階ではない。三階、四階でもない。空を。人を温かいものだと信じている誰かを思い出すような表情で。
「おい、羽宮。私たちは幻覚を見ているのか? あの男、突然現れ……」
 常磐は走り出した。彼の指差した方向、恐らく、屋上へ。


     *


「……っぱあ!!」
 空が見えた。溶けていくような薄い雲に、水を含んだような優しい青の。
 しかしその美しさに反して、ずきずきと頭が痛み、少し吐き気を感じた。戸惑いながら身体を起こすと、寒々しい風が吹いて身を縮こまらせる。足が寒いのは、右足がストッキング一枚だからだ。
 佑子がいるところは、分厚いブロックと鉄柵で囲んである屋上だった。
「目が覚めたのか」
 学校には似つかわしくない声が聞こえ、振り向く。面食らった。
「――羽宮さん……!」
 常磐の祖父、羽宮理事が笑っていた。
 逃走経路を、探す。場所の形から見てここは中央棟だ。屋上には入り口以外に逃走経路がない。今は入り口から一番遠いところにいるため、逃げ切ることは難しそうだ。
「どうして、こんなことを?」
「あれを開けてもらうためだ」
 羽宮理事が光を反射するものが前に掲げ、床に置いた。それは、ガラスケースに収まったミキ様だった。
「……あなたが盗っていったんですね」
「一度部屋を調べさせてもらったけれど、あれの中身だけが確認できなくてね。仕方がないから持ち帰って調べようと思ったのだよ」
 かつて部屋に侵入した犯罪を口にしたが、彼はそんなことを取るに足りないと思っているようだった。理事長になって金を積めばなんとかなると思っているのかもしれない。その傲慢さに、怒りが煮える。
「だが……どうも、あれはよくないな。引き出しに触った人間は、手が赤黒く腫れ上がって使い物にならなくなったり、物が落ちてきて頭に怪我を負ったり、パソコンのデータが消えて会社に損害があって倒産に追い込まれたりしたらしい」
「お見事」としか言いようのない呪いっぷりだった。
 そして、気付いてしまった。
「…………もしかして、七月、私の部屋に侵入した時に、その子に触りましたか」
「もちろん」
「お前かー!!」
 七月の厄日。いくつかは佑子の責任があるかもしれないとはいえ、会社が倒産するのは行き過ぎだと思ったのだ。全部、お怒りになったミキ様によるものだとしたら、あの悲惨な日に納得がいく。
 羽宮氏は陰湿な表情でねっとりした笑い声を上げた。
「口の利き方を知らないようだ。これは、是非とも家で躾けなければなるまい」
 背筋が総毛立った。思わず低く罵った。
「この、くそじじいが」
「佑子さん! ……!」
 屋上に駆けつけた少年たちは、追いつめられた佑子を見ると、それ以上迫れず、距離を保った。嵯峨が眼鏡を押し上げ、大きく息を吐き出した。
「あなたが元凶ですか、羽宮氏」
「嵯峨の息子か。ふん、今更出てきてもどうにもできまい。『暁の書』はここに、私の手元にあるのだから」
 そう言ってミキ様を示す。
「何故今日この日にこんなことをするんです。目立ちたがりも大概だ」
 嵯峨が言い、佑子も氏を見た。そうだ、今日は文化祭だ。こんな派手な立ち回りをせずとも、佑子に言うことを聞かせる方法はいくらでもある。すると、羽宮氏は血走った目で歯ぎしりのような声で言う。
「理事長が『次期理事長が内定した』と言い始めたからだ」

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