嵯峨は常磐に向かって、かすかに首を振ってみせた。内定者は嵯峨でもない、ということだろう。
「私には内定の連絡は来ておらん。嵯峨も香芝も『暁の書』は手に入れていないという。だったら、私が『暁の書』を持って理事長の前に出て、黎明学院の理事長となる! 『暁の書』を手にしているのは私だ!」
 そう言って顎でもって佑子に、開けろ、と命じた。
 ミキ様を見る。多分、かなり、機嫌が悪いはず。彼女を託され、お守りとした佑子でも、さんざんな呪いっぷりを披露するような禁断の引き出しに手に触れたとなれば、ただではすまないだろう。
「おじいさま……止めてください」
 風の中で、絞り出すように常磐が言った。苦痛に苛まれ、表情は泣きそうなほどに歪んでいる。
「どうしてですか。理事長になるのを、止めてくださるのではなかったのですか」
「どうして諦めねばならない?」
 返ってきた言葉に、常磐は言葉を失う。
「内藤家の援助はありがたいと思うよ、私も人だからな。だが、どうして更に理事長になってはいけないのだ? ん? 言ってごらん」
「おじいさま……」
「家のためだ、常磐。すべて、羽宮家のため」
 家のため。これまでずっと己を縛り付けてきた言葉がどれほど重い物なのか、常磐は震え、絶望している。優しい声が囁いた。
「ほら、お前の言うことを聞く理由などないだろう? 常磐、お前は私に使われればいいのだ」
 それが、彼が十七年間与えられてきた毒だった。
「――……」
 佑子が黙って人形に向き直ったのを、横目で笑いながら、羽宮氏は言った。
「ずっと探していた。空き巣も、危険な警告も私が指示した。汚い手を使わなければ手に入らなかった。この、愛すべき学院、私を救う黎明学院……!」
 ミキ様を見つめる。どうか。呟いた。
(どうか、私に、力を貸して。じいさま)
「私が次の理事長だ。この、暁の学院の……!」
 呪いがあるというなら、私だけが呪われればいい。何があっても受け止めてみせる。だから助けて。違う、私が、助けられるように。この子たちを、暗闇の中にいる、彼を。必死なくらいに願いを込めて。
 この引き出しを開けさせて――!
 禁じられた引き出しに手をかけ、開いた。
 風も起こらず、光も降らず。けれどすべてが不安に沈黙するように、風が止まり。音も消え。

 佑子の手袋に包まれた震える手の中には、『黎明暁星』と銘打たれた赤い表紙の本があった。

 羽宮氏が歓喜の、欲望に忠実な醜い表情をして、ぎらついた目で唾を飛ばして叫んだ。
「さあ、渡せ。私に!」
 表紙を、撫でる。表紙の布は少し古くなっていて、ずっと仕舞い込まれていたために細かな埃がざらついた。古い紙と埃と、どこか懐かしく思えるようなにおいがかすかに鼻をさす。
 佑子は目を閉じた。これは、じいさまのにおいだ。タンスの引き出しの、強い防虫剤のにおい。祖父の部屋の、あの人が大切にしていたたくさんの物の気配そのものだ。そのにおいの記憶は間違いなく、引き出しの中には、祖父が使っていた防虫剤の小さなものが、効果をなくして転がっていた。
 大切なものだからね。鮮やかに瞼の裏に浮かんだ祖父は、そう言って秋の午後のような、切なく温かな面差しで笑った。
「寄越せ!」
 亡者のように浅ましく手を伸ばした羽宮氏を前に、佑子は一歩踏み出した。……後ろへ。
 迷いない足取りで屋上の縁に近付くと、そしてくるりと向き直り、外側に向かって本を突き出した。
 吹き晒される本は片手では重たく、ぐらりと不安定に揺れそうになるが、指先に込めた力は、眼差しと同じ強さだ。
 不意をつかれたように息を飲み込んだ彼には、佑子の決意がありありと見て取れたのだろう。不安げに言った。
「……何をしている?」
「見て分かりませんか」
 分からない、という哀れなほど素直な顔をする氏に、次の瞬間、ありとあらゆる力、全身全霊で、佑子は声をほとばしらせた。

「――破ってやるんだよこの馬鹿たれがあああっ!!!」

 声は、尾を引いて、長く校舎に反響した。
 佑子は本を開き、一ページ目の薄紙を一気に破りとった。あっけないほど軽い。それを、外に放り出す。二ページ目、三ページ目の写真、四ページ目の理念の言葉と、冊子はみるみる解体され、数十メートルの高さからひらひらと落下していく。それだけではなく、強い風がごうっと吹いた途端、校舎の向こうに去っていく。
 何が起こっているのかようやく理解した羽宮氏は、慌てて佑子に取りすがろうとしたが。
「そうはさせん!」
 短く叫んで前に出た、段ボールの模造刀を抜いた香芝がその行く手を阻む。
「香芝、お前どこに行っていた!」
「騒ぐな。尾野辺がいきなり人を指して呼んでこいというからな。その人を呼びにいっていた。もうすぐ来るはずだ」
 香芝と嵯峨が言葉を交わす間にも、佑子の、本を裂く手は止まらなかった。
 そうしながら、涙が出そうだった。本を、この、古くて、祖父や理事長や、それよりもずっと前の人たちが大切にしてきた本を、よりにもよって司書の自分が引き裂いている。つかの間手を止めて、鼻を押さえて吸い上げる。息を飲み下し、叫び出しそうになる声を息にして吐き出した。ごめんなさい、という言葉を唇で呟き、震える手でページをちぎる。
 本は悪くない。破かれていい本なんてこの世にはない。物語に貴賎はないように、必要ない本なんて世界のどこにも存在しない。作りたい人がいて、残したいと思った人がいて、何かを伝えようとした人がいて。その逆で、作ってほしい、残してほしい、伝えてほしい、書いてほしいと思った人がいる。そこにあるのは願いや祈りで、意味は後からついてくる。そうであってほしいと、希望で胸を膨らませるようにして夢見ている。
 それでも、この手は止められない。だからただ、私が悪い。
「止めろ……」
 佑子は羽宮氏を見た。そして、笑った。泣き笑いだった。
「そうですね」
 ほっと息をついた、その瞬間に言った。
「もっと細かく裂くべきでしたね」
「止めろぉおおお!」
 細かく千切られていく紙は古く毛羽立った感触がして、もろかった。悲しいくらいに、柔らかだった。
 表紙と裏表紙を残して、すべてのページは紙吹雪と化した。佑子は最後の一枚を丁寧に細かく千切り、それを、空へ高く投げ上げた。
 ぱっと、雪か花びらのように、蒼穹に舞い上がる。
 地上から吹く風が、それらを空高く運んでいく。晴れた青、輝く太陽を目指すように飛び立つ、時や思いや誰かの願いのかけらたち。翼のようにも思えた。高く突き抜けるような蒼に季節を知った。この身体から少しずつ生まれては解き放たれていく、もう戻っては来ない時間を。
 手のひらに残っていた小さな紙吹雪が、今度こそ最後として、舞い上がって行く。
 それらは、泣きたくなるくらい、美しかった。
「――誰だって大人になる」
 紙吹雪の舞う様を眺めていると、言葉は自然と口をついた。
「あなたと同じように、何かを守ろうとしたり、なりふり構わなくなったり、世を渡っていく術を身につけていく。子どもの頃に、ああはなりたくないと思っていた大人になっていく」
 羽宮氏を見る。大人というものに一歩踏み出した佑子は、それが自分たちと同じように子どもの頃があり、社会や、ままならぬことに苦悩した人であることを、知っている。
「それでも私は、子どもの頃に何かを大切だと思った気持ちを忘れたくない。縁が遠くなってしまっていても、仲良くしてくれた友達や、今はなくしてしまった宝物がたくさんあった、あの頃のこと」
 ずっと胸に抱えていた、佑子の『来し方行く末』。
 大切なものを託してくれた祖父。
 導いてくれた波野。
 大人のような学生のような関係で佑子を許してくれる京野。
 お祭り騒ぎが大好きな、「愛」という言葉に弱い純粋な生徒たち。
 これから大人になる、少年たち。
 年を重ねれば重ねるほど、何者にもなれなくなっていく自分がいた。けれどこの学院にはいつでも未来があって、眩しかった。羨ましかった。その中にあれることが、とても、嬉しかった。
 平穏な日々は大切だ。けれど、ここには苦しく辛く、騒がしくて楽しい日々があった。そんな風に心を揺らすことがまだあるなんて思ってもいなかった。
(常磐君)
 暗闇の淵でこちらを見つめる、彼に微笑む。
 ――君が連れてきてくれたのかもしれないね。
 君はもっと笑うべきだ。本当に、心から笑うべきだ。もっと信頼する仲間を得て、笑顔を向けたり向けられたりして、その人たちと未来を目指して。もっと大きなところに羽ばたいていける。私に向けるような顔をすれば、きっとみんなが君を好きになる。
 その記憶は、いつか光になる。
「子どもの頃に好きだったものを、ずっと大切に出来て、好きだと言える気持ち。それは大人になった私たちの、人生を照らす」
 彼の未来を、香芝、嵯峨、図書委員たちや利用者の生徒たち、学院の生徒たち。大人になっていくみんなのことを思うと、どうか、と祈っていた。
 まだ、何かを伝えられる人間じゃないけれど。
 どうか、どうか……その続きは、満ちていく感情にあふれて、続けられなかった。
「羽宮さん。私たちは、そういうものがあることを彼らに伝えるべきです」
 うめき声をこぼした氏が、次の瞬間、目を血走らせて佑子を見た。
「う……わああああ!!」
「っ!」
 残された表紙だけを取り戻そうと、身体をぶつけるようにして、獣じみた異様な形相で迫る羽宮氏は、佑子にとって決して恐ろしいものではなかったけれど。
 目の前に白い背中が見えた時、心の底から驚き、その声を聴いた。
「……触れさせるもんか」
 佑子を庇い、己の祖父を押さえつけた常磐は、力の限り、声を震わせてそう言った。
「あなたに、この人を汚す権利はない!」
 込み上げた感情は、一粒の涙になった。
 君はいつだって、意地を張るみたいな私の言葉を、その脆い正しさを、認めてくれる。
 きれいごとを、口にしてきた。正しい言葉を貫いていくのは、とても難しい。負けたことだって、ある。現実は甘くないから、泣いて、泣いて、挫折して。ひどい、ずるい、どうしてとだれかを呪ったこともある。
 でも、この時、感じた。
 わたしは、まちがって、なかった。
「――これが、君たちの答えかね?」

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