少年たちが息を呑んだ。佑子だけは、えっと目を瞬かせる。
「さっきの……」
「加瀬大老!」
 佑子がさきほど案内したおじいさんが、嵯峨の声に民芸品のような愛嬌でにっこりした。その傍らには槙野の姿がある。
「ごきげんよう、若人たち。文化祭、楽しんでおるかね?」
「加瀬大老、やはりいらしていたんですか」
「君は嵯峨くんかな。そうじゃよ、わしの任期最後の年の文化祭じゃからね」
 加瀬は佑子の手にあるものに目を移し、どこまでも柔らかく微笑んだ。例え表紙だけになっても、彼にはこれが何であるか分かったらしかった。
「わしが『暁の書』課題を持ち出したのは、嵯峨英明君、香芝守君、羽宮常磐君。君たちが今の理事たちのように争いをするのを見たくなかったからじゃ。むかし、宝探しという遊びをしなかったかね?」
 全員が、しばらく目を瞬かせた。
「宝、……探し?」
「そう。ビー玉でも、なんでもいい、光り輝く宝物を鬼が隠して、それをみんなで探すんじゃ。なかなか見つからないと、みんなで協力する。時々、鬼本人が隠したところを忘れたりしてのう」
 楽しげに笑うと、寂しいしみじみとした表情で言った。
「わしはそんな風にして、この学院での時間を楽しんでほしかったんじゃよ。権力を持つだけでなく、対立するのではなく、嫌うばかりでなく、一人でいるのではなく……みんなで学院の時間を過ごしてほしかった。みんなで過ごした思い出は、このさきずっと輝く、人生の光みたいなものになるかもしれないからじゃ」
 だが、すまんかったのう。そう言って、加瀬は叱られた子どものように背中を丸め、しょんぼりと肩を落とす。
「それがこんな大騒ぎになるとは、申し訳ない。後任はちゃんと考えるよ」
 顔を上げた老人は、温かな目で三人を見た。
 ここに集った三人こそ、この課題を取り下げようとした答えだというように。
「加瀬さん! 私は『暁の書』を見つけました! あそこに……!」
『空き巣も、危険な警告も私が指示した。汚い手を使わなければ手に入らなかった。』
 この期に及んでまだ主張する羽宮氏を打ちのめしたのは、槙野が手にしたボイスレコーダーから流れる、氏本人の言葉だった。
「っ!!」
 驚くほど明瞭な録音で羽宮氏は言葉を失い、「でかした槙野!」という嵯峨の言葉に、最初からすべてを見ていた広報委員は人のいい顔を装いながら「予算、よろしくー」と笑っている。
 今度こそ、羽宮氏の敗北だった。茫然自失になって羽宮氏は、がっくりと膝をついた。
 少し小さくなってしまったような祖父の側に、常磐が寄り添った。
「あなたのしたことは許されない。僕も、許さない」
 その声の鋭さに、佑子は息を呑む。
 だが、常磐は震える声で、祖父の背中を撫でた。
「それでも、そこまでしてあなたは家を守ってくれたと思う。……ありがとう、おじいさま」
 羽宮氏は何も言うことができず、常磐も答えを求めていなかった。長く彼を縛り付けていた関係を変化させるには、まだ長く時間がかかるからだった。常磐は立ち上がり、佑子に向かって一歩踏み出す。佑子は手を伸べた。
 その手を必死になるくらいに掴み、常磐は押し抱いた。
「……あなたは、いつも僕を、救ってくれる」
「何にもしてないよ。むしろ破壊活動したっていうか」
 風の具合か、ずっと紙の花が舞い続ける空を指差した。雪が降っているようだ。
 光景は美しくとも、苦しみはまだ佑子の中で心を焦げ付かせて、ひりひりと痛んでいる。その後悔はあると言えたし、ないとも言えた。これでよかったのだと言い聞かせる自分がいたからかもしれない。常磐が、こうして泣きそうになってくれているからかもしれない。
 少年の悲痛なくらいの顔を見ていて、少女のような望みが生まれていた。――もう二度とこんなことがないように、強くなりたい、なんて。
 常磐は佑子の指先を口元まで引き上げ、口づけそうなくらい抱えながら、吐息で言った。
「……あなたが好きです」
 震える睫毛と同じ、泣きそうな声だった。
「あなたが僕のこれからの時間を変えてくれた。それまでの景色が、全部変わったように思った。だから一緒にいてほしいんです。ずっと、ずっと……」
「君には、もっと大切なものができるよ」
 数少ない恋愛経験でも、彼のその目がどういう感情を含んだものなのか察することができるくらいには、佑子は大人だ。きっと彼の思いは本当なのだろうけれど、佑子は知っている。十代の楽しさも、苦しさも。
「君のその感情は、いつか変わる」
 十代の、残酷なくらいのめまぐるしさも。
 私は知ってる。想像なんかよりもずっと確かに。大切な人たちと心から笑う彼を。
 言いながらも、佑子は決めていた。――もう、逃げない。
「でも、いつかやってくる、そのときまで。――君の『いちばん好きな人』でいたいと思う」
 十七歳に、恋はできない。
 でも、常磐の気持ちを否定することはできなかった。だから佑子なりに出した答えが、彼の恋する相手が変わるまで、彼の今の気持ちを大事にしてあげること、だった。
「君が幸せになるのをちゃんと見てるよ。それじゃ、だめかな」
 常磐は額ずくみたいにして手を包み込み、言った。
「――今はそれで、我慢します」
 常磐の言葉に驚いた。
『今』なんて言葉。まるで、未来がある、みたいな。
 はたと気付くと、いつの間にか常磐と腕をまわし合い、抱きしめ合うような体勢になっている。
「……っ!」
 腕を突っぱねたが、閉じ込められた。
「ち、近い……!」
「近くしてるんです」
 常磐は低く言った。その声、反則だ。その目も。腕の強さも。全部全部、ずるかった。こんな時なのに大人みたいになる。だから佑子を、子どもみたいにする。
「や、……」
「僕のこと、嫌いですか」
 囁かれ、ひ、と声が出なくなった。そんな目をして聞かれると、嫌いだとは言えないに決まっている。そして、事実、嫌いじゃないからたちが悪いのだ。身体は逃げようとしているのに、仰ぎ見た常磐の目に吸い込まれ、動けなくなる。熱に、目眩がした。意識がぼうっとして、口から息が細く漏れた。
「常磐、君……」
 佑子はぼんやり名前を呼んだ。
 きゅうん、と胸が小さく震えている。
(常磐君って、キスしたこと、ないのかな……? すごく、上手そうに見えるけど……)
 思考が変なところに飛んでいき、どんな気持ちになるんだろう……と考えていたら、眠気のようなものが襲ってきて、ゆっくり瞬きする。吐息が絡む。佑子の視線はもう常磐の唇にあった。
「…………」
「…………」
 目を閉じた。
「――こらあーっ!! 破廉恥司書と破廉恥高校生ー!!」
 びくん! と二人は同時に跳ね上がった。見れば、香芝が真っ赤な顔でぶんぶん腕を振っている。嵯峨によって取り押さえられているが、今にも飛びかかってきそうだった。
「ちっ、せっかくいいところだったのに」
 嵯峨は舌打ちしている。当の佑子はくずおれる寸前だった。高校生に流されそうになっていたなんて、なんという大人だろう!
「許さん、許さんぞっ! 俺の目の黒いうちは……!!」
「香芝………………」
 常磐が呼ぶと、香芝は引きつり、堪えるように胸を張った。青ざめているので明らかに虚勢だ。
「と、常磐君、落ち着いて!」
 佑子としてはむしろ助かったので香芝を庇うが、常磐は清々しい笑みで佑子に言った。
「大丈夫です、佑子さん。冗談ですよ」
「ふん、そうだろうそうだろう、お前に俺がどうこうできるわけ、」
「屋上からくくりつけるだけです、逆さに」
「本気だー!」
「――こぉらあ香芝あ!!」
 どこかから笑いを含んだ怒鳴り声。辺りを見回し、外を見て唖然とする。北、東、西の三棟から、生徒も一般客も関係なく、多くの人間が一部始終を窓から身を乗り出して見ていた。その数は、圧巻だった。
「せっかくいいところだったのに! 計画のクライマックスを邪魔しやがって!」
「うるさいぞ、木野下! 俺は風紀委員だ、見過ごせるか!」
 生徒たちがどっと沸いた。やんややんやと声を上げ、窓を叩き、段ボールを叩き合わせ、拍手喝采、好き勝手に叫び出す。口を開けていた一般客も、他校の生徒たちも、常磐たちに向かって手を振っている。
「ほら、早く降りてこいよ! 文化祭はまだ終わってないぜ!」
 わあっ! と生徒たちの太い声がその一言に渦となり、喝采に変わった。教諭たちは苦笑をしていて、咎める者は誰もいない。そこには、笑顔と笑声しかなかった。

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