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「――と、いうことなのです……」
「失礼、ミザントリ様」
 立ち上がり、扉を開けた。次の瞬間、幾人かの騎士や見習いたちが廊下を勢いよく走っていく。残った何人かは手の中に菓子を広げて「お菓子いかがですか?」と愛想笑いを浮かべた。セイラは「どうもありがとう」と微笑んですべて没収すると、全員に言い渡した。
「今からわたくしが外に出るまで、この部屋に近付いた者は全員練兵場を五十周していらっしゃい」
 絶望の声が漏れ、男たちはすごすごと退散していった。
 誰も彼も成人したかその間近のいい歳した男たちだというのに、まだまだ子どもで呆れる。侯爵令嬢が来たというだけで仕事も訓練も放り出して、ここまで集まってくるのはすごい。
 扉を閉め直し、ミザントリに向き直る。

「それで――憧れの君がクロード様であると、ご本人と知らず告白してしまったので、合わす顔がない、そういうことですの?」

 可哀想に、熱帯に放り込まれた菫の花のようにミザントリは萎れている。肩を落として溜め息ばかりついていた。
「わたくしがそのような態度に出るから、クロード様が不思議がって追いかけて来られるのだと、分かっては、いるんです……」
 でも向き合う覚悟がないのだと、息を吐いた。セイラが自腹で揃えている客人用の茶葉で入れたお茶を飲んで、落ち着いたのかまた溜め息だ。悄然としているミザントリは、今度は一気に老け込んだようだが、しかしどちらかというと年頃の憂いで艶やかに映る。
「ミザントリ様。失礼ですがお幾つになりまして?」
「十八です。もうそろそろ結婚を、と父に言われています」
 自嘲するミザントリには、あまりその気がないのだろう。父親の決めるままに結婚しなければならないことを知っていながら、特に心をざわめかせることもなく、粛々と受け入れている。昔から定められた人生を見据えてきた者の静けさと、娘らしく華々しくはしゃぐことのなかった二面を感じる。
「恋をなさったことは?」と尋ねたときも、返ってきたのは苦笑いだった。
「騎士団長様。これを恋だと断定したがっていらっしゃるの? だったらきっと違います。恋は、燃えるものでしょう?」
「あなたくらいのご令嬢なら、恋に恋をするくらいがちょうどいいと思っていますわ。そう、恋は燃えるものです。分かりやすいものならば。ただ、熾き火のような恋もありますのよ。燃えたり、息をひそめたりを繰り返す、生き物のような思いが」
 ミザントリが目を落とした。しばらく考えた様子があり、軽く首を振る。
「……お会いできれば嬉しかったですし、お話しできればもっと嬉しかった。でも、クロード様と何か特別な関係を結んだ自分を想像することはありませんでした。だからきっと、ただの憧れだわ。あの方の優しいところや、陛下に振り回されていたりするところが可愛らしくて、もう一つの姿が人間などには手が届かない力溢れる姿だったから、そういう方に選ばれる人間になってみたいと思ったのかもしれません」
 そう、とミザントリはひとりごちる。
「わたくしたちは――貴族の女は、冠でもなければただの女(どうぐ)でしかないのだから」

       *

 セイラに言ったことは真実をついていたとミザントリは思った。身分のない女は、自分の力で身を立てることもできるだろう。セイラのように騎士団長に上り詰めることもできる。ただ、何の取り柄もなく貴族に生まれた女は、生まれ持った性を道具にして、父親のために結婚する。結婚することが貴族の女の持てる技術なのだと思う。何か特別なことができる者でない限り。
 ロッテンヒルの別邸へ戻ろうとすると、先んじて父から、自宅へ戻るようにという指示があった。知らせを持ってきた従者は迎えを兼ねており、馬車に乗って、一の郭のイレスティン侯爵邸へ向かった。
 帰宅はすぐさま知らされて、父の書斎に呼ばれた。
 ミザントリは、父ファルアルドとはあまり似ていない。ファルアルドはあまり何を考えているか分からない、柔和な表情をした落ち着きのある人で、毎日隙なく身なりを整えている。あの社交界の花だった祖母の息子ならば、そのように習慣化するのだと思う。
「ただいま戻りました。お父様」
「おかえり、ミーズ。久しぶりに顔を見たね」
 内務省に官職を得ているファルアルドは、あまり自宅に戻ってこない。特に、今は結婚式の調整などで走り回っている。すれ違いはいつものことだったが、今回は嫌味がきつく感じられた。
 イバーマ国から戻って、家にいたのは三日ほど。その後は、いちるが戻るまで別宅にいた。余計な噂を聞かぬよう引きこもっていると思って見逃していたが、もうそろそろと言いたいのだった。
「結婚式の後に行われる夜会の招待状は読んだかい?」
「はい。すでに準備も終えました」
「お前に限って見劣りするような衣装は選ばないと思うが、気をつけておきなさい。主役は千年姫様だからね」
「はい」
 もし目立とうとする輩がいたら即座に見破って敵認定するだろう、いちるのことを思う。でも多分、ミザントリがそんなことをしたら何があったのかと不思議がって尋ねてくるのだ。いちるにとって、ミザントリはもう何も知らない他人でも敵でもないから。
 それで、とファルアルドが机にあった冊子を取り上げる。
「今度のことが落ち着いた後の話になるが、私の友人であるエッドカール伯爵が、息子をどうかと言っていてね。お前より二つ年上で、緑葉騎士団に所属している将来有望な若者だ。オードワール騎士団長の覚えもめでたいそうだから、一度会ってみてはどうかね?」
 わたくしの自由は、父あってこそ。父の保護と援助がなければ生活できない。けれども父もまた、娘を道具にする。見せ物にして顔を売る。そのための教育、そのための研磨だ。粉を叩き、爪を磨き、歌わせ、踊らせる。その世界は輝かしく、楽しい部分もある。親しい友人ができた時は喜ばしく、幸福は淡く静かだ。ミザントリは他の女性たちと同じように、狂乱的に喜んだり激したりすることはできない。できるとするならば、与えられた身の上を顧みたことがない者だと思う。
 釣書を一瞥し、ミザントリは定められた返事をする。
「はい、お父様」
 与えられた役割を精一杯に演じよう。そこに生まれたのならば。

 翌日、再び招待を受けたミザントリは城へ向かった。いちるの結婚衣装の助言をするためだった。衣装部はほとんどの構想を終えていたが、いちる自身が服飾や流行について聞きたがったのだ。また、誰の美意識や鑑識眼がいいのか、周辺の事情も知ろうとして、流行が戻ってくる話や、貴族と一般層の違いについても話した。途中からセイラが現れて、ミザントリに微笑んだ。昨日のことがあったので少し気まずくあったが、彼女がクロードとの件について触れてくることはなかった。
「そういえば、どういう心境の変化ですの? あんなにアンバーシュのことを目を吊り上げて見ていたくせに」
 セイラがにやにやと聞く。彼女はもうすっかり、いちるに対して軽口を叩くようになった。
「別に、特に言うべきことはありません」
 いちるもまた平然と返している。本当に何もなかったかのような平坦さだ。イバーマにいる頃はぴりぴりとしていたけれど、ヴェルタファレンに戻ってからすっかり落ち着いた。忙しさではこちらの方が上のはずだが、今の彼女には微笑む余裕があり、それもまた、人の心をときめかせるような清らかな表情なのだった。いちるは、表情を柔らかくすると淡い絵の具で描いたような、透き通った顔をする。
「アンバーシュもなんだかうきうきしているし、見ていないところでべたべたしているんじゃありません? 今朝はその襟巻き、しておられなかったでしょう?」
 襟ぐりの開いたドレスに、金糸を編み込んだ飾り編みを巻いて、素肌を隠している。一見涼しげだが、その格好は意外に蒸れるものなのだとミザントリは知っている。だが、セイラの言い方はいやらしかった。まあ、と呟いて顔をしかめたとき、いちるが答えた。
「それが、何か?」
「…………」
「…………」
 何を言うべきかちょっと考えた。しれっと肯定されるとは、予想していなかったのだ。てっきり破廉恥なと眉をひそめられ、嫌味の応酬が始まるかと思ったのに。
「……ところは構えって、伝えておいていただけません?」
「すでに言ってあります。耳の怪我が治るまでは覚えているでしょう」
 何をしたのか。
 噛んだ、が有力だった。
 耳を噛むことが目的ではないだろうから何をしたかったのかと言えばじゃれあいだ。顔が近付くことつまりそういうことだ。二人の関係から言って単なる挨拶ではない。昼間から。誰も見ていないところで?
「仲の、睦まじいことで……」
「ほら! ミザントリ様が赤面なさってますわよ! 破廉恥なこと仰らないで!」
「話を振ったのはそちらでしょうに」
 呆れた口調で言って、笑う唇を指で隠す。いちるは、ヴェルタファレンの政の主たる大臣たちの前で、悪名高いネイゼルヘイシェ夫人の装いをしたというけれど、そうして笑っているところは可憐に見えて艶やかな、黒い蝶の仕草だった。
「ずいぶん余裕ですのねえ」
「慣れました。あの男が触りたがってくるのは今に始まったことではありません」
「思う存分触らせておやりになるの? まああ、お優しいこと! その内、城内の至るところで王と王妃がみだらな行為にふけっているなんて噂が立ったら、わたくし指差して笑ってやりますわよ」
 ミザントリは赤面して縮こまったが、いちるがふっとセイラを見た。
「何か勘違いをしているようですが」
「何がですの」
「わたくしは、往来での口づけを拒否したゆえに今までの発言があるのであって、わたくしが許可するのは礼儀正しい公衆の規則に従った皮膚接触のみまでです。それを破れば相応の罰を与えています。あなた方の懸念は少し見当が違っている」
 いちるは、言葉が不慣れなせいで時々言い回しが難解になる。
 つまり、公衆の面前で後ろ指を指される行為を、いちるが許さず、アンバーシュはそれを破って見事返り討ちにされたということだった。
「……キスも許してもらえないんですわね」
「抱擁は許しました」
 いちるの言葉の影で、セイラが言った。
「……それは、ちょっと……哀れですわね……」
「分かっていない」といちるはきっぱり言った。

「許す、許さないの境界は、相手をどう思っているかに尽きる。わたくしは、触れることを許す程度にはあの男を気に入っています」

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