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 いちるの部屋を後にしたミザントリは、先を行こうとするセイラを呼び止めた。
「バークハード騎士団長様は、緑葉騎士団の方々と面識はおありですか?」
「わたくしの師に当たる方が団長をしておられますけれども、何か?」
「エッドカール伯のご子息をご存知ですか」
 セイラはぴんと来た顔をした。
「長男と次男がおりますが、次男の方ですか?」
 彼女は勘がいい。どこの家も基本的には長男が跡を継ぐ。一方、ミザントリに兄弟はいない。ヘンディ・エッドカールは、ミザントリの婿候補であり、入り婿となってイレスティン侯爵家を継ぐ可能性のある人物だ。
 並んで歩きながらセイラは質問に答えてくれる。
「ヘンディは叙勲を終えたばかりですが、いい騎士ですわ。団長のオードワールからの覚えもめでたいですし、気持ちのいい若者です。訓練も怠りませんし、付き合いもいい。差別もしませんし、冗談もよく言う。見た目もよろしいですしね。騎士を続けるならば、しばらくすれば近衛に異動辞令が下るでしょう」
 一つの騎士団に所属すれば普通異動は有り得ないが、近衛騎士は選抜の枠がある。王の側に侍ることが多い花形であるため、見目の良いものが選ばれるのだ。艶やかで毒舌な気質のセイラが褒めるのならば相当なのだろう。だが、ミザントリはどこかの夜会で会ったという覚えがないのだった。
「お会いしたことがあれば覚えていると思うのですが、お名前を聞いてもお顔が浮かんできません」
「騎士団に入った時からそういった誘いは断っていると言っていましたわ。秋波を送られるので、騎士の務めに集中できなくなるのは嫌だと。でも同僚と飲み歩いてましたわね」
 夜会は顔を売り、繋ぎを得るためのもの。次男ならば有力な貴族と近付いて、婿入りするのが常套手段だが、それでは結婚したくなかったように聞こえる。この話は父親同士が勝手に進めているのかもしれないが、どうもセイラの話を聞いていると、そういう勝手をされれば怒り出しそうな実直な性格が窺える。かつ、固くなり切っていない柔軟なところもありそうだ。
「魅力的な方のように聞こえます」
「そのように話しましたから」とセイラは微笑んだ。
「ミザントリ様、突然ですがわたくし美味しい鶏肉を挟んだ麺麭が食べたくなりました。明日にでも差し入れしてくださいませんこと? イレスティン侯爵家の料理が食べてみたいですわ」
 話を聞いた対価だろうとミザントリは頷いた。
「分かりました。明日の午後、伺います」

 セイラの別の思惑に気付いたのは、次の日になってからだった。
「申し訳ありません。団長は今、緑葉騎士団の営舎に行っています。ご案内しましょう」
 見目麗しい近衛騎士に付き添われて、緑葉騎士団に向かう。建物に入り、一室の扉を叩くと返事があった。中にはセイラと、麦色の髪を短くした壮年の男性が座っていた。オードワール緑葉騎士団長だった。
「ごきげんよう、オードワール騎士団長様、バークハード騎士団長様」
「ごきげんよう、ミザントリ・イレスティン嬢。むさくるしいところへようこそ」
 案内してくれた騎士に礼を言い、ミザントリは軽食を詰めた籠をセイラに差し出した。
「差し入れです」
「ありがとうございます。天気もいいですし、見晴らしのいいところでいただきましょうか。では、オードワール殿、また後で」
 部屋を出た階段の上を目指していくと、建物の上に出ることができた。練兵場を見渡すことができる。どこの騎士団の建物もこういう造りになっているはずだが、上に出られるのは知らなかった。
 籠には敷布や食器が入っていた。セイラは蓋を開けて、少し考えるようにしてから尋ねた。
「お一人で持ってこられたんですの?」
 二の郭に下りるので付添人が来ると言ったのだが、街に下りるわけではないからと断ったのだ。セイラが指しているのはしかし、そういった作法についてではない。
「そんなに重いものではありませんから。騎士団長様だったらいいかしらと思ったんです。呆れられました?」
 見た目にはそう重い荷物には見えないのをいいことに、自分で運んできた。途中、彼女の部下の騎士が預かってくれたが、何も言わなかったので男性にとって目を見張る重さでもないはず。セイラは呆れたように微笑み、屋上に敷布を広げ、重石で留めていった。
 要望があった鶏肉を焼いたものを挟んだ麺麭、乳脂を塗って焦がし焼いたもの、揚げて粉砂糖をまぶしたもの、塩を振った手羽、生野菜の盛り合わせに焼き菓子。午後のお茶には少し豪華なものを揃えてもらってしまった。元々差し入れだけのつもりだったのでお茶はなく、セイラが下に戻って、果汁が入った瓶を持ってきてくれた。杯はないので直接口を付ける。行儀が悪いが、楽しい。
 外側に向いた縁に肘をついているセイラの隣に並ぶ。一の郭から吹き下ろしてくる風が、この街を蒸すことなく涼しくさせている。壁を越えると街が広がり、東側は小高くなっている。今頃あの辺りの木陰でも誰かがお茶をしているのだろうか。
「ちょっと暑いですわね。染みができてしまうわ」
「訓練は外でされるんでしょう? 騎士団長様は生まれつき肌がとても白くていらっしゃるんですね」
「努力の賜物ですのよ。気にしないより、気にした方が日々の生活に減り張りがあってよいものですわ。時々面倒になって、仕事の後は手入れもせずに寝台にぶっ倒れて寝ていることもありますけれど」
 声がした。練兵場に、騎士や見習いたちが現れる。彼らはこちらに気付かず、組合を始めた。
「時間外ですから、自主練ですわね。向上心が高くて結構」
 あれを、とセイラが示す。
「奥側にいる二組の、右側、赤毛の男が見えますか?」
 ミザントリは身を乗り出した。制服ではなく、襟ぐりの開いた、七分袖の素っ気ない上衣に着古した脚衣。足首を覆う靴。誰もみんな似たような服装だが、示された男性はそんなおしゃれとは縁遠い格好でもすぐに目に留まった。何故かしらと首をひねって、声を聞いて分かった。組み合う最中でも、言葉を交わして笑っているのだ。
「ヘンディ・エッドカールです」
 くるくると、踊るように位置を変え、剣を打ち合わせる。剣の動きは型があり、これを組み合わせ、速度と合わせる技が基本形だ。しかし、ヘンディ・エッドカールの動きは型を感じさせないほど巧みで、これならばさぞかし実際の円舞でも目立つだろうという動きだった。夜会に出ていないとは思えない。
 赤毛の青年の笑い声が弾ける。見ていると、相手は少年と呼べるほど若く、どうやらヘンディは見習いに指南をしているようだった。
「いかがです? 何か感じたことがありまして?」
「いいえ、特に何も……」
 具体的な想像が何も浮かばなかったので、考えてみようとする。
 もし結婚したら……多分、不幸にはならないと思う。
「特定の誰かを思って胸が痛んだりはしませんのね」
 クロードのことを知っているセイラはそう言って、瓶を仰いだ。ミザントリも柑橘の汁で喉を潤す。雲が動いて太陽が陰り、すっと涼しい風が吹いた。
 不幸にはならないだろう。ヘンディ・エッドカールは出来た男性のようだ。彼自身が異議を唱えなければ、何の問題もなく婚約し、結婚することになる。出来た妻は無理でも、問題がない程度には家を回せるととミザントリは思っているし、相手を支えるつもりもある。例え彼が浮気性でも、手綱をつけて認めてやろうとも考えている。子どもを産んで育てることはもちろんだ。どのように教育していくかは彼との相談だが、ミザントリ自身は自然に触れさせて伸びやかな心根を教えてやりたい。
 そんな想像の内に、クロードの姿はどこにもない。
「…………」
 分厚い硝子瓶は、装飾や見せるためのものではないので手はかけられていない。色は緑色に濁っており、光は屈折し、内側で複雑に反射している。どんなに未来を思っても、想像が及ばずに途切れるように、思いの行き場を知れずにいる。
 セイラは言った。
「あなた方は生まれつき呪われているのです。手に入らないものは望まないという」
 彼女を見る。
「望む、ではなくですか」
「賢い者は望まないのです。自身の限界を知っていて、望みは必要ないから。この世で己の運命を変えるのは、途方もない望みを叶えようとする愚か者か、限界を知ってなお手を伸ばす勇者です。あなたの仰った冠とは、望みの最たるものです。貴族の女にとって、王妃となって冠をいただいて頂点に立つことは、己が埋没する中から選ばれた者の証、幸福の象徴でしょう」
 けれど、とセイラは柔らかに憐れみを口にする。
「あなたは、自分はそれを望む必要はないと思っている。王妃の冠ほど大層なものではないけれど、自分の望む幸福は得られないことを知っている。あなたはとても賢くて、限界をご存知ですわ。あなたは多分、生まれた時に呪いをかけられたの」

 手に入らないものは、望まない。
 他のすべてが難なく手に入る場所に生まれたから、時と運命はそれを対価にして、希求することを諦めさせる呪いをかけた。

「そして……多くがそうであるように、その呪いを解放する絶対的な存在は現れないでいる」
 風、が。
 ひときわ強い風が木々を揺らし、周辺に濃い影を作り出した。運ばれてきた木の葉がかさこそと音を立てて石の床を滑ってきた。敷いている布が激しく揺れて、折れて収まる。ミザントリは瓶をきつく握りしめていたことに気付く。
 セイラは風が収まるのを待ったかのように、静かな間を置いて呟いた。
「……いけませんわね。ある程度得るものがあると、愚かさも勇敢さも失って、望むことを忘れてしまう。必要なのは飢餓です。欲しても欲しても足りないという強欲さと、恐れを知らない無情さ。昔のわたくしはあなたのようではなかったけれど、今の自分は、少し、豊かすぎる」
 慰めを口にしたのだと、すぐに分かった。望まなかった己を恥じる必要はないのだと言って、かつ、望んでもよかったのだと言ってくれた。彼女の本心はともかく、そういう存在もあるのだと認めているのだろう。セイラは妾腹の生まれで市井の出身だと聞いている。人の在り方、見たものを、様々な種別に分けていくことは、ミザントリよりもずっと外側から俯瞰したものに違いなかった。
「役を逸脱するのは、怖いことですね。地位や権利や義務を負って、人は年を重ねていきます。わたくしも騎士団長様も、何かを始めるには歳を取りすぎたのです」
「十は年下のあなたがおっしゃいますの?」
 ちょっとむっとしたように言われ、笑って首を振る。
「大人になる瞬間というのは年齢ではないと思います。例えそれが十四歳でも四十五歳でも、ある瞬間、その人は大人になるんです。わたくしは、それが八つの時」
 ――わたくしではない。
 足を怪我して天馬に救われる乙女はミザントリではなかったし、天馬が見舞いに訪れるのもミザントリではなかった。祖母の庭から離れることを泣きながら嫌がっても、ミザントリはイレスティン侯爵令嬢で、貴族の娘として生きていかなければならないことは変わらない。空を見上げることはなくなって、大理石の床を滑るように歩き、踊る、人々の中で笑うようになっていた。東から千年姫と呼ばれる不思議な女性が現れた時、ミザントリは、明確な容姿の違いや態度の異なりに安堵すら覚えたのだ。
 わたくしではない。
 わたくしは、選ばれるものではない。もう夢を見る娘ではなくなって、役割を逸脱せずに大人になったのだ。
 だから、始まってもいない、始める気もない恋を惜しむことに、意味はない。



 ミザントリが侯爵邸に戻ると、侍従が手紙を捧げ持ってきた。
(……王の紋章の封蝋)
 礼を言って受け取り、小刀を当てて中身を取り出す。
 しばらくして、ミザントリはだらりと右手を下ろして、椅子に座り込んだ。深く、溜め息をつきながら。

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