第十七章
 袖ノ雫 そでのしずく
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 時と運命と、この世のものを曖昧に溶け合わせる銀色の海の果て。生き人が辿り着けぬ美しい大地が浮かび、そこに憩う者たちは、憎しみと苦しみと痛みから解き放たれ、とこしえの安息を約束されている。己の心を乱す者はなく、夢は美しい夢のまま、欲するがゆえに飢餓することなく、平穏が傍らに流れ続ける。
 アルカディア。
 もう知っている。その場所に、望むものはない。己の力の及ぶことを知ってなおも手を伸ばし叶えようとする、命の強さも、痛みほどの喜びもない。我が身を削って与えた者も、与えられた相手も存在しないがゆえに。
 アルカディア。
 またの名をアガルタ。
 無数の名を抱く約束の大地。病も老いも死もない。消滅から隔たれていることを約した穏やかな園。すべてのものはそこから出て、この辛苦の満つる世界へ来た。母が子を産むように。赤子が泣き声をあげるように。
 この目は、痛みと死と憎悪を映して汚れ、かつて見えていたものを見失いつつある。
 だから、楽園の門を出る時が来た。
 アルカディア。もうすぐ別れの時。けれどどうか信じていて。片割れとして伸べられたこの人の手が、始まった道行きで失われずにあることを。
 アルカディア。
 祈っていて。





     *





 秋の色、紅と黄金。梢から落ちる葉の色に見る。馬の踏みしだく木の実の、熟した頑なな色にも。植物と土の湿り気と、乾いた風が混じれば、つんと刺す森の大気は香しく心地よいものだった。外套の肩を右手で手繰り寄せると、己の温かさを感じることができる。いちるを乗せるアンバーシュの双子馬の片割れ、ポルーは、その動きを察知して慎重に足を踏み出している。
 ふと、何か伝わるものを感じ、いちるはそれを見遣った。
 目前にぱっと弾けたようにして子どもが現れる。木の葉や小枝で髪を彩って、頬に泥をつけた少年の年齢はまだ三つ。しかし、このロッテンヒルをくまなく知り尽くしていると言っても過言ではない。来訪者を察知して、迎えに現れたのだった。
「王妃さま! こんにちは!」
 いちるは微笑んだ。
「出迎えをありがとう、ディアス」
 馬を下りると、少年はその駒に向かって手を伸べる。子どもをよく知っているポルーは、首を垂れ、深く鼻から息を吐いた。ディアスは、口調こそ不満げだが、くすくすと笑って言った。
「今日はいたずらしてないよ! 僕はそんなにひまじゃないんだ」
「母上は息災か? 何ぞ不自由はしておらぬか」
 少年の茶色と緑のまだらになった目が、明るく頷く。
「さっき台所でおかしをやいていました。今日は、りんごの砂糖煮があるんだって! はやく行こう!」
 手を引くのはもどかしいと知っているディアスは、いちるの先に立って歩き始めた。そして、数歩行って中空で回転する。すると、ディアスであった子馬がしなやかな足取りで行くところだった。
 ポルーが鼻を鳴らした。ここまで来たなら、目的の場所はすぐだ。呼べば迎えにくるという意思表示に頷いてみせると、小さな護衛に後を任せて、彼は主の元へ一飛びに去っていった。
 枯れた葉は、先日の雨で水分を含みながら音を立てる。秋服のドレスの裾が豊かな泥で汚れ、差し込む太陽の光と秋の風、空気に取り巻かれた、小さな家が見えてきた。この数年で、人の老いた皺のように壁が汚れ、草木に取り巻かれた隠れ家だ。
 開け放たれた扉から子馬が飛び込んでくると「ディアス!」と叱りつける声が響き、泡を食った少年が飛び出してくる。いちるの後ろに隠れた彼は、追ってきた母親に上目を向け、目でいちるに取りなしを頼んだ。しかしそれよりも以前に、母親はいちるの姿を認めて、息子のことを脇に置いてしまった。
「まあ、姫! 遠くからようこそ。お会いできて嬉しいです」
「元気そうですね、ミザントリ。ああ、そのまま後ろへお下がりなさい。下りて来なくて結構です。身重なのだから、すぐに座りなさい」
 もうすぐ生まれ来る二人目を待つミザントリは、幾分ふっくらとした頬で苦笑いをした。
「ちょっと無理してもいいのだって、二人目で分かったんです。少しくらい問題ないですわ。十分気をつけておりますから」
 今は主に過ごしている自宅にいちるを招き入れると、彼女は微笑んで息子に言った。
「鏡の前へ行って、ついているものを全部除いて、手と耳の後ろをよく洗ってこないと、おやつは出しませんよ」
 足の間をすり抜けて飛ぶように行く少年を見送るミザントリは、すっかり母の顔だった。
 改めて、花と香辛料と毛皮のにおいがする室内に招かれる。彼女の手製だという緻密な刺繍の枕が椅子に、壁には、巨大な飾り編みなどがかかっている。社交の場に出る回数が減るとすることがなくなり、手慰みにやってみると面白かったので、という言葉の通り、達者な作品が並んでいた。いちるも手巾や枕布を貰っており、今も愛用している。しかし、以前と比べて増える速度は遅くなっている。息子にかかりきりだからだ。
 今は二人目を腹に抱え、台所を預かっているアンザだけでは手が足りぬからと、近くの村から老夫婦とその孫を住まわせ、家を整えている。茶道具を運んできた娘にミザントリは礼を言い、下がらせた。入れ替わりにアンザが、林檎の砂糖煮や、芋の蜜菓子、焼き菓子を下げてやってきた。
「王妃様のお好きな林檎のお菓子ですよ! まだ季節が早いから蜜のたっぷりした林檎は出回りませんけど、アンザの手にかかれば甘いお菓子に早変わりです。どんどん食べてくださいましね! 王妃様はまったく、もうちょっとお太りになってよろしいくらいですよ。まあ、あたしみたいになっちゃ困りますけどね!」
 丸太ほどの腕で大らかな家庭の味を振る舞う。繊細さを追及する城の食事に飽きると、いちるはこうしてミザントリの自宅でアンザの菓子を楽しむのだった。細々としたものを組み合わせるのではなく、必要なものだけを小細工せず扱う彼女らの料理は、量さえ気にしなければ楽しいものだったからだ。
「あらってきた!」
「じゃあお客様にお窺いして」
 ディアスは小さな背丈を目一杯に伸ばし、いちるに問うた。
「ごいっしょさせてもらって、いいですか?」
「どうぞ」いちるは微笑んだ。
 枕を下敷きにして嵩を増やすと、やっと顔が出る。三つの子にしては溌剌とし、明瞭な知性があるのは、彼が神の血をわずかに引いているためだった。
 神は、往々にして発育が早く、青年体になると老いが急激に失速する。あるいは、年齢に関わらずある程度一気に成長することもある。アンバーシュが前者で、リリル川の小さな女神リューシアが後者だ。
 よく食器を使って、菓子を切り分けるディアスを見つめる。彼はことりと首を傾げた。
「どうして見るの?」
「どうしてご覧になるんですか、でしょう?」
「ディアスが美味しそうに食べる様子が、見ていて楽しいからだよ」
 蜜で口の周りをべたつかせるディアスを、いちるは生まれた時から知っている。
 ミザントリの妊娠が分かったとき、その時が来たと思った。少女は娘に、娘は母になる、その時間の流れに手を浸したのだと。彼女はこれからも老いる。ミザントリだけではない。今、いちるを囲む人々はやがて死を迎えるだろう。いちるは、その営みの中に、不分子でありながら存在している。
 王都を離れ、一人住まうことになったミザントリを、いちるはその周囲と同じようにはしなかった。最初の頃こそ呼んでいたが、今は彼女の元を訪れ、それまでと変わらず茶を楽しんでいる。赤子の世話に追われている彼女を眺め、子どもが歩き始め、話し始めるのを楽しんだ。ディアスはそうして、何の障害もなく成長している。もし遠ざけるのだとすれば、それはいちるではなくミザントリの方であろう。幸いにも今はまだ、こうして茶を呼ばれることが叶っている。
「僕は、食べるのを見ているより、食べるほうがすきだなあ」
「ディアスはそうやって、大きくなることが大事だ。さあ、わたしの分もお取り」
 目を輝かせて、少年はありがとうと言った。ミザントリは、摂生をしているために香草茶しか口を付けていない。少年が食するには腹の方が小さいので、残りの菓子はどうやら、土産に持たされることになりそうだった。
「大きくなった」
「……ディアスは変身が出来ますから、人に混じって育つのは、やはり限界があります」
 では、ディアスはいずれ神山へ行くのだ。
 いちるも知らなかったが、西では、神の血を引く者が生まれると、その力の強弱に応じて、育つべきところが定められるのだという。弱者はそのまま人に交じって暮らすが、強者は必ず神山へ、神々の領域で神としてあることを学ぶ。人間以上の寿命を有する場合が多い半神半人は、そうやって心身を鍛えるのだ。強者も弱者も、血脈の由縁を神々らに記録され、神の血が見逃されることはないのだという。
 ミザントリとクロードの息子は、半神と人の間の子で、神の血が濃く出た。人間と馬の両方の姿を取ることができ、今は人と関わることが少ないため、クロードが教えるもので事足りているが、ディアスが普通の人の子のように生きることは、これからは難しく幾ばくかの覚悟が必要だった。
 己が話題にされているのに気付いて、少年の耳が動いたように見える。深刻で寂しげな母を何とかしたかったのか、彼は言った。
「王妃さまは、子どもはいないの?」
 ミザントリの表情が強ばる。いちるは顔を向け、目で合図すると、ディアスに向かって首を振った。
「わたしの元には来ていないのだ」
「あのね、ベルンデアが、生まれたらいちばんのともだちになるよって言ってる」
 お腹の子です、とミザントリが囁いた。
「ディアスが名前を決めたんです。絶対に妹だと言っていて」
「妹と話が出来るのか?」
「うん! ベルは、だいたい夢をみてる。きれいな草原の夢。ときどきうたってるの。起きてるとおしゃべりするんだけど、言葉があんまり上手じゃなくって、よく分からないことのほうが多いよ。でも『イチル』『生まれる』『ともだち』ってくりかえしてた。よく聞いてみると、ともだちになるよって言ってるんだって思ったの。ねえ、王妃さまの名前ってイチルでしょう?」
 生まれたばかりの神がその前の場所に近しいのと同じように、腹の子もまた、そこへ通じているのかもしれぬ。神の血を引く者として、ディアスはそれを聞き取ったのだろう。彼の言うことは間違っていないのだろうといちるは思った。己の存在に関わる、アガルタに通じるものを感じたのだ。
「生まれたら、僕もともだちになる。ううん、兄になるよ。守ってあげる!」
「ディアス」
「ありがとう、ディアス。そうなったらいいな」
 おやつを食べ終えた子どもが、じっと話を聞いていることは難しい。再び外へ飛び出していく。その母と顔を見合わせて微笑み合った。ミザントリの方は、幾分か苦しい顔ではあった。

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