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 紅い茶の中に淡い色の砂糖を落とし込み、匙で掻き混ぜる。南の国がようやく落ち着き、こちらにも出回るようになった茶だった。色が濃く、熱が感じられる紅さが心なしかまろやかな色となり、質量を増してとろりとする。口に含むと、甘やかな時間と過ぎていった寂しさの苦みが舌に感じられた。
 三年か、と喉を過ぎていくものが胸に落ちる。
 ただのいちるが、ヴェルタファレン王妃となって三年と少し。アンバーシュと連れ添って同じだけの時間が流れ、その間にあったことも数えきれないが、思えばあっと声をあげる間だった。
 肩に触れなかった髪は胸を越えて落ちる間に、西島と東島の交流が始まって、新たなものがどんどんと流れ込んできている。学術、芸術。多岐に渉ったものが受け入れられ、反発し合い、また新たなものを生み出そうとする力が、世界を包み込んでいた。それは緩やかに膨らんで、各地の小競り合いに見られていたが、やがて大きな戦いをも予感させた。
 その時、妾が存在するかは分からぬ。言わぬが、三年の間に積もった共通の諦観がその言葉だった。果てにある救いを期待するよりもたちの悪い、言い訳じみた諦めは、みっともなく己を何度も顧みさせる。
「子どもは出来ぬ方がいい」
 いちるの言葉にミザントリははっと顔を上げた。
「何故です」
「不幸にするから」
「誰がそう言えるのですか。陛下も姫も、充分なお力をお持ちではありませんか」
 彼女が言うのならば事実なのだろう。例え、いちるがとこしえの存在ではなくとも。ただ、知っている。ミザントリが言うのは慰めだ。だが、そうであっても必死である彼女が愛おしかった。
「育てる覚悟もなければ、可愛がる自信もない。わたしに他者の人生を背負うのは重すぎるのです。我が身で手一杯なのだから、わたしはこれを幸いだと思っている」
「陛下も同じお気持ちとは限りません」
「そう。だが、わたしに見出したものを我が子に見出せるとは思えない。我が子とは結婚できぬ」
 ミザントリは目を剥き、椅子の上でよろめいた。いちるは机の上に両肘を立て、手を合わせてくつくつと笑った。その様子にわずか青ざめたミザントリはむっとして唇を尖らせている。悪質なことを言った罰に、何も言ってくれない。
 いちるの言葉は冗談であったし、本気でもあった。結局、いちるとアンバーシュはそういう形の夫婦になったのだった。お互いを見ることしかできない、閉ざされた世界で二人いる、そういう不自然でまったき形の。
 廊下から足音が響いてきたのはその時だった。またどこかから木の葉をつけたディアスが飛び込んできて「母さま!」と叫ぶ。ディアスをたしなめるミザントリの声の前にいちるは立ち上がった。
「だれか来る! 知らないひとだ」
 ディアスを部屋の中に押しやり、いちるは外に出た。以前のように動けぬミザントリは追って来られない。ディアスが戻ってきたことを知ったアンザが顔を見せるのに、外に出るなと厳命することを優先した。
 秋の葉が舞い散る空間が現れていた。家を中心に風が動いているのが、木の葉の動きで捉えることができる。地表に近いところには小さな渦が出来、耳障りなざわめきが不安を煽る。落ちるはずのない青い葉が赤と黄色と混ざりあい、樹が大きくしなった。
 来る、と目を眇めた時だった。かすかな音を立ててしなやかで大きなものが降りた。その固まりは二つに分かれ、一つは獣に、もう一つは人の姿になる。獣は巨大な黒豹で、一方もまた黒かった。衣服のせいだった。いちるは力を抜いた。
「やあ、イチル」
「人騒がせな登場の仕方は止めていただきたい、義兄上」
 銀夜王オルギュットはこちらをつくづくと眺め回し、近付いてくると、風の収まりと同時に舞って落ちた木の葉をいちるの髪から取り払った。向こうでは黒豹が伏せ、主と同じ瞳でゆったりと様子を見ている。
 約三年前、いちるの一件でティトラテスと悶着を起こしたアンバーシュは、調停の権利をオルギュットに委ねていた。アンバーシュ自身が混乱させたティトラテス皇国は、ヴェルタファレンを後ろ盾に、かつ、イバーマ王の名の下、復興活動を行っている。そのため、アンバーシュがイバーマを訪れることもあれば、オルギュットがヴェルタファレンにやってくることもしばしば起こるようになっていた。
 その時彼が好んで使う騎獣がこの黒豹だ。供を連れることを好まないオルギュットは、黒豹だけでやってくることも多く、最初は泡を食った王宮の者たちも、今は常の風景として迎えている。兄弟の不仲説は、何故かいちるが二人の仲違いを解消させたという間違った美談として拭われてしまっていた。
 しかし、近しい者なら、いちるが未だオルギュットから誘いを受けていることを知っている。今日もそれで現れたのだと思った。この後のアンバーシュの不機嫌を想像した。頭痛が始まる。また、縺れる。
「アンバーシュに用ならば」
「会ってきたところだ。懸案事項があったのでこちらに寄った。アンバーシュに後から聞くといい。すぐに来るだろう」
 オルギュットの顔を見て、言葉を止める。
 予感めいたものが背筋を通る。
 動くのか。時が。留められずに流れ出していくのか。義兄となった男の表情を目の当たりにして、息を吸い込んだ。
「……憐れみの対象はわたしか? それとも弟か」
「私は己の愛する対象が永遠でありえないことを知っている。私の悪癖はその諦めのうちに成り立つものだ。だが、アンバーシュはまだ望みをかけている。ありえない存在を思い描き求めるのは、虹の根元を探すようなものだ。私はアンバーシュが可愛いよ」
 一息にそう言ったオルギュットは、嬲るような顔で可愛いという言葉を弄んだ。
「可愛くて、哀れで、最も愛しているといっても過言ではない。私たちのさがは、そのまま父の自性だ。帰らぬものを求め、届かぬものを愛する。父が私たちを見るように、鏡に映すようにして私はアンバーシュを見ている。私と同じものを踏んでいくあれが可愛い。出来ることならば、雛には巣立ってもらいたいものとは思っているが」
「レグランスの具合は?」
 不意に方向を変えた話に、オルギュットは陰った微笑みを見せた。
「悪くはない。よくもないがね」
 魔に落ち、オルギュットその人の力で自身の存在を善の方向へ留めているレグランスは、ずいぶん衰弱してしまっていた。それまでは足を運んでくることもあったが、この数年は手紙でやり取りをしている。異質な色をした双眸の周りには濃い影が生まれ、何らかの衝動に身を委ねないようにすることが困難になりつつあると、いちるは痛ましく見つめていたことを思い出す。最後に会った時に、彼女自身がもうお目にかかることはないでしょうと言ったのだ。
 副官が辞することになったオルギュットは、ヴェルタファレンに他の者を寄越すことがなく、己一人でやってきて、アンバーシュと会い、ロレリアを交えて調停者としての責務を果たしている。時々、レグランスからいちるへ宛てた手紙を携えてくることがある。美しい副官が主を思い、オルギュットがいちるに会う口実に己を使っていることが見えるようで、溜め息を禁じ得なかった。
 我が身を削っても、想う者ために犠牲になろうとするレグランスは、理解は出来ても腹立たしいものだ。
「怒っているの。妬いてくれるのかな」
「そうして見てみぬふりをするのか。無垢な献身と愛は、己の身が歪もうともひたむきにお前に注がれているというのに」
 言ったのは意趣返しのつもりだった。しかしオルギュットは微笑みのまま。いちるのそれは彼の中ではすでに存在する認識だということが表れていた。
 会わなくなってから、レグランスは世間話のみで容態を知らせてこない。どれほど魔のものとしての意識に侵蝕されているのか。残り時間は、少なくとも、いちるがヴェルタファレンで過ごした月日よりは短い。
 長くはない。
「私は、失うだろう。悪あがきもそろそろ終わりだ。私にはいつでも解き放つ用意がある。この手で死の門まで送ることが、最後の餞になるだろう」
「――アンバーシュも同じ道を歩むと?」
 答えは分かっていた。
 そこで、入り口まで姿を見せたミザントリが立ちすくんだ。いちるの背中越しに見たオルギュットが笑顔になる。ディアスは稲妻が走ったように棒立ちになり、母の手を掴んだ。
「久しぶりだね、ミザントリ・イレスティン」
「は……あ、ご無沙汰しております。あの、よろしかったら中へ」
「それには及ばない。ただ、少し結界を張らせてもらう。家人はすべて家にいるかな」
 何が起こるのか分からない困惑顔でミザントリが揃っていると答えると、オルギュットは一時に術をかけてしまうのだと言った。見えない力が張りつめ、凝縮された瞬間、いちるの視界には閃光が走った。ミザントリは何が起こったのか分からない顔で立ち尽くしたが、「わっ」と驚いたディアスが尻餅をついているのを慌てて助け起こしていた。
「お守りのようなものだが、悪いものに憑かれることはないだろう。君の足枷も少しは軽くなる」
 我が身を振り返ってか。いちるを呼ぶために、周りの者を人質に取ろうとし、彼女がそうなったことを忘れたことはない。その分には、オルギュットはいちるに負い目があり、助けになると誓っていた。礼を言うのは儀だろうと口を開いたとき、黒豹が首をあげた。音もなく立ち上がると空を見る。
 再びの風、しかし乾いて軽やかな空気が渦を巻き、見上げると、二頭立ての馬車でアンバーシュがやってくるところだった。
 その表情をつぶさに見て取ろうとしたが、今は、柔らかな微笑みに彩られている。馬車が地表に近付くよりも早く飛び降りると、いちるとオルギュットを交互に見て苦く笑った。
「用は済みましたか」
「今、終わった」オルギュットが答えている途中で、アンバーシュはいちると彼との間に入ろうとする。慣れたもので、いちるも一歩下がって男が滑り込む隙間を作った。アンバーシュはこれ見よがしに肩を抱き、いちるは付き合わされる己を大根役者のように思う。オルギュットはあからさまな挑発に乗ることはなく、自身の眷属を呼び寄せ、いちるの頭から何かを摘まみ上げた。
「貰っていく。いい土産が出来た」
 風で再び絡み付いていた色づいた木の葉を一枚、指先で取ると、それを懐にし、背を向けた。黒豹にまたがったオルギュットは飛翔し、すぐに姿が見えなくなった。調停が終了し事後処理も落ち着いた現在、気まぐれにやってくる義兄の変わらぬ様子に、忍び寄る異変が強調されたように感じられた。本当に、オルギュットは救援に応えるつもりがあるのだろうか。
 敵味方すらも分けられていない状況で、始まってしまう。それがどういうものか知らぬまま。
 ふと、アンバーシュが振り返った。
「……ミザントリ、どうしたんですか、具合が?」
「も、申し訳ありません。その、すごくお腹が蹴られていて……その暴れっぷりが変な感触で」
 前屈みで心地悪そうにしているミザントリの手は、ディアスに握られている。ディアスはいちるを見た。透き通った目に覚えがある。フロゥディジェンマのような、無垢で真実を見通す瞳。
「ベルが、あのひとの名前をよんでいた。あいたいって。……僕ははじめてだったのに、どうして知っているんだろう?」
 幼子の声は心の底から不思議がり、かつ、その真剣さに大人たちは口をつぐまざるを得なかった。ミザントリが不安の目を向けたが、いちるとアンバーシュは互いの顔を見なかった。念話も交わさず、それぞれに、ディアスとミザントリへ向き合ったのだった。
「無垢な存在は始まりの場所を覚えていると言います。その場所では時が歪むので、そこでオルギュットのことを知っていたのかもしれません。生まれてくるのは半神かもしれませんね」
「ディアス。ベルは、遠い昔に彼に会っていたのかもしれぬ。だが、彼はそのことを覚えていないのだ。生まれてくると、すべての者は時に従って生まれる以前のことを忘れるものだから、ディアスが覚えていなくとも不思議ではない」
「どうしたらおぼえていられるの? 僕は、わすれたくないのに」
 ここで初めて、いちるはアンバーシュと顔を見合わせた。その部分を語るには、半神でも妖女でも、王や王妃であっても、真実を突き詰められぬ難しいものだった。
「神が許すならば」
 応えたのはアンバーシュだった。腰を落とし、少年の視線に合わせる。
「この世にあるものが、消滅するのではなく不滅であり、形を変えても戻ってくるものだと、神が許し、祝福するのならば、もしかしたら覚えていることもできるかもしれませんね」
「今はゆるしてくれていないの……んですか?」
「三柱がそのようにさだめられたので、今は叶いません。でもいつか、叶うかもしれません。この世界が新しく生まれ変わる時があるなら、そのようにお願いしてみてください」
 気安い貴人に、ディアスは頬を紅潮させ、頷いた。アンバーシュも笑い、少年の小さな頭の綺麗な髪を掻き混ぜる。首を竦める幼子は、父にもそうしてもらっているのだろう。嬉しげにアンバーシュを見上げた。アンバーシュはそれに微笑みかけ、まだ奇妙な感触を覚えているミザントリを支えて、室内へ誘導する。
「ねえ、王妃さま」
 ディアスはいちるの手を取って言った。
「もし、もしね、さっき言ったようになったら、いっしょにお願いしてくれる? 僕は、知っているひとのことをずっとおぼえていたいよ。だって、もう一度あえたらうれしいでしょう? 心細くないでしょう?」
 いちるは小さな手を揺らす。
「もちろんだ。わたしも、もう一度ディアスに会えたら嬉しい」
「王さまじゃなくて!?」
 心底驚いた顔をされたので、噴き出してしまった。少年はアンバーシュには合いたくないのかを知りたがったが、その部分はのらくらとかわし、秘密にしておいた。そういうことは、本人に言えば反応が誰よりも大きく、愉快なことを知っていたからだった。

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