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 次の瞬間、プロプレシアはばっと翼を広げるみたいに両手を挙げ、いちるの手を放り出した。降参の姿勢で固まっているので、何事かと眉を寄せる。あわわ、わわ、と言葉をひねり出した女神の叫び声。
「ごめんなさいごめんなさいー! えらそうなことを言って、しかもべたべた触ってしまってー!」
 いちるにしてはめずらしくきょとんとしてしまった。
「今さらですね……」
「あああ、しかもなんだかとても癒された感じがっ。循環? ろ過? すっごく綺麗な力が流れ込んでくる! 無意識にやってます!?」
 何がと尋ね返す直前に、アンバーシュの言葉を思い出した。触れていると気力が回復するだとか、力の流れが整うなどと。常に働いている力がそうさせるのだろう。水の力を吸収し女神に返した、手のひらを見つめる。
「ごっ……ごめん、なさい……はしゃいでしまって……」
 軽く手を握る。
「いいえ。お気になさらず。そんなに喜んでいただけるとは恐悦至極に存じます。お祝いの品も喜んでいただけるとよいのですが」
「お祝い!? そんな、気を使ってもらわなくても!」
 アンバーシュの頼みで、片方の髪の房を切り、宮廷管理官や神職の人間に任せて、力を抽出し石に込めたものを結婚祝いに持ってきていた。人工魔石ゆえに、自然の魔石のように大量の魔力は籠っていないが、それでも十分綺麗だと、アンバーシュは微笑んで言った。
 ――あなたの力は、薄紅色ですね。
「それよりも気になるのは、ご夫君のヘンドリック様は、御子がいるのをご存知ではないのか、ということです」
 淡く微笑んだいちるは、プロプレシアが固辞しないうちに別の話題を持ちかけた。案の定、彼女はそちらに気を取られる。
「それはだいじょうぶ! 魔法の指輪を渡してあるから。それをリリル川に投げ込めば、わたしと彼は会えるようになっているの。でも……指輪の効力に限界があるから、三回だけなんだけれど」
 一度使ったから残り二回、と指を立てる。子どもが生まれる頃に会いにいくと告げられて、生まれたときにビノンクシュトが祝いに二連の虹をかけるので合図にしてほしいと頼んであるという。
「楽しみですね」
「うん! ……あら、どうしたんだろう?」
 プロプレシアが裾を持ち上げる。彼女の行く方向に、先ほどまでなかった光の柱ができている。高くなればなるほど白く、天井が見えなくなっている。女神はそこに白い腕を伸ばして、降ってくる金の小さな光を受け止めた。呟きはささやかで聞き取れなかった。問いかけた。
「何があったのですか?」
「どうして、これ……指輪だわ。わたしが彼に贈った……」
 喜びの勝った困惑の顔で言う。
「ごめんなさい、わたし、地上に出てくるわ。兄さまか母さまに伝えておいてもらえるかな」
「お一人で行かれて問題ありませんか?」
「たぶん……ううん、約束はまだ先なのに指輪を投げ込んでくるのは、やっぱり何かあったのかも……今のわたしは力が弱くて、水鏡は扱えないから外の様子が見れないし……」
 いちるは立ち上がる。
「ナゼロフォビナ様にお知らせしてきます」
 逡巡するよりもその方が早い。部屋を出ようとしたときだった。「ああっ……!」という驚きの声がして、振り返ると、プロプレシアの姿は消えていた。
 光の柱が、地上からの光をほろほろと零している。
「プロプレシア?」
 床に、指輪が落ちている。縁を白く輝かせる輪を拾い上げ、ぎくりとした。指先がぬるりとし、指の中程から転がり落ちた指輪が、手の皺に汚れを塗り込んだ。紅のそれは、錆びて濡れた鉄のにおいがする。
「誰か!」
 声を出してから、別の声で叫ぶ。
[アンバーシュ!]
 呼んだもののこの距離で届くか否か。水の眷属も姿を見せない。プロプレシアの躁鬱のせいで、近付かないように厳命されているのかもしれなかった。ここに来るまでいちるは誰にも会わなかったのだから。
 指輪の血にプロプレシアが気付いたのだ。地上で何が起こっているにしろ、いちるが出て行くだけでは心許なすぎる。だが、真っ先に出て行った身重の女神を捨て置くには、経過する時間が惜しく焦りが大きい。肩で息をしている自分を叱咤した。
(落ち着け。……落ち着いて予兆を紡げ。辿り、見よ。この瞳は瞬きの間に千里を駆ける――)
 一度だけ深く呼吸をする。
 あまりに分厚い壁。遅い。意識の速度が上がらぬ。結界に押し返されるのを、無理矢理に突き破る。そうして手繰り寄せるそれ。
 うまく働かない。柔らかい水の板を押し続けるような抵抗感。どうしてこれほどまでに感覚が鈍いのか。もどかしさで唇を噛み切る感触。金臭い味が広がる。
 ようやく異界の門をくぐり水の内から空を目指し、流れを抜けた刹那に雫が打つ。浸食する紅の色。予兆が染まり、その不浄に糸が切れてしまう時に見えたものは。
「――――」
 いちるは、光の柱へ飛び込んでいた。



 ナゼロフォビナが杯を落とす。膝を酒が濡らすことを気にも止めず、まじまじとこちらを見ている。アンバーシュはわざとらしい動きに反応は返さず、己の配分で酒を注ぎ、呑んでいた。
「まだ……」
「それ以上言うと酒瓶を逆さまにして襟の中に突っ込みますからね」
 剣を側に置いた女神カレンミーアがくつくつと笑っている。
「その女は相当手強いよ。一緒に暮らして一ヶ月も経つのに、雷霆王でも落とせないんなら、あたしでも無理だね。神山に馬を千騎登らせる以上に不可能」
「戦女神にそう言われるなら光栄だと、彼女は言うでしょうね」
「内心では?」
「当然だ、と」
 酒が入っているので笑い声が大きく弾けた。
 多くの神々は祝いにやってきたその足で守護地へと舞い戻ってしまうか、あるいはビノンクシュトを囲みに行ってしまい、こうしてナゼロフォビナを労うための座を囲むのは戦の女神カレンミーアとアンバーシュだけだった。さきほどまで鉄の神と石の神がいたのだが、揃って呑みたいだけ呑んでいくと、さっさと休みにいってしまった。酔ったカレンミーアに絡まれるのが嫌なのだろう。
「後で紹介しなよ? なかなかあたしらに婚約者を疲労してくれないから、みんな文句を言ってるよ。強い女は好きさ。汚れることを厭わず、したたかで、裏表があって、しぶとく生きていく人間はとてもいい。そういう女なら、あたしの加護を与えるのもやぶさかじゃあない」
「俺ぁ喧嘩する方に賭けるぜ。どっちも恐え」
「イチルは折れ時を見極められる人ですよ。引き合わされた相手が神だと紹介されれば、己の矜持は置いて礼儀を示すことができます。ナゼロ、初対面のあなたにあんなことを言ったのは、あなたが彼女を侮ったからでしょうが」
 カレンミーアが笑う。その笑い方はなんとはなしにいちるに似ているようにアンバーシュは思った。芯のある女性は、唇を引き、目を光らせて、愉快そうに、戦いを挑むように雄々しく力強く笑うのかもしれない。
「まあ、何も言えなくなるよりいいわな。お前、注意してやれよ? 礼儀を払うに値しない相手に相応の礼で報いるなら、相手によっちゃ、大怪我することになる」
「具体的には?」
「神はまだいい。人間がな」
 絶大な力を持つ威光ある存在に、いくらいちるが何を言おうと所詮格下のさえずりに過ぎない。だが、彼女が俗世間であの言動をすれば、多くの人間の批判を買う。つまり、彼女と西神の相性がいいのは、西神が絶対的な権威を持つ存在でありながら、人の世に交わることが関係するのだ。
(それはさぞ生きづらかったでしょうに)
「……ん?」
 ナゼロフォビナが顔をあげる。
「ビノンクシュトが呼んでるな。ちょっと行って、」
 ――――アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!
「!?」
 三人は腰を浮かす。
 城が唸り、揺れる。その中で鋭く響いた声。
 ――アンバーシュ!
[イチル!?]
 呼びかけたものの、返ってこない。この場所を構成するビノンクシュトの力が揺らいでいるためだ。
 今の叫び声は女神ビノンクシュトの絶叫だ。
「ナゼロ!」
 カレンミーアが怒声で命じる。
「お前はビノンクシュトのところへ! アンバーシュ、あたしと来い! 外へ出るぞ!」
「すみません」と詫びて、二手に分かれる。飛び出した戦女神の後を全速力で追う。
 彼女はすでにいちるの気配を掴んでおり、更に水人の知らせもあって、今しがたまで彼女がいたのであろう部屋に足を踏みいれた。震える波動で、結晶が息をひそめて内は暗く、しかし数少ない外へ通じる通路が開いたままになっており、ぼうっと光の柱が浮かんでいる。
 そこから表へ出た。戦女神、そして西神の先鋒を務める二人は、まず血臭に気付いた。索敵の目を走らせ、見つける。
「プロプレシア!」
 川のほとりで倒れ伏した女神は、抱き起こすとぐったりと力をなくしていた。周囲には無数の足跡。だが、降ってきた雨がそれらを消していく。
(まずい。これでは追えなくなる)
「追わない方がいい」
 目を細く、地平にやってカレンミーアが言う。
「あたしの目を持ってしても、全方向、何の姿も捉えられない。姫の気配はここで消えてる。ぷっつりと、不自然なくらいね。よほど足が速いか、頭がいいか、秘策を持っているか。何にしろ相当やばい相手だ。誰かの力を借りた方がいい」
 雨が強くなってきた。ビノンクシュトに上着をかけ、抱き上げるアンバーシュの隣で、戦女神が呟く。
「ビノンクシュトが荒れている。この雨だと、川が氾濫する。被害が出る前に、治める方が先だ。アンバーシュ、すまん」
 首を振る以外に何ができただろうか。アンバーシュもまた周囲を探ってみたが、カレンミーアが言うように気配は断ち切ったように消えていた。まるで、ここから消え去ったかのようだった。
「……あたしはもう少しこの辺りを調べていく。お前は早くプレシアを連れて行け。あたしは子どもを産んだことはないが……あまり、いい予感がしない」

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