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 水が湧き、流れる音はいちるに魚の夢をもたらした。
 子どもの笑い声。少女の甲高い嬌声だ。歌うのはいちるの知らない西の歌。打ち鳴らす手と、他愛ない言葉を繰り返す遊び歌。
 水中から見上げた、水面が外の世界を映す。興味、好奇。そんなことはいけないと否定が混ざり、消えなかった羨望と疑問が浮かぶ。そこにはそんなに楽しいことがあるの?
(リリル……)
 名前が浮かぶ。女神の守護域の名、人の名、始まりの名。
 水は、流れて形を変える。ゆえにその場所から予兆を紡ぐことは難しい。だからこれは、誰かの強い記憶が流れ込んできているのだ。



 手を引かれる。
 ずいぶん高いところにある女の顔が、微笑んでいる。
 ――そちらにいってはだめよ。
 知っている、と思う。
 誰かの記憶は、いつの間にか己のものとなって、実際に体感し、魂に刻まれた光景を見せる。青い草原を風が渡る。どこまでも澄んだ空が続く。花が、蕾で揺れる。
 ――なぜ。
 ――そこは、わたしたちの世界ではないから。
 アガルタは生きていけない、と、女は囁く。吹く風に銀の髪が揺れる。母ではない。姉ではない。けれど近しいものを感じる。なのに、低く厳しく、強い拒絶で、わたしを遠ざける。
 振り返ったそこに、空に続く銀の大河と、白い門扉が見える。

 でもこれは、知らない世界のように思えた。
 






 ふと目を覚ますと、灯りが絞られ、青石の光は和らいでいた。群青色の温かい布の中のようで、寒さは感じず、心地いい気温が保たれている。ここが水と通じる異界で、外が春だということを忘れてしまいそうだ。
 いちるは、自分にかけられたアンバーシュの外套を椅子に退け、しばらくそれを睨んでから外套掛けにきちんと掛けておくと、いつの間にか取り出され置かれていた荷物から肩掛けを見つけ、部屋を出た。
 城は、どうやらかなりの広大であるようだ。透き通った壁から、向かいの壁が見え、いくつもの光が見えている。他の神々が代わる代わる訪れ、宴を行っているのだろう。
 その喧噪から離れていくと、ひっそりとした区画にたどり着く。とぉん、と金物を叩くような音が壁から聞こえてくる。
 ここでは石が歌うのだ。
 床には切り株のように石が生えている。瘤に似た結晶がその足下を飾り、水色に緩やかに明滅する。光もまた石に合わせて歌う。
(これほどの数の魔石は見たことがない。地上では採り尽くされてしまったのに)
 ヴェルタファレンの城はこの城と同じように結晶で覆われているが、この場所のように魔石が生えているわけではない。水の世界では人の手が入らないためにこの石たちは守られているのだ。
 と、衣擦れの音がした。
「だ……だれ……?」
 びくついた声に、いちるはつかの間黙って下がるべきかを考えた。ビノンクシュトの力に満たされたこの場所で、感覚がいつものように働かなかったために先客がいることに気づかなかったのだ。だがそれよりも相手が顔をのぞかせるのが早い。
 ぴゃっと悲鳴を上げて相手は柱の影に姿を隠してしまった。だが、すぐにおそるおそる姿を見せる。いちるはほっとした。昼間会った姿とは違い、冠を着け、衣装も夜会服になっていたからだ。
「お邪魔をして申し訳ありません。すぐに立ち去ります」
「そっ! その必要は! ……ありません……」
 慌てて転がり出てくるからいちるはぎょっとし急いで駆け寄った。幸いにも転ぶようなことはなかったが、近付くと腹部が張り出していることが分かってなおさら汗をかく。
「だ、ご、ごめんなさい、だいじょうぶです!」
 笑った顔は緊張で引きつっていたが、いちるは微笑みで返した。彼女を石の椅子に連れて行き、座らせる。
「あなたもっ、どうぞっ」
「失礼します」
 ぺしぺしと叩かれた石に座る。いちるが近付くと、怯えたように消えた結晶の光は、しばらくして輝きを取り戻して発光を始めた。
 石の音は様々で、鐘を打つような高音もあれば、木を叩くような曖昧で優しい低いものもある。そこに水が滴り、また流れる音が混ざり、不思議な空気を作り出している。
 そうっと顔を覗き込むプロプレシアに、目をやって尋ねた。
「どうかしましたか?」
「あなたは……その……喋るのが、得意でない……?」
「西の言葉で育っていませんので、俗語には通じていません。言葉少ななのはそれが理由だと思います」
「ううん、違うの! ええと、ね、わたしが会ってきた地上のものって、それはそれはたくさん喋るの。何を言っているのか分からない間に喋られて、考えている間にいきなり手を引いてきたりするのね。女の人はそうでもないんだけれど……でも切実に訴えてくる人も少なくなくて……」
 そこで言葉を切った女神は、不安な顔をして言う。
「……わたしの話、退屈じゃない? その、何か用があってここに来たんじゃ……」
「いいえ。少し一人歩きをしていただけですから。お話はとても興味深いです。東では、神々は西の方々のように人の世に交わらぬものゆえに」
 疑いは残るものの幾分かほっとしたようにプロプレシアは話を続ける。
「えっとね……わたしは、リリルという川を守護する座にいてね……昔は、そんなに人も多くなかったから、話す人もいなくて……だから、兄さまや母さまのように、恋をするとか、…………子どもを産むとかも、なくて……」
 赤面してもごもごと何かを言ってから、必死な目を向けられてしまう。いちるは緩やかに首を振って「ご夫君はどのような方ですか?」と尋ねた。
「とても不器用なひとなの!」
 恥じらいの顔を喜びに紅潮させて、言った。 
「…………不器用な方、なのですか?」
 喜ぶところなのだろうかと首を傾げると、己の浮かれようから我に返ったプロプレシアが「ちがうのちがうのー!」と赤面して手を振る。
「不器用っていうのはわたしと似ているからなのっ。もう見て分かる通り、わたしってこんなでしょう? でも、連れてこられたヘンドリックも同じで、あんまり喋るのが上手ではなかったの」
 訥々と彼が語ったことを、プロプレシアは教えてくれた。
 朝稽古の後、朝駆けに行き、遠くの山に虹がかかっていた。なんとなくそちらに向かって、ヘンドリックはリリル川にたどり着いた。汗もかいていたので、馬に水を飲ませがてら水浴びをしていると、突然ビノンクシュトの眷属に連行されて、プロプレシアとの結婚を言い渡された、という。
「そこまで聞くのに丸一日かかっちゃった。でも、わたしは居心地がよくて、それからたくさん話をしたわ。ヘンドリックは、わたしのことを好きになってくれたみたいで……」
「ご夫君は、今は城に?」
 もじもじと組み合わせていた手を腹部において、ため息。
「いいえ。地上に戻ったの。ヘンドリックは騎士だったから……母さまが、穢れが強いと言って許してくれなかった」
 地上のことを知っている? とプロプレシアは尋ねる。正直に言ってよく知らないが、と断って、自身の知り得る知識の正確なところだけを語る。
「調停役であるヴェルタファレンとイバーマの二国のおかげで、国家間の争いは激減したものの、国内での揉め事が多いと、書物に」
「血が流れる戦争になると調停者が出てきてしまうから、その争いは陰湿なものに代わったのだと、ヘンドリックは言っていたわ。けれどヴェルタファレンもイバーマも、戦争が起こらないかぎり他国への干渉はしないから……権力の椅子は、血に穢れているんですって……」
 騎士ヘンドリックは汚れ仕事をする者であり、それをビノンクシュトが厭ったということを推測したいちるは、それでも夫を案じているらしいプロプレシアを観察した。彼女は、呪いによって定められた夫を愛しているというのだろうか。
「あなたも……他の者から夫を決められたんだったわよね……アンバーシュは、優しくしてくれる?」
「優しすぎるくらいで、物足りません」
 プロプレシアは目を見開き、眉根を寄せて考え込んでしまった。ううん、ううんと唸り始めるので、気分でも悪いのかと思った。
「それだったら、ううん、いいんだけど……ううん、でもね……あんまり、その優しさを信じちゃだめだと思うわ……だって、兄さまの友達なんだもの……」
 初耳だった。
「素行が悪いのですか?」
「今はヴェルタファレン守護者の座にいるし、さほど噂は聞かなくなったけど、結構ひどかったって……ああああっ! わたしが言ったってアンバーシュには内緒にしてーっ! だいじょうぶ! 三百、四百年前の話だしっ! 優しいのは本当だし、ただ時々、ときどーきっ、ちょっと恐いだけ!」
「ふっ……」
 あははは、といちるは声に出して笑った。プロプレシアは汗を滲ませて硬直している。いちるが目尻に涙まで浮かべてしまったから、その慌て様は凄まじくなった。ひいひい笑いながら彼女の手を取って揺らす。
「ご心配なく。言いつけたりなどしません。おかしかったのですよ。あれの本質について、わたくし自身の推測が間違っていなかったのだということが」
 優しい言動で惑わすが、横暴で自信家で、粗野に振る舞うのに卑しくはない。草食獣の皮を被ろうと、猛獣の牙は隠せない。
 それがアンバーシュ・ヴェルタファレン。内に秘めたる実体は、公平たる神でも王でもない。
「あれは己の望みを隠したがっていますが、我執から逃れられないのです。だからわたくしなどを側に置こうとする」
 握っていたはずの手は、逆に優しく握り返される。手をさするプロプレシアの手のひらは、温かく、心地よくしっとりとして、心がほどけていく心持ちがする。そうして目を伏せる彼女は、ようやく女神らしい表情になったように思えた。今のままでは、どう見ても世間を知らない箱入りそのものだったので。
 言葉を使わず、女神はずっといちるの手を包み込んでいる。石の音色は、眠たげに低く、薄闇よりもずっと明るい光がただそこにいるだけで心をなだめる。
「他人から与えられた伴侶でも、絶対に愛せないことなんて、なかったわ。だから、だいじょうぶ。ただ、普通より時間がかかってしまうみたいだけど」
 彼女の青い睫毛が光を零す。
「それに、ここがあなたの終着地というわけではないの。あなたにはこのさき、ずっと果てしない道がある。今何を選んだって、未来であなたが選べることはたくさんあるわ。怯えないで、イチル。選んだものを永遠にする必要はない。あなたの選択と未来を、他人に自由にさせる権利はないから」
 知った口をきく。
 けれど、この、胸に行き渡っていく響きは何だろう。
「……アンバーシュを捨ててもいいと仰る?」
「そうしたければ。誰を愛するかはあなたの自由。でも、あなたを愛するのも彼の自由だから、去っていったあなたを追ってきても文句を言うことはできない」
 笑っていた表情が沈む。
「わたしは、追わなかった。わたしには、時を越えて思いを貫くことも、別離を覚悟することもできなかった。この子がいればいい。あれは夢で思い出。わたしが抱き続ける小さな光」
 どちらも静かにお互いの手を握っていた。
 女神の御手が触れながら降ったこの言葉は、果たして予言なのだろうかと考えている。
 果てない時間を約束され、自由を保証され、いちるは、アンバーシュを選ぶ必要はないという選択肢を示された。委ねられたまま手の中に水のように揺れ、焔のように燻るそれが、温かいのか冷たいのか、どちらともつかない温度でいちるの中に少しずつ重みを増していく。
 選択のときは近いのだと思った。詩の神ヒムニュスが完成させられていない歌が、一区切りつけられて歌われるようになるかもしれない。
(何が変わるというのだ、水の女神たち。あれの、どんな言葉も妾には響いてこないというのに……)

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