「だからってAYAにメールする私、まじチキン……」
 第一街、自分の部屋があるマンションの入り口の階段に腰掛けて、携帯電話を片手に紗夜子は大きくため息をついた。送信済みを表示した画面が通常待ち受けに切り替わる。
 AYAにはアンダーグラウンドのすべてを把握する力がある。尋ねれば、エクスリスのことを教えてくれるのではないかと思ったのだ。その手始めに、紗夜子は上層の街で何が起こっているかをAYAに尋ね、その返事を待っていた。
 コンクリートの灰色の階段は、紗夜子の体温を吸って暖かくなっているが、疲れて壁にもたれると、その冷たさに身が小さく竦んだ。足下からは冷気が漂ってきて、下水のにおいを含んだようなそれに、ここが地下だということを思い知らせる。
 ここは、空から光の降らない世界なのだ。
 そこから落ちてきたのは、自分だけだと思っていたけれど。じわりと滲んだ複雑な感情に、紗夜子はもう一度携帯電話を見つめた。
 トオヤ。そして、エクスリス。彼らもまた、第三と呼ばれる出身なのだ。
 胸を押さえる。内側で唱える。
(知るはずがない……知られるはずがない……)
 エクスリスは容姿と彼のまとう底知れぬ恐ろしさのせいか、本当はすべて知っているのかもしれない、と疑心暗鬼になっているが、じっくり、落ち着いて考えてみれば、紗夜子は第三階層にいたときに彼の存在を知りもしなかった。それは、きっと、エクスリスが隠されていたからに他ならないはずだ。

 そう、私は知っている。彼が、たぶん、隠されていたことを。

 彼を見た時にそう気付いた。だが、顔を合わせることがなければ決して知らなかったはずだ。第三階層の誰も、エクスリスの姿を見なければ、それが()で、何とどう関わりがあるのか(・・・・・・・・・・・・)を知らずにいるだろう。
 同じように、エクスリスが高遠が隠滅した『高遠紗夜子』という存在を知っているはずがないのだ。高遠紗夜子がどうして憎まれるようになったのかは。
 トオヤも、知らないはずだ。
 深く息を吐いた手の中で、携帯電話が鳴った。

『都市エデンは昨夜二十一時頃の停電によって一時的に混乱、現在は復旧済みです。しかし、あなたの知りたいことはそれだけではないのではありませんか?』

 おや、と首を傾げる。いつもの中黒で羅列した文面ではなく、普通の文章になっている。
 少し考えて、コンピューター相手に駆け引きするのも面倒なので、正直に尋ねた。

『高遠氏がどうしているのかは分かる?』
『高遠氏は停電の日より中央総統部に泊まり込んでいるようです。それ以上のことは私の管轄外なので分かりません。高遠氏が気になりますか?』
『うん』
『あなたが戦う理由に関係するからですか?』

 紗夜子は顔をしかめた。なんだろう、この会話は。なんだか、少し真面目の度合いが強すぎる人間と話している気になってくる。事実を告げるだけでなく、相手への疑問を投げかけて答えを求めるところは、子どもが回答を求めるような興味のような、以前のAYAにはない意識が感じられる。
(……進化、してる?)
 ぞっとするような、しかし呼吸が早くなるような興奮が紗夜子を襲った。声を上げそうになり、誰かにこの考えを伝えたいと思ったが、結局誰一人そこを通りかかることはなかったから、身体を固くしてその衝動を抑えた。
 何度かボタンの上で指をさまよわせ、考え考え、文面を作った。

『私にできることは、何があっても恐れないこと。
 できないことはできるようにしておくこと。
 戦うと言った私が何もしない、できないのは、一番だめなことだと思うから』

 高遠のことを聞いたのはその、恐れもなく、できないと足を竦ませることなく戦うために、知っておきたかったからだと、紗夜子は答えた。試す気持ち少々、自分への戒めと宣言でもあった。

 送信完了画面を見て気持ちが改まった。
「……うん、やっぱり、エクスに話を聞いてみよう」
 あなたは私を知っている? なんて問いかけは馬鹿のようだが。
 知っているとすればどうするだろう、と紗夜子は考えた。急に、つり下げた拳銃が重くなった。まるで、存在を叫ぶかのようだった。
 それを軽くしたのは着信音だった。
 AYAからのメールは『私にできることはありますか?』と問いかけてきていた。
 あの舌足らずの声を聞きたい、と思った。
 紗夜子は電話番号を呼び出した。アドレス帳の000番。かからないかもしれないなと思ったけれど、ぶつっと不意に接続される音がした。
「どうして電話をかけるのですか?」
「あなたのこと、すごくいいなと思ったから、声が聞きたくなったんだよ」
 笑みが滲んだ。
「ありがとう、AYA。あなたのこと、好きだなって思ったよ」
「この一ヶ月で、あなたとのメールの回数が一番多いです」
 もうちょっと『らし』かったら絶対今の発言の前に沈黙があったな、と紗夜子は忍び笑う。それがない今は、やっぱりもう少し人間には遠そうだ。
「ねえ、どうして私のこと助けてくれるの?」
「私の創造主がそう望むからです」
 誰だ?
「誰?」
 思ったことをそのまま口にしていた。AYAは淀みなく回答した。
「ライヤ・キリサカです」
 キリサカという名を、紗夜子はつい先ほど聞いたばかりだった。
(トオヤの……?)
「ところでいつまで通話をしているべきなのですか?」
 考える隙もなくAYAが尋ね、紗夜子は返答に詰まった。
「通話回数が少なく、一般的な通話時間の統計が取れていません。どの程度の通話時間が一般的なのでしょうか」
「え? え、ええっと……私に聞かれても……」
「分かりました。それでは、ライヤに尋ねることにします。それでは失礼します」
 その声とともに通話が切れた。ツー、ツー、と数度の音の後、画面は待ち受けに戻った。何ともいえない顔で携帯電話を折り畳みながら、もしかしてこれは話題を避けられたのだろうかと首を捻る。
「聞かれたくなかった、のかな……?」
 ライヤ・キリサカ、という名前が印象に残った。
 キリサカというのが聞き間違いでなければ、トオヤの関係者。きっと、三歳の彼を連れて落ちてきたという父親だという推測が立った。
【魔女】の素地を作った人物。
 そんな人なら、アンダーグラウンドの統制コンピューターも作れる、のかもしれない。だとしたらとんでもない人だな、とあまり実感もなく思った。どこに住んでいるのだろうか。一体、どんな偏屈な研究者なのだろう。
 まあ、これはトオヤに聞こう。紗夜子に知られたくないことがあるように、AYAにも触れられたくないことがあるのだろう、機械もそうなのかは初めてだが、たぶん。

「あ、サヨちゃん」
 足下に伸びた影に顔を上げ、笑った。
「こんにちは、ジャック。……顔色、あんまりよくない?」
 下から見上げるせいもあるだろうが、表情に影が差していた。紗夜子が言うと、ジャックは顎を撫でて苦笑した。
「実は徹夜やねん」
「ジャックは徹夜、平気そうに見えるのに、意外」
「遊んでるように見えるって? あはは、それは光栄や」
 笑い声にも覇気がない。身体の疲れならここまで辛そうには見えないはずだ、とじっと見つめていると、ジャックの苦笑が落ちて、寂しさの漂うため息が聞こえた。彼は、まるで紗夜子の目から逃げるように、うつむいた目元を押さえて壁にもたれた。その冷たさが慕わしいというように。
「……あかんなぁ。やっぱり生き死にに関わると、ちょっと気ぃ滅入るわ」
(あ……)
 死傷したUGのことを言っているのか自殺した【司祭】のことを言っているのかは分からなかったが、あの戦闘が原因であることは分かった。うん、とだけ紗夜子は相づちを打って、そっとジャックから目をそらし、視線を足下へと避けた。ジャックの鋲のついた革のブーツは、泥や埃を落とす間もなかったようだった。
「サヨちゃんは、前、強いって言うてくれたけど、全然強ないねん。特に俺な。実は、UG本部のボスの息子やねんけど」
「えっ」
 窺うように見られて、目を見張ったまま頷きだけを返した。ここで驚いても話が余計な方向へ進むだけだから、びっくりは胸の中に飲み込んでおこうとしたのだが、浮き足立ったのが分かったのだろう、ジャックは苦笑して、紗夜子に分かるように説明してくれた。

 UGという組織は、このアンダーグラウンドの更に地下階層に本部がある。アンダーグラウンドの表層部分にあたるこの地下一層に先鋒部隊を置いて活動している。このリーダーにあたるのがジャックたち三人なのだという。仕事は主に情報収集、地上の状況報告等。戦闘時の急行部隊としての役割も大きい。大きな作戦は『本部』に所属する者たちが決定し、先鋒部隊を実行隊とする。この、指示を与える本部のトップでボスと呼ばれる男が、ジャックの父親なのだという。

「でも俺、期待はされてなくてな。俺も得意なのはサポートやと思ってるし、そういうのがトップに立つのはなんかなーと思ってるし、実際、戦闘の指揮を執るのはトオヤやし。……でも、最近ちょっと思ってるねん。このままでええんやろうか、って」
「……心配事があるの?」
「うん。トオヤは、……トオヤと親父さんは、俺らが無理矢理UGとエデンの戦いに巻き込んだようなもんやねん。トオヤは否定するけど、ほんまやったら戦うことのない人生を歩むはずやったし、アンダーグラウンドに来たことで戦わんですむ道を選ばれへんかったと思う。トオヤに戦わせて、ほんまにええんやろうか」
 紗夜子は言った。
「それ、トオヤに言った?」
「うん。聞いた」
「答えてくれなかったでしょう。それとも、怒ったかな」
 ジャックは目を見張って、そしてため息まじりに呟いた。
「サヨちゃんの方が、トオヤのことよう分かってる」
「違うよ。私もトオヤに、トオヤの戦う理由を聞いたの。でも教えてくれなかった。第三階層の人だったって本人の口から聞いたのに」
 大袈裟に息をのんだジャックが肩を落とす。
「うわ、聞いてもうたか。うらむで、サヨちゃん」
「ご、ごめん……」
 縮こまると、手が伸びた。
 頭を優しく撫でられた。
「……そう、つまり、トオヤはUGにとって旗頭やねん。第三階層出身の人間がアンダーグラウンドのUGに味方してエデン機構に異議を唱えてるっていうのは、UG側の指揮に関わるし、ええ広告塔、っちゅうことやな」
 だから、トオヤは降りられずに戦い続けているのではないか、ジャックはそう考えているのだろう。
 そして、自惚れでなければ、紗夜子もまたここに置かれているのはその本部が紗夜子の価値を多少なりとも認めたということなのだ。
 続くジャックの言葉は、秘めた願いを滲ませた。
「UGに味方してるから戦わずにはいられない。理由とかの前のそれやと思うねん。俺は……そんなことであいつを失いたくない」
 できることなんてないんやろか。
 ジャックは呟いて、長く深いため息をついた。
 できること、ないかな。紗夜子も胸の内で呟いていた。誰かのためになるいい選択ができたらいいのに。高遠に復讐すると決めてしまった紗夜子が持っている、戦い続けるという決意は歪つで寂しいもののような気がした。
 だから、私はこれから歪んでいくんだろう。
 きっと、誰かをすくいあげることもできずに。
 たとえ戦うことを決めてもそれまでの日々が終わるわけではなく、ジャックはこうして悩んでいた。戦いは、毎日の中に普通に溶け込んで存在している。次第にありふれた生活から離されていきながらも、願うことは変わらなかった。
「うん。私も、誰も失いたくないよ」
 それを意識するかしないかの違いで。失ったことがあるかどうかの違いで。絶対にこうして大切な誰かを失いたくないと恐れる人は、いつのどこにでも存在しているのだろう。
 声には、手を握りしめたその時の力がこもった気がした。
 すると、ジャックは突然紗夜子に向かってぱっと笑いかけた。
「ごめんな。暗ーい独り言聞かせてもうて」
 湿った空気を拡散させて誤摩化すようだった。紗夜子はそっと首を振った。
「ううん。でも、そっか、ジャックも悩んでたんだ。ごめんね」
「なんで謝るん?」
「うん。うーん、だって少し、嬉しいから、かな。戦ってるのは、血も涙もない人じゃないんだって。だって、第一階層にいた頃、UGってすごく悪い人たちだと思ってたから」
「なんやそれー! 俺らどんだけ鬼畜やねーん!」
 あははは、とマンションの入り口で二人の笑い声が反響した。
 今になって思えば、UGに対する差別意識は馬鹿馬鹿しいものだったと思うけれど、現実には彼らUGにとってそれらの情報操作や偏見は様々な不便としてのしかかっている。それでも、紗夜子はそれを吹き飛ばすつもりでひとしきり笑った。
 やがて、立ち上がって膝とお尻を払い、ちょっと出かけてくる、すぐ帰るから、とエクスリスのところへ向かうことを告げると、ジャックは真剣な表情で紗夜子を覗き込んだ。
「走りやすい靴か? 襲われそうになる前に逃げるんやで」
「……どれだけ信用ないの、エクスは……」
 脱力しながら、それでも靴の爪先で地面を叩いてその固さを確認した。そして、手を振って別れた。



 ジャックはそれを見送った。結んだ髪を揺らしている背中を、歩いていても前へ前へと駆けていくような印象を受ける子だな、と見つめていた。足取りは伸びやかで、素直だった。きっと、意識して背筋を伸ばして歩いているのだろう。

『少し、嬉しいから、かな。戦ってるのは、血も涙もない人じゃないんだって』

「ほんま、なんやそれー……」
 独り言の突っ込みは、何故か泣きそうだった。
 一人になると限界が来た。壁にもたれて座り込んだ。決して暖かくない壁は、まだ紗夜子の残した熱が輝いているように見えた。
(俺に、何かできることないんやろか……)
 守れないのだろうか。トオヤやディクソン、UGの仲間たちだけでなく。
 父親に復讐したいと、血の涙を流しているような声で言った、あの子を。


      



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