第6章 白   
    


 降り始めた雨は柔らかく、空は少しだけ明るい。被った外套が雨粒を弾く、その音が内側に響いている。だが旅する雨雲はキサラギたちを強い雨の中心に誘い、大きな雫を降り注いでくる。雨雲が過ぎ去るまで待った方がいいだろうと判断し、巨木の下で馬を下りた。
 風邪を引かないよう馬の身体を拭いてやる。センもまた。竜狩りの街で訓練された馬だからか、この生き物はあまり竜人に怯えていないようだ。今もされるがままになって、時折鼻を鳴らしているのが聞こえていた。
 夏の始まりの雨は、今日一日降りそうだった。火は熾さず洋燈を枝に引っ掛けて夜に備える。
「――セン」
 刃を磨いていた手が、止まる。見上げてくる銀は不審そうで警戒心に溢れすぎていた。何故そんな顔をされるのか理由が思い当たらず、こちらも顔をしかめてしまいそうになったが、これから言うことを考えると、表さなければならない態度がある。呼吸を整え、気分を落ち着ける。目を逸らさずに、言った。
「竜人の郷に、行きたい」
 そこでセンは別の不快を示した。おやと思う。警戒していたのは、こちらが言おうとしていることを分かってのことではなかったらしい。
「黒竜を追えない」
「南へ行ったんだろ。なら南へ下るんだから……いや、違うな」
 センにはセンの目的がある。何故人間を伴ってその旅に同行させることを決めたのか、黒竜を追う理由も分からないが、彼は旅が始まってからキサラギを自由にさせてくれていた。最初は距離を置くことが第一で考えもしなかった。今は、知りたいと思いながら、聞かなくても分かっている。センは、自由にさせてくれる。だから、頭を下げた。
「灰色竜を追わせてほしい。お願いします」
 これ以上の自由はわがままにほかならないのだから。
「竜人に頭を下げる竜狩りなんて聞いたことがないな」
「それだけのことをする理由があるんだ。私は、センに頼んでる」
「では聞かせてもらえるんだろうな、その理由とやらを」
 ぐっと息を詰まらせたのは、センがキサラギを強く捉えたからだ。このままでは変わらない、平行線のまま。センは妥協しない。こちらが手の内を明かさなければ、彼は決してこちらを向きはしない。
 でも――竜狩りが竜人に近付いていいのか。
 竜は、竜人は、狩らなければならない。竜は人に害をなし、竜人は『悲劇』を呼ぶ。今やろうとしていることは、それに一歩近付くことではないか。
 拳を握りしめ、喉を震わせて見えない固まりを呑み込もうとする。だがどうしても震える手を抑えることができない。
 センが動いた。と思えば背を向けた。そろりと目を上げることができたので間違いない。
「俺は勝手にする。だから勝手に話していろ」
 そう言って、自分の作業を始めた。
「なんだその優しさ……」
 変なのと思えば震えが収まっている。
 そうして、口を開くことを決心したが、背中に向かって話すのがなんだか非常に違和感があったため、自分も背中を向けた。顔が見えなくなると、少しだけ、楽になった。
「……キサラギっていう街があってさ。キサラギは通称で、正式名称はキサラギノミヤ。私の故郷なんだけど、竜に襲われてね……」
 多分これはもう知っているだろう。竜に襲われ灰と瓦礫の都市となり、住民は他に見つからず、唯一キサラギだけが調査のために集まった竜狩りたちに救出された。五歳だった。
「私には姉さんがいて……家族のことはよく覚えてないけど姉さんのことは覚えてる。今の私と同じ歳で、十七歳の、キサラギノミヤの有望な竜狩りだった……」
 キサラギノミヤは大規模の街だったと、思う。都ノ王は竜狩りから選ばれ、父がそうだったはずだ。どのような仕事をしていたのか覚えていないし、母の記憶もないと言っていいに等しい。街に溢れる、光り輝く甲冑や、丁寧に磨かれた革鎧の人々と、彼らの持ついくつもの竜狩りの剣が、強く印象に残っている。
 竜狩りの姉という身近な存在があったから、そんな記憶を持っていたり、まだ体力作りの段階なのに模造剣を振り回して怒られた覚えがあった。信じて疑っていなかった。街の守護者、竜狩りになることを。
「姉さんは、竜狩りだった。でも、してはいけないことをしていた。竜人を、匿ってたんだ」
 傷付いた竜人の男を世話するうち、何が芽生えたのかは考えたくもない。姉は竜狩りの己を裏切り、竜狩りの誇りを捨て、妹を始めとした人々を裏切った。
「竜の血に触れてはならないと言うけれど、竜人の血にも触れてはならない。竜人の血に触れたのなら、人間は、竜になるんだ」
 そしてこの先は初めて口にすることだった。喉がひくついた。目頭が熱くなる。泣きそうにはなっていないが、辛いと、心が訴えている。ずっと鮮烈な記憶のままだった。褪せることはなく。キサラギは止まりそうになる言葉を紡ごうと、力を注いだ。
「姉さんは、竜の血に触れて、竜になった。――……灰色の竜に」
 言ってしまったと膝を抱えてしまう。
 背中との間に微妙な距離があっても温もりの気配が感じられるのは、雨で空気が冷たくなっているからだろうか。それが、少し動く気配。
「灰色竜が姉だと、何故分かった」
 キサラギは笑ってしまった。やはり逃がしてくれなかった。笑ってしまうと、覚悟が決まった。
「私が目の前で見てた」
 とん、とん、と剣を指で弾く。細い枝から落ちる雫に合わせて。雨の音を、十二年間ずっと聞いていた気がした。忘れたことはなかった。ぬれねずみの泥だらけで、彷徨っている子どもはずっと胸の中にいたのだ。
「姉さんは、竜人と何か約束を交わしてたみたいだった。でも何か口論になってた。私が姉さんの後をこっそりつけて、竜人を匿ってたんだって噂を確信した夜に」
 街から外れた遺跡に人目を忍んで駆けていく姉は、蝶のような外套に身を包み、夜の見知らぬ闇へと誘われて。慌てて後を追った先で交わされる会話は甘く、だがひどく痛切だった。次第に激しくなる声音が、断片的な音を届ける。『だめよ、だってまだ』『子どもでも周りが育て』『あの子には私』『約束を』『大人になるまで』『なら妹を』
 竜人の男は、少女に気付いた。
「彼は私に襲いかかった」
 誰かに突き飛ばされたような気もするし、逃げろと叫ばれた気もするし、庇われた気もする。それでも逃げられないと分かった時。
「私が気付いた時、姉さんは真っ赤に染まっていた。側には、竜人の亡骸が、あった」
 大丈夫、と姉は訊いた。だいじょうぶと習いのように答えると、姉は微笑んだ。いつものように、こんなところまで来て、仕方のない子ねと名前を呼んで。
「最後に、『分かって』って、言ったんだ」
 ごめんねでもなくさようならでもなく。人でない咆哮を上げ、醜く変じる皮膚や巨大化する身体。苦しみ悶えながら、新しく生まれた灰色の巨大竜は、人間としての姿を失い、故郷の街に襲いかかった。
 燃え盛る街の光景が記憶にあるのは、自分が、それを街から離れたところで見ていたからだ。赤く燃える古都に、灰色竜が不吉なものとして浮かび上がっている。絵のようで、物語みたいな、最も恐ろしい現実。
 灰色竜が飛び去った後、夢から覚めたみたいに街へ走った。けれど見知った人々の姿はどこにもなかった。別の世界に来たかのように、キサラギは一人、街を巡り続けた。いつしか雨が降り始め、やがて世界は灰色に染められていく。暗闇に近い、先の見えない色に。
「私は救助と調査に来た竜狩りに拾われて、セノオにイサイに引き取られた。私は竜狩りになった。灰色竜を追わなければならないと思ったから」
 灰色竜の噂を聞く度に、心臓が跳ねた。今もまだ生きているのだという安堵と、また誰かを襲ったのだという罪深さに絶望して。しかし、噂が掻き消えた一年と少し、キサラギは苦しかった。息が出来ないくらいに。もし灰色竜が死んでいたら、それは目的を失ったことと、同じ意味なのだから。
 それで昔語りはおしまいだ。センが背後で立ち上がり、暗くなってきた世界に灯をともす。
「灰色竜を追うのは」
 一度発した声は思いがけず大きかったのか、彼は少し音量を落とす。
「贖罪か、それとも断罪か?」
 姉を止められなかった、償い。
 竜になった姉を狩ってやらなければという、裁き。
 どちらだろうと、目を落とした。雨が少しずつ染みて、側まで大地が濡れている。
 考えてこなかったわけではない。何度自問しても答えは出なかった。これからも、出ることはないと思う。
「義務だと、思う」
 ただ知りたいと思った。
「姉さんの言葉の意味を知らなければならないと思う。『分かって』。何を、『分かって』ほしかったんだろう」
 分からない。知りたい。知らなければならない。そうでないと、救われない。
 答えを求めない問いにはセンは口を開かなかった。だが、背中にとんと温もりが触れた。振り返りそうになったが、留まる。センの背中だと分かったからだ。
「義務か」
 まるで羨望するような音で、意外に思う。
「俺は、贖罪だ」
 雨の音に紛れた言葉は背中が触れていることでかろうじて届いた。それが黒竜のことだと知って、待つ。だが、それ以上言葉はなかった。背中に触れるものは、近いようで、まだ遠いようだった。
 雨はしばらくして上がり、雲が少しずつ切れ間から光を投げかけてくる。
「覚悟があるのなら郷に連れていこう」と、センは立ち上がった。
「覚悟」
「何が起こっても否定しない覚悟を」
 キサラギは腰の剣に手を置く。そこにあるものを確かめて。
「分かった。否定しない。受け入れて、立ち向かう」
「……さて、これから奴に会ってもそれが言えるかどうか」
 センは大きくため息を落とし、馬の手綱を取った。そして、行くべき方向を示した。
「南へ向かう。まず、テランの街へ」

   *

 街と呼ぶには小さな、村が発展途上にあるような町がテランである。竜狩りの街ではないので中央に物見塔はないが、周囲に田園が広がっているのどかな田舎町だった。
 センは手近な人にこういう面相の男に会いたいと声をかけている。彼が誰かと率先して会話をする物珍しさは、やがて彼が伝えているものの引っかかりに占められていく。
「な、なあ、なんで?」
「会えば分かる」
 それだけ言うと他の全ての質問を封じて、センは目的の男の元へ歩いていく。客人の泊まるという建物に、いつものように注目を浴びるのを受け流しながら、押し入るように部屋に足を踏み入れた。
 部屋の主は驚いたようだったが、何も言わなかった。目元を和ませた静謐な人は、訪れを予期していたらしかった。
「お前、竜人だろう」
 その瞬間、キサラギから疑問を含めたすべてが真っ白に塗りつぶされた。
「……え?」
 呆然と立ち尽くすキサラギの前で、その人は静かに微笑んだ。そこには獰猛さの欠片もなく、ただ、窓から吹き込んでくる風を身にまとう優しさがあった。
「ええ。……真の竜人には、私のような偽の竜人が分かるんでしたね」
 セノオの竜狩り、その長たるキサラギの養父イサイはそう言って、頷いた。


「私は退化した竜人です。王国地方ではこうした人間……竜の血をわずかに引く竜人が多く住んでいます」
 いつの間にか疑問をぶつけていた。何故、と。そんなはずはないと。その答えだった。
「竜人と人間が混じり合いすぎて人間に近く、だが能力が特化した者たちが住んでいる」
「ええ。王国にも人間の血を求める竜人はいますが、彼らは真の竜人と呼ばれます。私のように血を求めない者が一般的で、普通に人間として暮らしています。竜には変身できませんが、ほんの少し身体が丈夫だったり、身軽だったりしますね」
「どういう、ことですか……どうして!?」
 そんな会話が聞きたいんじゃない。何故竜人がいるのだ。何故イサイが竜人なのだ。人間を求めない竜人? イサイはどうして黙っていた。
「何故竜人が竜狩りをするんですか! 同族殺しだ、あなたのやっていることは!」
「キサラギ、私は竜でありません」
「あなたは竜人だと言いました」
 否定はされなかった。目の前が真っ暗になっていく。代わりに、静かな言葉。
「そうですね。ですが、私は竜人の血を少し持ったというだけの、人間なのです。私はそう思って生きてきました」
「でも竜人だ!」
「キサラギ」
 いつも本当だけを告げる表情と声。だからキサラギは言葉を封じられる。
「竜人と人間の違いはなんですか。人を襲わない竜人は、人間ではないと? 人間を大切に思う竜は、なんという名の生き物になりますか?」
 分からない。考えることを心が拒否している。
 竜人の血は人間を竜に変えるから。竜に変じて人を襲うから。『悲劇』が起こるから。思いを寄せてはならない。近付いてはならない。
 竜人は狩らなければならないものなのに。
 いつの間にかセンを見ている。彼を見て、何故かここにはいられないと思った。

    



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