森の中を歩いていた。家から出るなと言われていたのに、ここに来たのならミサトに挨拶した方がいいと、子どもの母親が言ったのだ。
「でも、センに家から出るなと言われてます」
「大丈夫よ。この辺りに竜は住んでいないし、ミサトの家もすぐ分かるわ。センに何か言われたら、迎えに来たって言えばいいのよ」
 そう言って追い出されてしまえばどうしようもない。またセンに冷笑されるのかと思うと気が重い。あれだけ出て行ってはだめだと強く思っていたのに、当然のように追い出されてしまったのは、何かおかしな力が働いたようでどこか薄気味悪く感じた。仕方なしにミサトの住居であるという館まで歩く。
 その建物は非常に目立った。見たことがなくて口を開けて眺めてしまう。いくつもの戦闘、豪奢な飾り、窓には大きな硝子。王国地方の建築要素だろうとは思ったが、実物は初めて見る。
 扉を叩く、が、手はあっさりと扉を押して向こう側に開いてしまった。ぎょっとして、外からの光が細く差し込む、模様石がはめ込まれたつるつるの廊下を見る。
「ごめんください……どなたかいらっしゃいませんか?」
 足は踏み入れずに声だけをかける。だが、いんいんと響いて消えるだけだ。
「ごめんください」
 少し強めに言ってみる。この広さなのに照明がわずかで、暗い。目を凝らしながら決心して中に入ると、背後で扉が閉まった。どおんと響いた音に心臓が飛び上がる。
 暗さに段々目が慣れて、館に充満する空気も分かってきた。甘い、大きな花のような香り。薄暗い中、天井には絵が描かれている。翼の生えた幼児や、色とりどりの布をまとった男女、空や雲の色はくすんで見えるが、金色が銀色で塗られているようだ。
 だが見蕩れている場合ではない。「ごめんください!」と叫んだ。反響して、消える。
 だが、その声は大きくなって戻ってきた。
「……こちらへ…………」
 こちらへと繰り返される音。人の姿はなく、どうやら声を辿ってこいということらしい。
 光がないというのはとても心もとなかったが、意を決して、大階段を上り始めた。
 上り切るとこちらへと声がする。廊下を曲がるとまた声。そうして辿り着いた一室の扉は閉じられていて、キサラギは扉を軽く三度叩く。
「どうぞ……」
 女性の声が答え、キサラギは扉を開けた。
 途端、溢れんばかりの花の香りがまとわりついて、思わず身を強ばらせてしまう。香りが煙のように見える気がした。幾重にもかかった寝台らしきものの紗の下に、肩肘を突いて寝そべっている、赤い髪の女性。
「ミサトさん、ですか?」
「ええそうよ。迎えはちゃんと行ったみたいね」
 眉をひそめると彼女は笑う。ころころと、鈴を鳴らすように。
「館に行くよう言われたでしょう? そうでもしないと、センがあの家から出さない気がしたから」
 目を見開く。が、振り返った時扉は閉まっている。
「あら、そんなこわい顔しないでちょうだい。お話がしたかっただけなの」
「センは。どこですか」
「あの子のことはいい。私と話すの」
 断固として切り捨てられれば口をつぐむしかない。この場の主は彼女。何か不思議な力が働いているようだし、逆らわない方が身を守れる。黙っていると、良い子ねとミサトは笑む。
「キサラギという名は、本名?」
 思わぬ質問に動いてしまう。
「……いいえ」
 正直に答えたのは曖昧さが嫌われそうだと感じたからだ。そこから何が来るか身構えていると、そう、とあっさりミサトは頷いた。
「ああ、でもね、センもそうなのよ。本名じゃないの。知っていた?」
 だが思いがけずセンの話題になる。話題を封じたのは彼女のはずなのに。麻薬のようにミサトは指を広げて頬に悩ましげに添えると、柔らかな毒を含ませるように甘く粘ついた言葉を発する。
「センを竜人にしたのは私なの……あの子は雨の中、殺されかけていてね……私があの子に血をあげると、あの子は苦しみ出して……」
 センの過去。近付こうとしなかったものが、他人によって近付けられる。甘い匂いに頭の重さを感じながら、ミサトの浮かべる毒の笑みを見ている。
「もうどれくらい前かしらね……あの子は私の竜になって……ねえ、とても綺麗な子でしょう……? あなたが好きになってもおかしくないわねえ……」
 視界が揺れた。それは、ミサトが素早く起き上がり、キサラギの腕に手を絡ませ爪を立てたのだ。
「っ……」
「どれくらい好き? どれくらい溺れたの? 美しい子ですもの、とても綺麗な子。誰よりも強いから、負けることは決してなくて。孤高だから、誰のものにもならないはずだったわ。ねえ、どれくらい好きだと言ったの、どれくらい溺れたの、あなたに、センは?」
「は、なして……!」
 怖い。その手の力も、胸に入り込んで立てられるような爪も、流れるように紡がれる言葉も。瞳は、キサラギを見ていながらここにいない一人しか見ていない。だがこちらを許さないと責め立てて離さない。
「あの子は、どうしてあなたを好きになったの?」
 問われた時、目が眩んだ。叫んでいた。
「センは、私のことを好きになったりしない!」
 好きになったりしない。センは竜人で、キサラギは人間だ。竜人と人の『悲劇』を知って、そしてそれを起こして罪を犯したセンが、もう一度人間を好きになるということがあるだろうか。
 言えば、何かが音を立てた。突き刺されるように深く、引っ掻かれるようにひりひりと痛む。おかしな間で打つ心臓は、ひびの入る音に似ていた。
「では何故一緒にいるのかしら。あなたはどうなの?」
 私? とキサラギは返す。
 良き旅の仲間だとは、思う。優しいときもあれば厳しいときもあって、ここに来て明らかになったのは、彼がキサラギが何らかの答えを見つけるのを待っていることだ。それ以上は、分からない。
 だが思い出したものがある。『竜の血に触れるな』、そして『私は竜狩りだ』という意識。
 指が離れた。肌を晒していなくとも赤い跡になっているのが分かる。まだ痛みの残る腕を握りしめて、ミサトから離れた。
「……いいわ。許してあげる。時間が来てしまったみたいだし」
 気付くと、何かを強い力で叩くような音が響いている。思い出せば、それはキサラギが答えた時から聞こえている音だった。自分の中が立てている、自分にしか聞こえない音ではないらしかった。そして今はっきりと地面の揺れを感じているように、遠かったそれはみるみるうちに距離を近付けてくる。やがて、ものすごい音を立てて扉が破られた。
「いらっしゃい、小さな竜」
「セン!」
 肩で息をしたセンは何も言わずキサラギの腕を掴むと部屋から引きずり出した。
「よく聞こえたみたいね。この館にはね、そういう仕掛けが無数にあるのよ。知らなかったでしょう」
「……あなたが俺の行動をどうして把握していたのか、今日分かった」
 振り向かず低く呟いたのはキサラギには聞こえたが、果たしてミサトにはどうだったのか。笑い声を背後に聞きながら、センは再び大股で歩き出す。階段を飛ばして下り、来た時にはなかった窓硝子の欠片を踏んで、暗く甘い館から飛び出した。

    



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