外に出ると空気が優しかった。夜の冷たさが近付いてきていて、本当に甘いということはこういうことだと、清廉なものを胸いっぱいに吸い込んだ。センはどこまでも歩いていく。夜に覆われ始めた空の下を、今日の光を追うように。
それは、何か許されていない者に追われている気がした。山脈のただ中から見た夕陽は、向こうの山に沈んでいく。胸が寂しくて寂しくて、苦しくて。この手は少し冷たくとも確かに人の形をしているのに、センは掴むばかりで、お互いに握り合うことはない。
月が昇る。人の灯火はどこにもない。月は冴え冴えとして星の光で世界は淡い。キサラギは、ついに手を振り払った。
お互いの足が止まる。
「竜人って、なんなの」
泣きそうな声になってしまう。
「竜人が人間を襲う理由は、願いを叶えるためってどういうことなの? 正竜人や失竜人って区別があるのは? あんたは、――誰なんだ」
いくら望んでも答えは返ってこない。まるで石像に話しているようだ。キサラギ自身も本当に聞きたいことを聞けない。言葉の無駄遣いで不毛な会話をして。そう、思ったのに。
「竜人の血は、人間を竜にする」
躊躇いがちに口が開かれた。向けた視線は下のまま、何をしようとしているのか、気付き始めて目を見開く。
「だが普通は竜人になることはなく、人間は自我を失い、人を襲うようになる。人を喰らうのは竜だ。そういった竜を、竜人ではないものとして『失竜人』と呼ぶ」
キサラギは当惑する。何故、ずっとくれなかった答えを示すのだろう。
「竜人が生まれるのは竜人からだ。そこには人間と同じ営みがある。だが、竜人には生まれついた本能がある」
人間を、求める。
そうだ、とセンは頷いた。
「竜人は人間を求める。正確にはその血を。願い事が叶うというのは、竜人が人間の血を取り入れれば、人間になれるという伝承があるからだ」
「人間……に……?」
竜人から見れば格段に劣っている人間になりたいと。
「永遠を生きられるはずの竜人は人間になりたいと願う。理由なんてどこにもない。竜人であるからという理由で事足りる、本能だ」
多くはその形は恋になる。人間に恋い焦がれる思いが、種族を越えた罪深い恋愛に発展するのだろう。
そうセンは言った。
「……センも? あんたも、人間を求めたのか」
銀の瞳が伏せられる。首を振ってはいないのに、否定したがっているように見えた。したがっているが、起きたことは変えられないのだと、知っていた。
「だが、どんな人間と竜人の愛も、不幸な形に終わる」
知っている、と、思った。姉さんと竜人。マミヤのマリと竜人。そして、センとランカ。誰も知らない場所で、そういった『悲劇』は繰り返されているのかもしれない。彼らは本能で、恋をする。
「ランカは、しばらくの間は竜人だった」
月光は冷たく、センに降っている。
「だが彼女は憎しみを抱き始めた。叶うと信じていた願いは、叶えられないと分かったからだ。俺は、叶えてやろうとしなかった」
その光は冷たくて冷たくて。
「ランカの願いは、俺がずっと彼女を見ていることだった。永遠に側にいることだ。だが俺は、彼女が竜人の願いを理解してくれなかったことに失望していた。俺たちはすれ違い、お互いを憎むようになり、ランカはその末に、失竜人になった」
己だけの温もりでは冷たくなるばかりで。ただ冷たくなっていく光を抱くだけで。
静かに告白したセンに、キサラギは思わず手を伸ばした。自分は、彼の傷をえぐった。
「ごめん」
服の裾を握った。手が震えて卑怯だ。
「ごめん。私」
何を言っていいのか分からない。傷付けたということが辛かった。どうしようもない無力さを感じさせた。きっと凍えているだろうと分かっているのに、手を伸ばす以外の方法を選べない。
だって彼は竜人だから。
「竜狩りが、竜人に謝るのか」
「謝るべきことは謝るよ」
馬鹿にすんなと唇を噛む。裾を握る手はそれ以上何も出来ない。どうしてこんなに、こんなに。
空の銀星は群れているのに寂しく一人で輝いていた。明るい空でもその下にいる自分たちはそれぞれ一人で立っている。何故、一人なのだろう。
「キサラギ」
おいでもお前でもない。名前を呼んだ、その微笑み。
「今からすることを許せ」
なにと口を開く間もなかった。センの手が伸びる。
まず肩に触れた。引き寄せられた。
決して柔らかくない肩を撫で、綺麗でも長くもない髪を扱い、壊れ物に触れるように頬に手を添える、その動きは、まるで大切なものを手にしているかのように、穏やかで、優しかった。
「なに、してんの」
「触っている」
「そ、そんなの分かってる」
「もう、触れなくなるだろうからな」
そう言った後は髪に顔を埋められる。ため息混じりの言葉が微かに耳に触れて、頬に熱が上っていく。
「人が温かいことを久しぶりに思い出した。……お前は、温かいな」
その声には本当に安堵が込められていて。背負ったもの、義務として抱いたもの、すべて自分で選んできたつもりでいたけれど、本当は、少しだけ重いことに気付いてしまう。
キサラギはそう思うのに、こうしていても、センは決して寄り掛かりはしない。支えてくれるのに、支えられてはくれないのだ。染みる熱に、目を閉じる。
「……センも」
なんだろうといった様子で手つきが緩くなり。
「センも、あったかいよ」
硬直したそれは、やがて先程よりもずっと柔らかく動き出した。
お互いに、寄り掛かることはない抱擁だった。
一つだけ、とセンは何事かを語り出した。
「一つだけ、幸福に終わった恋があった。竜人の始まりだ」
キサラギは引きはがそうと伸ばしかけた手を止める。心地よい低音が、物語る。夜の寝物語のように、優しい。
「竜が、人間の娘に恋をした。竜は竜と人の姿を得て、人の娘は人の姿を得た。それが竜人の始まり。唯一幸福に終わった恋人たち。娘の生んだ子は、人間と、竜と、竜人だった」
どこのお伽話だろう。竜と人間が相容れないと教える、草原地帯の物語ではなさそうだった。唯一幸福に、という言葉がぽつんと落ちて波紋を描いた。
「だからその人間の子孫は竜と竜人を思い……竜は人間、また竜人の子孫は人間を思うのだろう……」
彼は、人に恋をした。その彼が人の温もりを懐かしく思う。彼はこうして、黒竜の娘を抱きしめたのだろうか。その恋は幸福には終わらない。だがもし祝福されたものだったとしたら、キサラギは今センとこうしてはいない。
「私がいなかったら、姉さんの恋は幸福に終わってたのかな……」
何が始まりで何が分岐だったのか。しかし結末が不幸で終わると決まっているのなら、何が起こっても意味のないもののようだ。始点と終点は同じ場所にある。キサラギが立っているのは、きっと。
「姉さんの声が聞きたい。あの言葉の意味を知りたいんだ。竜狩りが竜人を愛することを『分かって』って言ったのかな。竜狩りの掟を捨ててまで、心の姿形を変えてしまうほどの思いってあっていいのかな」
「――それを見つけさせろと、灰色竜は言った」
一斉に音が消えた。星の光さえ輝きを失ったかのように、暗闇が落ちた。
何を言っているのか分からず、のろのろと離れた先に、真実を告げる、冷酷な光。
「灰色竜は、俺が殺した」
光が消える。暗闇が覆う。世界が消えた。だがあまりにも唐突すぎて意味が分からない。心臓だけが異様に跳ねて、頭痛と吐き気を起こす。
「一年ほど前。ランカを追っていた俺は巨大竜を追ってキズ山脈に入った。それは黒竜ではなく灰色の竜だった。あれが失竜人だとすぐに分かった。だから、狩った」
狩った、という言葉が反響した。センは嘘を口にしたことはない。黙っていたことはあっても。だから、狩った、という言葉は――。
「――っ!!!」
キサラギは掴み掛かったがセンは抵抗しなかった。手を防ぐこともなく避けることもなかった。余計に事実を、思い知らせる。
「私が……! 灰色竜を追ってたのを知ってただろ!? それを、狩ったあんたは、私が必死になってるのを笑って……!!」
「約束をした。灰色竜と」
「約束、なんだよそれ! 言ってみろ!」
問いつめても聞く気はなかった。嘘に決まっている、そうに違いない。
「『――』」
耳を疑った。
彼の囁いた音は、捨てたはずの、名前。
「最後の息で、妹がいると言った。妹は自分を追ってくるだろうと言って、これから言うことの答えを妹が得た時に、渡してほしいものがあると言った」
血に濡れた姉の姿。あの時姉が言ったのは『分かって』。
センが告げるのは。
「『分かった?』」
崩れ落ちた。目に明滅するのは、姉が少しだけ微笑みながら、名前を呼ぶ姿。
「誰がその是非を判断するのかと問いかけたら、あなたが、と。俺はそのために、お前を捜し、見つけた」
「竜狩りが……竜人に恋をして、竜に変えられて、竜人に殺されて、竜人に妹を託したのかよ……!!」
センを突き飛ばした。しかしよろけたのはキサラギの方だ。私は、と胸を掴む。
「私は、姉さんと同じ道は辿らない。竜人に恋をしたりしないし、竜人になったりもしない。私は竜狩りだ。竜狩りなんだ!」
こんなもの、と護符を握って引いた。首元でぷつんと留め具が外れる。そのまま、地面に叩き付けた。
ぞおっと、風が唸った。
「まずい」
センが護符を拾い上げて腕を掴む。
「離せ!」
「馬鹿が! 人間がいると気付かれた、このままだと」
「遅いわ」
気配が一斉に舞い降りる。無数の竜人が光る目を、人間に向けていた。
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