目の前にいる竜人たちは人の姿をとっているのに、キサラギに感じられるのは獣の息遣いだ。ざわめきと、殺しきれない呼吸。見通しのよい岩場に居並ぶ彼らは、キサラギが何なのかもう知っている。
「護符、ね……気付かなかったはずだわ。その子、人間だったのね」
 ミサトからキサラギを注意深く庇い、沈黙で答えたセンだったが。
「その子をお寄越し! その子の血があれば、私たちは人間になれるのよ!」
 人間の姿で、竜の咆哮が迸る。
「実例がないのにか、ミサト。そう簡単に人間になれると思っているのなら、あなたたちは間違っている」
「その娘は人間! 混じりけのない人間の血があれば人間になれるのよ! 私の小さな竜、その娘を寄越しなさい! それともお前、その子を竜人にするつもりじゃないでしょうね!?」
「誰が!」
 庇われていた背後から身を乗り出して叫ぶと、竜人たちが笑い出す。
「ほうら、その子は人間がいいらしいわ。お前も愛してもらえばいい。その子の血をすべて搾り取れば、私たち全員分になるでしょうからね」
 血の一滴まで啜られるのを想像してそっとした。センが、繋ぎ止めるように手首を握る。
「合図したら垂直に飛べ」
「え?」
「行くぞ、一、二の」
 竜人たちが地面を蹴った。
「三!」
 キサラギ自身の力がばねとなり、センの力がキサラギを高く放り上げた。
 目を剥く、竜人の郷の、大きな穴を自分だけで空から見ている。だが翼を持たないキサラギにはその位置を維持できない。ぐらりと身体が傾ぎ落下が始まったそのとき、光の固まりが足下からキサラギを攫った。
 気付けば、月へ昇るように天空へ向かう竜の背中にいる。
 身体を回転させながら雲を抜けた竜は、ばっと翼を広げて空を駆ける。振り切るような速さに、風が強くて目がつぶれそうだった。
 竜の声が響いた。背後からだ。緑の竜たち。
「追ってくる!」
 振り切る、という声を聞いた気がした。翼は、更に加速する。
 センは簡単に追走を許さない。雲を突き抜けたかと思えば空へ出る。地上に近くなったかと思えば一気に上昇する。
 地上が近くなった時、地上に灯るいくつもの灯火を見た。夜を行く竜狩りの列は、空から見ると、想像していた通り赤く光る星座のように見えた。その中の誰かと目が合う。
 風の声か、人の声なのか、悲鳴が響き渡る。
 夜空に竜の群れが現れれば悲鳴も上がろう。しかし速度を緩めずセンは光のように飛んでいく。
 だが悲鳴が再び、今度は大きく聞こえた。振り返ると、追ってきている竜たちが散り散りに乱れ飛んでいる。黒い固まりが、激しく襲いかかっていた。
(……!)
 口を開きかけたが風が強くて閉じる。心の内で呟いた。
(黒竜……)
 どこから現れたのだろう、黒竜は、追ってきていた緑竜たちに襲いかかっている。彼らは数が多いが、彼女の方が上なのか対抗できずに逃げ帰っていく。
 キサラギはセンのたてがみを握りしめた。追うのか、と。
 だがセンは少しも速度を緩めず、逆の方向の風に乗り、翼をひと羽ばたきさせていった。

   *

 夜明けが訪れる頃、キサラギはセンと向かい合っている。光を振って落とした竜人は、やって来た方角へ顔を向けて目を細めていた。何を思っているのか、今なら分かる。
「黒竜は、助けてくれたのかな……」
「違うな。単純に縄張りを飛んだ俺を察知して来たんだろう。追ってきた奴らが俺と勘違いされて襲われたわけだ。だが、これで分かった。黒竜は今この辺りに張っているんだろう」
 返ってきた強い否定と、目的を告げる言葉は、キサラギを見ていない。
「ここ、どこ」
「東と西の間。セノオの街近く」
 確実に自分だけに返ってくる問いを選んで口に出せば、きちんと返答があった。
 確かに見覚えのある草が生えているし、風も言われればそう感じられる。向こうにあるあの山がセノオの東に位置するものなら、セノオはその山を背にしていけばいい。
「後日答えを聞きに行く。だからセノオに戻れ」
 方角を確かめるために目を逸らした隙に、その言葉は何かを切って落とした。
「俺は黒竜を追う。もう逃がしはしない。だから、お前は戻れ」
 だから、の意味が分からない。センの目は黒竜を向いている。こちらを見ない。焦りにも似た思いでキサラギはセンを見つめた。強く思う。こっちを見ろ、振り向け。――お願いだから。
(私は、もういいのか……)
 この道行きにセンは必要だった。いくつも助けられた。だが、彼にはキサラギが必要ない。自分がセンを助けることはないと、向けられない瞳で気付かされる。
 ぽつりと雫の音が聞こえた気がして、はっとした。センの腕から血が滴っている。
「セン、怪我を……」
「触るな!」
 意識せずに近付いた時、センが手を振り払った。白い美貌がそれと分かるくらい青ざめている。
 ひどく怯えた表情。訪れたのは理解。
 センもまた、境界の向こう側のキサラギに怯えている。
「セン。私の血は、いらないのか」
 思わず口にした言葉はセンに表情を与えた。だがそれは望んだものではなかった。いつか見た、冷たい否定。
「くれるのか?」
「…………」
「出来もしないことを言うな。誰の血が欲しい、誰に血をやるなんてことは、もう、ごめんだ」
 心からそう言っているように聞こえた。そして、だからもう最後だと言われたようにも。
「待って」
 しかしそれでも引き止めた。
「待って……黒竜を狩ったら、どうするの」
「お前の答えを聞く」
「その後は?」
 戸惑ったような顔をされた。朝の雲が少しだけ風に払われて、草原に光が射し始める。しかし、すぐに雲に覆われていった。
「何故そんなことを」
「だって……」
 何が、『だって』なのだろう。かつてキサラギに灰色竜を狩った後を問うた人々の声がよぎる。あれだけ、何故そんなことを聞くのだろうと思ったことと同じことを、キサラギはセンに問いかけていたのだ。
 だって、センが、あまりにも寂しいから。
 灰色竜の事実を聞いた時の怒りは小さくなって砂粒のようになっていた。
 まるで自分たちは同じものだった。竜を追わなければならず、それを目的として生きてきた。でも、そのさきに何を見ていただろうか。目的を果たした、その後。
 未来がないのは寂しいことだろう。だから問いかける皆が皆、あんな目をするのだ。
 キサラギは見つめる。寂しいと気付いてほしい。未来を見てほしい。近しい未来である将来ではなく、もっとずっと先の、果てしない光の先を。
 だがうまく言えるはずがなかった。きっと聞かなかったことにされてしまう。キサラギがそうしてきたように。
「答えを見つけろ。納得できる答えだったなら、預かっているものを渡す」
 風が吹いた時、センの姿は消えていた。草原の音を聞きながら、雨の音と錯覚したけれど、朝の光が目に染みるように差し込んできていた。雨音は多分、センが聞き続けている心の中の音なのかもしれなかった。

    



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