鉄靴が、止まった。
キサラギは、自分の内側でさあっと血が引いていく音を聞いた。
彼らが来た方向は、確かに大広間の近くだった。お披露目が終わったなら、王もその騎士も退出するだろう。けれど、まさか行き合ってしまうとは思わなかった。
鼓動が耳の中でうるさく鳴っている。無意識に目が動き、腰にある剣を見ようとする。
自分の呼吸がやけに響く。
もしその剣が見覚えのあるものだったら?
どうか。――どうか。その先が、望んでいるのか望まないでいるのか、わからない。
(逃げちゃだめだ)
震える感情の塊を抑え込む。
探しに来たのなら、目を凝らせ。見逃すな。見定めろ。
それが望むものでなかったとするならば、たどり着くまで走るのみ。
キサラギはゆっくりと顔を上げ、相手を見つめた。ともすれば、それは睨んだと表現すべきだったかもしれない。意識せずとも眉間に皺が寄り、目は一点を見据えて動かなかった。
黒仮面の奥の目が何色なのかは、分からなかった。
ただ、相手もキサラギを見ていた。そうして、既視感を覚えた。別の場所、別の姿、別の形で、こうして見つめあった記憶が、キサラギの目の前を、あたかも草原の風のように吹き抜ける。
「……我が騎士よ」
かさついた男の声がして、幻影は消え去る。
王の歩みが止まっていた。被り物の下から見える、落ち窪んだ目が、光っている。
「早く、来い」
「…………」
騎士はキサラギから視線を外すと、王の行列に加わった。
キサラギは頭を下げてそれを見送り、濁った息をすべて吐き出した。
(似てると、思うのは……行き過ぎた思い込みなんだろうか……)
ただ、オーギュストとは違った感覚で、センに似ていると感じた。オーギュストは表面の、目の映る部分が。竜騎士は、見えない本質のようなものが。
いったいどこの誰なんだろう。大広間にいる何人かは素性を知っているだろうか。そう思って、来た道を戻ってくると、大広間にはさきほどの張り詰めた緊張感はなくなり、宴の無礼講に変わっていた。
明暗の差に軽くめまいを覚えながら、エルザリートを探す。
「っ!」
「おっ、と!」
まっすぐにやってきた少女を受け止める。そのまま避けてもよかったのだが、人にぶつかるかもしれないと思ったからだ。
「どうしたんですか?」
「お前、エルザリートの新しい騎士ね」
胸の中でキサラギを見上げた緑の瞳の少女は、悪戯を仕掛けるようににいっと笑った。キサラギは首をかしげる。
「どちら様?」
「あたくしを知らないなんて、なっていないわね」
少女はキサラギの胸を、持っていた扇で突いて離れた。その扇を開いて口元を隠す。目が、三日月のように見える。
「あたくしはローダン侯爵家のミズティカ。次代龍王の約者となる者よ」
(約者って……)
龍王の妃のようなものだと、エルザリートが言っていた。王に捧げられるものでありながら、その地位にあるものは強力な権威を持つため、エルザリートはその役目に選ばれるための争いの渦中にいるのではなかったか。
それでは、このミズティカという少女が、エルザリートの競争相手の一人なのだ。
キサラギの驚きと観察の目を存分に受けながら、ミズティカは金糸の花開く赤いドレスと同じ華やかな笑みを浮かべる。
「ふうん、前とは毛色が違うけれど見目が良いわね。新しい恋人にするなら、まあまあというところかしら。それで、お前は、死んだあの騎士よりも強いの?」
キサラギが口を開きかけた肘を掴む者があった。
「エルザ」
エジェを連れたエルザリートは、無言でミズティカを見つめ、やがて小さく息を吐き、笑みで顔を歪めた。
「お前の絡み癖にはうんざりするわ、ローダンのミズティカ」
「あなたの浮気性も相当よ、ランジュのエルザリート。新しい騎士をとっかえひっかえ。いらなくなったら捨てて、新しいのを選べるなんて、さぞおねだりが上手なんでしょうねえ」
エルザリートの冴え冴えとした眼差しを物ともせずに嘲笑する。ミズティカはかなり気が強く、気位の高い性格のようだ。両者のぴりぴりした空気を察して、周囲が遠巻きに見守っている。
「誰に何をねだるというの。ねだって騎士の忠誠が手に入ると思っているのなら、相当な思い違いね。ご同情申し上げるわ」
彼らは、とエルザリートは静かに、キサラギとエジェを示して、語る。
「この騎士たちは、己の剣に義務と誇りを掲げている者たちよ。決してわたくしに忠誠を誓ってはいないけれど、それはわたくしに主人の器がないせい」
エジェが驚きの目でエルザリートを見ている。
ミズティカが訝しげに三者を見比べた。
「忠誠を誓わない騎士? どうしてそんなものを侍らせているの」
無駄だ、理解できない。騎士でなければ連れていく意味がない。そんな困惑の眼差しに、エルザリートは幼子に向けるように、おっとりと微笑みかけた。
「その剣は忠誠よりもよほど信頼に値するからよ」
ぽかんと口を開けるミズティカを置いて、エルザリートは踵を返す。
人の輪からかなり離れてから、もうくたくただわ、と扇の中でため息をついた。
「毎夜毎夜これなのよ。うんざりだわ。わたくしに直接言えばいいのに、周りにいる騎士に絡むのだもの」
キサラギとエジェが黙っているので、振り返りざま、細い眉がつり上がった。
「なに。何かわたくしに文句があって?」
「いや……ちょっと」
と、適切な言葉を探しながら首を振る。
「どうしてあんなことを言った」と尋ねたのはエジェだった。キサラギから見れば、それは、彼が初めて自分から彼女に話しかけた瞬間でもあった。
エルザリートは少し目を細くして、ついと正面を向くと、さっさと広間を出た。答えのないままにしばらく進み、エジェの苛立ちがそろそろ火を噴くかというところで、振り向いた。
「あなたに媚を売ったわけではないわ」
油を注いだ、と聞いたキサラギは思った。
「わたくしが自分の考えを率直に述べることに何か不満があって?」
(喧嘩腰なのは、気まずいからなんだろうなあ……)
かつて自分がそうだった覚えがあるのでうまくいなしてあげられない。エジェは真っ赤になって震えている。怒鳴りつけたいのを、必死にこらえているのだ。しかも、エルザリートは何かを悪し様に言ったわけでもない。言い方や言葉の選び方がおかしいだけなのを、エジェも分かっているから、我慢するしかないのだった。
しかし、何かやり返さなければ気が済まなかったらしい。
「……よく今までその態度でいられたな」
低く、歪んだ声で。
「クロエは、そういうのには『はっきり言え』って言っただろ」
同時に、双方が、傷付いた顔をした。
唇を噛んで黙りこんだエルザリート。傷つけたことを誇るのではなく自分の痛みに耐えて眉間にしわを寄せるエジェ。横から見ているとため息をつきたくなるが、余計なことは言えない。きっと、どちらもますます硬くなってしまうだろうから。
「姫。こんなところで何をなさってるんです?」
ヴォルスとルイズが追いかけてきた。エルザリートは、別に、と言って、再び歩みを再開する。キサラギは顔を見合わせる彼らに向かって肩をすくめ、エルザリートの後を追った。
夜会を早々に引き上げて、エルザリートを部屋へ届けた後、キサラギはヴォルスに呼び止められた。
「お前、明日からオーギュスト殿下の騎士舎に入れ」
きょとんとしたのは、それがなんなのかさっぱり分からなかったからだ。
「もうちょっと詳しく説明してもらっていいですか」
「お前はエルザリート姫の騎士だが、姫は騎士の訓練所を持っていない。エジェには別のところをあてがった。お前には、殿下の訓練所に行ってもらう」
「……ばらばらにする理由は?」
ヴォルスは一瞬、沈黙した。
「殿下のご命令だ」
キサラギの表情が動いたことを察したヴォルスは、時間と場所を告げるとそそくさと立ち去った。キサラギは、エルザリートの部屋の近くに与えられた小さな自室に入ると、思う存分渋面を作った。
(これ、仕返しかな)
自分の監視下に置きたいということか。エルザリートとの接触を極力少なくしたいのか。どちらにしろ、キサラギを孤立させることが目的にあるかもしれない。
(……気をつけないと)
龍王をいただく、王国の中心で、キサラギは一人、着慣れない衣服を身にまとって戦うことになる。
少しだけ、肌が冷たくなった気がした。
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