第5章 闘   
    


 龍宮と名付けられた龍王の住まいの暗さは、どの表現を用いても言い表すことは難しい。夜の色とも、光の射さない闇の深さとも違う。息をするたびに侵食される、凍れる大気のようであり、絶え間ない痛みにも似ていて、緩やかに訪れる眠りのようだ。
 長くここにいると思考が鈍くなる。何を考えているのか曖昧になっていくのは、薫きしめられた薬香のせいもあるだろう。薄暗さと少ない灯火がそれを増長させている。
 王が体調を崩したということで、王宮の医師から呼び出され、父王の顔を見に来たオーギュストは、世間話とも呼べない時間を過ごし、部屋を後にした。
 日増しにやせ衰えていくのは目に見えていたが、やりとりも覚束なくなってきている。思考が何度か過去に戻り、今がいつなのか判然としなくなっているようなのだ。若かりし頃に没頭としていた歴史書を暗唱し始めたりする。
(もう長くはあるまい)
 竜王はおしなべて短命だ。死因は、精神に異常を来したことによる衰弱死が多い。もともと学者肌だったという父王は、肉体的にも精神的にも脆弱だった。よ悪者早かったのだろう。
 王宮に戻る道すがら、女性の集団を行き違った。歩を緩めた彼女たちは、先頭から順に膝を折る。ただ、中央にいる、紅の紗布をかぶった女だけは、笑う気配だけを見せてオーギュストを見送る。
(紅妃。龍王のお気に入りか)
「殿下」
 呼び止められるとは思わなかった。そして、その声を聞くのも初めてだった。
「――陛下の竜騎士はもうご覧になりまして?」
 熱帯夜の、星月の輝く下で咲く赤い花を思わせる、気怠く甘い声。
 竜騎士。
 オーギュストの筆頭騎士ブレイドを打ち破った、レイ・アレイアールという男。
 本名ではなかろう。竜騎士となるまでの経歴がないというのは不自然すぎる。それほどの腕前なら、名が通っていて当然のものを、あの竜騎士は痕跡がひとつも見当たらない。
 だが、紅妃の言葉で思い至った。龍王の伝手で御前試合に参加したというあの男は、この女の関係者なのだ。
(流れの踊り子だったのを妾妃に召し上げたのだったか。今まで龍王の威を傘に着る女だとしか見たことがなかったが、やはり、寵姫となるからには、普通の女ではないか……)
 返事が待たれていた。オーギュストは頷く。
「ええ。拝見した。素顔が見てみたいものだが、仮面をしているのには何か理由が?」
「さあ? 私は存じ上げないわ。見られると困るのかもしれませんわね」
 くすくすくす……。この場所との相性だろうか、笑い声はいつまでもこだまして、オーギュストは急速にめまいを覚えた。
(……なんだ?)
 耳の奥で人の声がする。壁を隔てたようにくぐもって、大気の音に混じってざわざわとはっきりしない。それに耳を澄ませようとすると、視界が不意に暗くなった。
 少女の、金の髪をなびかせた後ろ姿が見え、そして。

 ――――ヤクセ。

「っ……」
「まあ、殿下。体調が思わしくありませんのね。誰か、お部屋までお送りして差し上げて」
「いや……結構」
 この薄暗さと籠った空気が、立ちくらみを起こさせたのだ。早々にここを出れば快くなる。
 いささか残念そうな女官たちの中で、紅妃はどうやら、にっこりと笑ったようだった。
「それならよかったこと。殿下、もし何か悩みがあるなら、私に相談してくださいませね。きっとお力になれると思いますわ。例えば、そう……ご家族のことなど」
 振り返ると、幾人かが無言で後退った。オーギュストは笑っただけなのだが、何か感じ取るものがあったらしい。
「心に留めておきましょう」
「そうなさって。あなたの望みを叶えるものは、案外近くにいるものですわ」
(食えない女だ)
 さて、どこまで知っているのか――。
 腹の底にあるものを隠すまでもなく笑い、別れる。
 午後の光さす王宮に戻り、人の生活のにおいがする風に吹かれると、知らず知らずに息を吐いていた。そして、刹那に見えたあの姿、聞こえたあの声はなんだったのだろうと考えることができた。
 ヤクセ――『約せ』、と声なき声は囁いた。
 そしてその声に導かれて思い浮かんだ姿は――。
「殿下、お戻りでございましたか」
 配下の文官が現れる。
「どうした」
「エルザリート様の騎士のことで、ブレイド殿とイルダス殿がお越しです」
 今度は何をしたのだ、とオーギュストは眉を上げ、笑みを吐き出した。やはりあの騎士は、ここで騒ぎを起こしてくれるらしい。
 うまく、使ってやろうではないか。


   *


 オーギュストの騎士舎は、ずいぶん広いものだった。多分、マイセン公国にあった屋敷よりも大きい。庭にあたる部分は、闘技場を模したのだろう演習場になっている。周囲は高い壁で囲まれ、脱走など考えることもできなさそうだ。
 内にある石造りの宿舎に呼びされたキサラギは、階段を登り、最上階の一室の扉を叩いた。
「入れ」
「失礼します」
 振り返ったのは、黒髪の男。どこかで見た覚えがあった。
「キサラギです。ヴォルスさんから、こちらに来るように聞いてきました」
 向き合って、思わず「でかっ」と口に出してしまいそうだった。
 厚い胸板、広い肩幅。堅そうな髪。草原地方にいる竜狩りの若者、といっても差し支えないほど鍛えられた上で、人懐っこい表情をしている。キサラギを興味津々といった目で見下ろして、嬉しそうに笑った。
「わっ!?」
「よく来た! お前が戦ってるのを見て、楽しみにしてたんだ。よーく鍛えてやるから覚悟しとけよー」
 大きな掌で押さえつけるみたいにがしがしと撫でられる。キサラギのことを、大型の犬か馬と勘違いしているのではないだろうか。手が離れると、何もしていないのにぐらぐらと首が揺れる。
 不覚にも、懐かしい、と思ってしまった。故郷では、こんな風にして撫でられるのが日々の風景だったのだ。
「俺はオーギュスト王太子殿下の筆頭騎士、ブレイド・ランザーだ。お前がものになるまで面倒を見るよう、殿下から命じられている。よろしくな、キサラギ。姓はないのか?」
 そうですね、と嘘をつくキサラギだった。あえていうなら、セノオのキサラギという名乗り方をするが、草原は王国地方のように、家名というものをさほど重んじない。もし大々的に名乗る者がいるとすれば、滅んだ古王国の血筋の人間だろうが、その王族の名を冠する都市以外では、あまり効力を発揮しないものでもある。
「お前の部屋はここの一つ下の階だ。鍵がかかる部屋だから安心していいぞ」
「ええと……私のことを?」
「ヴォルスから聞いてる。性別は隠すことにしたらしいな。そういう扱いになるから、自衛はちゃんとしておけよ? 王太子殿下の騎士は、他に比べるとお行儀がいいが、振り切れると躾と虐待の区別がつかないお坊ちゃんたちでもある」
 つまり、表立っては守ってくれないという宣言だ。
「男所帯で生活するのは慣れてます」
「頼もしい返事だが、想像の斜め上をいくと思うぞ。部屋に荷物を置いて、一階に来い。騎士たちを紹介する」
 言われた通り、与えられた部屋にいって荷物を置いた。寝台と、引き出し付きの小さな棚が一つあるだけ。衣服は、寝台の下にある収納箱に入れるようだ。とりあえず荷物を置くだけ置いて、集合場所に向かう。
 階段の途中にある窓からは、演習場を動き回る騎士の姿が見えた。
 ブレイドに連れられて、上から見えていた練習場に入る。
「集合!」
 耳の奥が痺れる大声でブレイドが呼ぶと、全員が彼の前に整列した。顎を引いて、両手を後ろにやり、まっすぐに立っているが、何人かの視線がちらちらとキサラギに向けられる。
 青年が多いが、それなりの歳の者もいる。ただ、そういった者は、顔に傷があったり、どこか冷めた目つきをしていた。衣服の下にも傷跡があるのだろう。歴戦の、と呼びたいところだったが、それにしては生気に乏しく見えた。
「ランジュ公爵令嬢エルザリート様の騎士、キサラギだ。本日より、主命時以外は、我々と行動を共にすることとなる。よく面倒見てやれ」
「よろしくお願いします!」
 大きく言って、頭を下げる。
 ブレイドが簡単に説明したところによると、ここでは、試合がある者以外が、毎日訓練を課されているという。一週間のうち、週三日が個人練、二日が団体練、残りの二日が、自由行動日と休日だ。一日は必ず休みを取らなければならないらしい。
 団体訓練日以外は、残りの五日をどのように組んでもいい。ただ、義務を果たさないものは相応の報いを受けることになる。怠けることは、死に近づく手段でもあった。
 予定表は、事前に配布され、宿舎の一階にある談話室に貼り出されているので確認しておくように、と言い渡された。城から離れたオーギュストの管理下にある場所、しかし彼の目の行き届いているかわからないところだ。まずは、ここを見て回らなければならなさそうだ。
 とりあえず様子を見ながら参加しろ、と言われて、槍を用いた組稽古を見守る。
「槍は得意か?」
 ブレイドが聞く。
「槍より、剣の方が得意です。あと、弓」
「弓はあまり出番がないな。闘技場はいろいろあるが、距離を取れるほどどこも広くない」
「ここでは、あなたが一番強いんですか?」
 ブレイドは「うん」と何の躊躇もなく返答した。
「この場の全員と戦って勝てるし、全員、ためらわず殺せる」
 明るく言われたからこそ、寒気を覚えさせる言葉だった。キサラギが反応を堪えたのを、ブレイドは楽しそうに眺めている。
「兄貴とは真逆の性格なんだ、俺は。ヴォルスは、俺より賢いし腕もあるくせに、最後に情に流されて勝ちを譲ってしまうんだな。俺は残酷だから、自分と主人以外がどうなっても別に構わないと思うんだよ」
「殺したくないって思ったことは」
「ないね」
 即答だった。
「一人殺したから、あとは同じだ。殺し続けるしかない。殺したら、もう後戻りできないのが騎士だ。それが覚悟できないなら、騎士をやめるか、殺されるかだな」
 彼の青の瞳の中には、血の色が焼き付いている。時を経て黒く乾き、その上から新しい血の色で彩られている。
 真昼の空をふと仰いだとき、どこからか鐘の音が聞こえてきた。
「時間だ。殿下に呼び出されてるから、俺は行く。お前が本格的に訓練に参加するのは明日からだが、自主性を重んじる。好きにやれ」
 集団の中のある年配の男に、あとを任せると声をかけて、ブレイドは行ってしまった。
 威圧感を上手に隠すことのできる、気の良さそうな男性だと思った。けれど、その内側にはどうしても消すことのできないうつろがあることも感じられてしまった。
 エルザリートといい、エジェといい、王国には、そういう人が多すぎる。
「……おい」
 はい、と返事を仕掛けて、声が出なかった。
 頬を張り飛ばされ、倒れる。口の中を歯で切った。血の味がする。
(なに……っ)
 起き上がろうとした両腕を持ち上げられ、立ち上がらせられると、壁に押し付けられる。
「ふうん、綺麗な顔してるじゃん」
「どうせ顔で選んだんだろ。あの姫様、面食いだったもんな。前の騎士、クロエだっけ。あいつ、顔よかったよなあ」
「オヒメサマなんかに騎士の出来不出来は分からないさ」
 相手は、五人。キサラギと同年代の青年たち。後ろで何人かは訓練を続けているが、こちらを見ようともしない。ブレイドに後を任された男も、つまらなさそうに成り行きを見ているだけだ。
 真正面にいる、主格らしき青年がにこりと笑った。
「これ、ただの挨拶だから。俺はルオーグ。王太子殿下の騎士の中でも、身分の高い、ガーロイド家の出身だ」
「……殺しあう騎士に身分が関係あるわけ?」
 口の中のものを吐き出して言うと、足を蹴られる。
「あるんだなあ、これが。騎士っていうのは、使い捨て用の駒と、見栄え用の駒があってさ。お前みたいな奴隷がどっちかは、分かるよな?」
「ルオーグ。こいつ、筆頭騎士の一階下の個室もらってんだぜ」
 ほほう、とルオーグの目が細く険しくなる。
「生意気な奴だな」
「あんまりこういうことはしない方がいいんじゃないの。新入りを一通りいたぶるのがここでの流儀だっていうなら、相手になるよ。分かってると思うけど、私はただ殴られるつもりはないから……、ね!」
「うぁっ!?」
 二人掛かりの拘束は本気ではなかったから、こちらがその気になれば振り払えた。その勢いのまま、一人の腕に手を添えて、そこを軸にする。男の身体は面白いくらいに回り、地面を前転がりするようにして倒れ伏した。何が起こったか、周りは分かっていない。
「……ここでの正義って、勝負事で決めるんだっけ?」
 口に溜まった唾と血を吐きだす。
「いいよ。全員。相手しても」
「お前……!」
「お前たち、そこまでにしろ。そういうんだから、相手してやったらいいじゃないか」
 声が近づいてくる。
 演習場で傍観していた騎士たちが、割って入ってきたのだ。声の主は、ブレイドから後を任されたイルダスという年配の男だ。
「キサラギ、と言ったか。お前、ルオーグに決闘を申し込むか?」
「イルダス、口を出すな!」
「ちょっと黙れ、お坊ちゃん。気軽に決闘を引き受けて、ご主人様に不利な状況になったらどうする。こういうことを教育するのも義務なんだよ」
 青年たちの輪が解ける。
 今度は、イルダスに見下ろされる。若いルオーグたちとは違い、気に入らないものを完全に排除してきた、そして今はその狂気を潜めている、経験と年齢の積み重ねを感じた。イルダスは騎士になる前に外に出ていたことがあるのかもしれない。しゃべり方も、ルオーグの嫌悪に満ちた視線も、身分がそれほど高くないことを意味している。
「決闘を行うときは、誰の何を賭けるか、勝負の方法、場所、勝敗の判定方法を決める。決闘を申し込まれたら、よほどのことがない限り、断ることはできない」
 何を賭けるか。イルダスは尋ねた。
「私が勝ったら、私への対応の改善を求める。暴力やいじめに類するものは一切止めて、エルザリートの騎士としてふさわしい扱いをしてもらう」
「負けたら?」
「なんでもやってやる。それ以外の選択肢はないんでしょう?」
「よくわかってるじゃないか」
 皮肉げに顔を歪めたイルダスはルオーグに視線を投げた。
「決闘の申し込みがあった。どうする、ルオーグ」
「…………」
「イルダスさん。勝負の方法と判定方法を決めるって言ったね」
 口を挟んだキサラギを、イルダスは鬱陶しそうに振り返った。
「勝負はこの演習場で、真剣じゃなく木剣を使って行う。判定は、どちらかが負けを認めるまで。それから、決闘を行う相手も、ルオーグに限らない。同じ条件でいいなら全員、相手をする」
 イルダスが眉をあげる。そして、眉間に皺を作った。
「お前、面倒なやつだな」
 殺してしまえば楽なのに、と言外にあった。木剣使用で、相手の降参を認める試合形式になるなら、よほど打ち所が悪くないかぎり、命の取り合いにはならない。
 決闘はそのようにして決まり、ひとまずは解散することになった。イルダスはこのことをブレイドに報告、その後、オーギュストの許可が下りて初めて開催されることになる。
 そして、試合は三日後、この演習場で行われる運びとなった。

    



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