「キサラギは、自分のために行動してくれる人が好きよね」
 塔の上。窓からの風に吹かれて、親友のユキはそう呟いた。キサラギは顔をしかめ「なにそれ」と言葉を返す。
 ほっそりとした顎の線を、太陽の光が淡く縁取っている。光を含んで赤く輝く髪は、夜に灯る焔のような柔らかく温かい光だ。まるで彼女自身がほのかに光っているみたいだ。
 外には、立ち話をする女衆たちが、それにからかいの声をかけていく男衆がいて、広場へと走って向かう子どもたちの声が聞こえてくる。セノオの街の、穏やかな午後の風景だった。
「好きっていうのは少し違うかしら。自分のために行動してくれる人、その人のためならなんでもできるくらい、感情移入しちゃうわよね」
「そうでもないよ。どうでもいい人は放っておくって」
「でも見捨てはしない。キサラギのそういうところ、好きよ」
 ユキはそう言ってくれたけれど、キサラギは知っている。それが自分の弱点であること。
 戦う者として、見捨てられない、諦められないことは、別の角度から見れば執着と呼ばれるものだ。最も優先すべきは自身の延命であり、他者をも救おうとしてしまうことは己を危険にさらすことだった。
 だったら強ければいいんだろう、と開き直ったこともある。しかし実際は、自分の力の足りなさに歯噛みするばかりだった。
 必死に、腕を磨いた。時には同年代の仲間たちを遠ざけるようにして。
 それだけ、守りたかったのだ。自分だけでない。自分を大切にしてくれる人たちを、自分の力で。

 ――だから、自らを捨ててキサラギを救ったエルザリートを救うことは、キサラギの絶対の理なのだ。

 竜騎士による傷が癒えるまでが、キサラギの準備期間だった。
 騎士舎とは別に城の片隅に部屋を与えられ、必要なものを揃えることが許された。しかし、面会は限られ、キサラギの行動範囲も制限されており、そこから出ることは叶わない。エルザリートとも、あの後一度会ったきりだ。キサラギは、猛獣に与えられる生き餌のように飼われていた。
 身体が鈍らないよう鍛錬をしながら、頭の中でいくつかの模擬戦闘を思考した。だが、竜騎士の圧倒的な力を前に、受けきることが精一杯で、攻撃に転じる方法がどうしてもうまくいかない。隙を突こうにも、何が隙かが分からないのだ。
(センだったら、どうだろうか)
 竜騎士をセンに置き換えて想像してみた。すると、不謹慎だが少しだけわくわくした。あの涼しげな顔を歪めさせ、目を見開かせ、驚かせる、そのことに心が躍った。ひたひたと近付くその日まで、その夢がたった一つの癒しだった。
 ある日のことだった。夜更けに、普段なら近付いてこないはずの世話係の女性が、扉を叩き、キサラギを呼んだ。そして、静かにするように告げると、来訪者の室内へ招きいれた。
「フェスティア公?」とキサラギは声を殺して呼びかけた。
「静かに。かなり無理な手段を使って入り込んだので、他の者に気付かれるのは困るのです」
 灯りを極力少なくされている室内では、彼の皺が浮かび上がって、ずいぶん歳を重ねているのだと気付かされる。普段からの穏やかさが、彼を若く見せているのだろう。
「どうしてここに」
 尋ねながら、外の気配を伺う。廊下には誰の気配もない。先ほどの女性は金を握らされたらしい。他の者にも同じようにしたのだろう。しかし、フェスティア公がそこまでして自分に会いに来る理由が分からなかった。
「竜騎士に戦いを挑んだと聞きました」
 キサラギは頷いた。
「龍王が私を妃にすると言いました。エルザがそれに抵抗して、王に刃物を向けてしまいました。だから、彼女が処刑されず、かつ自由を得るために、龍王に挑むことにしたんです」
 フェスティア公は眉を寄せた。キサラギがこの取引を思いついたのは、彼に会ったというところが大きかった。何故ならこの人は、剣闘の勝利による特別な配慮によって、当時の龍王から一代限りだが権力と自由を得たのだ。
「勝てると思っていますか」
「勝たなければいけません」
「それは、自らの望みを諦めても?」
 首を振る。
「諦めることにはなりません。竜騎士に挑むことも、私の願いの一つです」
 例え負けて、命を失うことになったとしても。
 キサラギの微笑みを、虚勢と思いたかったのか。フェスティア公はじっと目を凝らしていたが、やがてその言葉が本心であることを悟り、静かに語りかけた。
「キサラギ。私の養女になりませんか?」
 息を飲んだ。
 彼は冷静だった。正気を失っているわけでも、冗談を言っているわけでもなかった。
「私たち夫婦には、息子がいます。もうずいぶんな年齢だが、彼は騎士として戦い、私たちに身分と立場を与えると、この国を見限っていずこかへ去りました。連絡は一度も来ていません。生きているのかも分からない。西方公の名は一代限りですが、遺してやれるものがたくさんあります。王家や貴族たちに奪われるよりも、私も妻も、息子の代わりですがあなたに残したいと思いました」
 酔狂や思いつき、ましてや偽善で言っているわけではないことは、彼の人となりから明らかだった。
 どうしてあなたたちは私なんかに手を差し伸べてくれるのだろう。
 目を閉じ、じっと耐える。悲しみや切なさ、喜びと感謝が、自分をさらって、間違った選択をすることのないように。
「……私の家族は、私が幼い頃に亡くなりました。故郷の街が、竜によって滅ぼされたからです」
 口にしたのは、誰に明かすことはないだろうと思っていた、自分自身の過去だ。
 それが、この人の救いの手に返せるものだと思ったからだった。
「故郷を灰にした竜を追うために、私は竜狩りを目指し、十七になってやっとその資格を得ることができた。けれどへまをして」
 そこで笑ったのは、本当に瀕死の重傷を負ってしまったからだ。
「とんでもないへまをして、竜に襲われて死にかけたところを、ある男に救われました。銀の髪と瞳をした、切れそうな美貌の男で……私の最も憎む存在だった。彼は、竜人だったんです」
 フェスティア公は訝しげに繰り返した。
「……竜人? それは」
「竜と人、二つの姿を持つ存在です。草原には、竜の血が人に病をもたらすという言い伝えがあります。そして、竜人の血に触れた人間は、狂った竜となって人間を襲うんです……」
 記憶の中には、炎と煙に満ちた空に、今でもあの咆哮が響いている。
 剥き出しの感情。憎しみ。飢え。乾き。聞くものの耳に焦げつく声。
 焼きつく後悔と復讐心。家族と故郷という支えを失った幼心を生かすためには、それが必要だったのだと、今なら思う。
「私の姉が、そうでした。姉は、狂った竜になって、故郷の街を焼き払ったんです」
 信じなくてもいい。そう思って話している。この人なら、すべてを鵜呑みにすることはなくても、心に留めて、覚えていてくれるだろうと思うのだ。
 そして、必要な時にその記憶を引き出して、役立ててくれるはずだから。
 静かに見つめ返すフェスティア公に、キサラギはにこりと笑った。すべてが不幸ではなかったこと、別の幸せがあったことを知らせるために。
「故郷を失って、たった一人行き倒れていた私は、救助に現れた竜狩りたちによって助け出されて、ある街で暮らすことになりました。私を引き取ってくれた養父には、ずいぶん鍛えられましたよ。もう、死んだほうがましかなって思うくらい厳しかった。剣を持つなら、そのくらい乗り越えて当然だと言っていたけれど、ここに来て全然その教えが身についてなかったんだなって思い知りました」
 肩をすくめて、息を吐く。
 ここから、上手く話せるかは分からない。けれど、伝えることができなくなる前に、伝えておかなければならなかった。
「……養父は、異国の人でした。故郷で何かあって、草原に来た人でした。穏やかな物腰ととんでもないわざを持った戦士でいて、物知りで賢くて優しくもあった。そして、いつも、風を連れていました」
 フェスティア公がはっと息を詰めた。
「教えを受けながら、あの人は、私を一人前にすることを自分の使命にしているように感じていました。女性にもてるのに、全然恋人も作らないし遊びもしないんです。私を育てることばかりで……。自分にはその資格がないと思っていたのかもしれない。出てきた故郷のことをほとんど話してくれることはなかったけれど、多分、そこに関係するんだろうと思います」
 フェスティア公を見る。キサラギの話に、真剣に耳を傾けている。
「父には、竜狩りとしても、人間としても、たくさんのことを教えてもらいました。帰る約束したから、ちゃんと果たさなくちゃいけません。約束を破るときっと怒る。怒ったあの人はすごく怖いんです。だから」
 断りと謝罪の言葉を口にする前に、フェスティア公はキサラギを抱きしめた。
 かすかな風のにおいを感じる。柔らかくて暖かい春風のようだ。
 あの人は同じ春でも、嵐のようなものを伴っていた。
「……ああ。きっと、君の養父は、約束を破るととんでもなく怒るだろう。私の想像かもしれないが、その人は、王国では最強の騎士と呼ばれるくらいであったに違いないだろうから」
 笑みを交わし合う。
 フェスティア公の目は濡れていたが、静かに想いを飲み込むことにしたようだ。キサラギも多くは語らなかった。
 イサイがもし本当にフェスティア公に関わりのある人であったとしても、彼は家族に一度も連絡していないのだから、もう自分とは関わらないものとして決別したのだということが、分かったからだった。
「本当に、竜騎士と戦うのか」
「はい。エルザリートは、私を何度も助けてくれましたから」
 救いの手を差し伸べてくれた者には、同じかそれ以上のものを返す。そのための剣、そのための力だ。剣というものの正しい使い方を説明するのだとしたら、人を守るためだとキサラギは答えるだろう。
「それに、私は竜狩りです。狂った竜は狩らなければいけません」
 キサラギは囁いた。
「竜騎士レイ・アレイアールは、恐らく、竜人です」
「そう言うには、なんらかの確信があるんですね」
 竜人の血に触れ、竜に変わった人は狂い、人を襲う。その時、かれらの理性はない。本能的なままに生き物を襲って殺して回る。呼びかけに答えることはない。
 そして竜人は、人間の血に飢えや乾きを感じるものらしい。『人間の血が望みを叶える』という言い伝えは、そのことにも由来するのかもしれない。血が流れすぎると、かれらもまた、酩酊するようにして自我を失う。
 それと同じことが、竜騎士にも言えるのではないか。
「騎士が日常的に戦っているこの場所のせいなのか、他の理由があるのかは分かりませんが、竜騎士は人の姿を保ったまま、自我を失っている可能性があります。彼が竜人なら、人と戦い、命を奪うことを止めることはない。止められないんです。人の血を求めることが、狂った竜たちの衝動だから」
 ならば、キサラギは戦わなければならない。
 それが例え竜人自身であっても、竜に狂わされるものがあってはならないからだ。
「勝てない戦いに挑むな、と、あなたの父は言いませんでしたか」
 やっぱり、よく分かっている。キサラギは顎を引き、頷いた。
「自身の安全をまず第一に確保すること。それが竜狩りが最初に学ぶことです。それでも私は、あの騎士に挑みます。命をなくしたとしても、私が、私を助けてくれた人のために逃げることなく最後まで戦ったのだと、私を信じてくれた人たちに伝えられるように」
 旅立つキサラギに、自分らしくあってくれ、とイサイは願った。
 自分らしさとはなんだろう。無鉄砲さ。粗雑さ。無遠慮なところ。色々あるけれど、胸を張りたい、と思ったのだ。
 自分を信じてくれた人に、最後まで胸を張れる私でいたい。
 エルザリートを助けたいと思って、勝てる見込みの少ない竜騎士と戦った。そして命を落としたのだとしたら、きっとキサラギをよく知る人たちは悲しんで、最後には「あああの子らしかったな」と言ってくれるに違いない。
 そういう自分でありたいと思ったのだ。
 フェスティア公はキサラギの両手を握った。
「できる限り、手助けをさせてもらっても構わないだろうか。ここでは色々と不自由だろう」
「心強いです。けれど」
「こちらのことなら心配しなくていい。君には不快かもしれないが、貴族たちは君たちの戦いにかなり注目している。言い方は悪いが私が君に『賭けた』なら、何人かがそれに乗るだろう、大勝負だ。人が集まれば情報も集まる。もしかしたら、突破口が見つかるかもしれない」
 気持ちに、支えができた。もしかしたら、と希望が生まれる。
 キサラギはありがとうございますと頭を下げた。
「もう一つだけ。お願いが、あるんですが……」
 最後まで聞いて、フェスティア公は頷いた。キサラギは、胸のつかえが少しだけ取れるのを感じた。おかげで、今夜は少しは眠れそうだった。

    



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