お前の声が聞こえる。
俺を呼ぶ、お前の声が聞こえる――。
*
*
準備を整えるキサラギの背後で、不意に扉が開かれ、恭しくお辞儀をした男が現れる。その後ろから、きらめかしい一団が現れた。キサラギは眉をあげ、向き直り、やあ、と静かに挨拶をした。
「オーギュスト」
王太子は、自身の騎士ブレイドだけを残して、キサラギの前に立った。華やかな笑みではなく、眉をひそめてこちらを見下ろしてくる。
怒りはもっともだった。彼にとって、キサラギは大事な従妹をたぶらかした奴隷の女なのだ。
じっと見つめ合っていた視線を、オーギュストはふと緩めた。哀れみの笑みを浮かべている。
「君はずるい人間だな。結局、誰ひとり殺すことなく、死ぬのか」
「忘れていたものを取り戻しましたから」
ほう、と興味深そうな反応をした彼は、キサラギの静かな笑みを見たことだろう。
「戦うだけでは守れないものがある。私はそれを知っていたはずなのに」
エルザリートの立場を失わせておきながら、この言い方は傲慢だろう。ただ、エルザリートを信じ、助けることを目指していかなれば、立ち止まってしまうことになるから。
「君は、自分がどういう立場なのか自覚していないようだ。エルザリートは、君の愚かな理想のために身を落としたのだぞ。死んで償えとは言わないが、何もかもを放り出していくつもりか」
冷ややかな軽蔑。
あの肖像画を見た後なら、彼がこの容貌を持つことに納得がいく。彼らの姿は血統なのだ。竜の血か、人としての血なのかは分からないけれど、この時代、この時に、キサラギがセンそっくりの彼と会わなければならない運命があったのだとしたら、いったい、どういう理由だったのだろう。
見えないものが、キサラギをここへ手繰り寄せたのだろうか。
「……エルザリートの本当の望みを、あんたは知ってる?」
私は知らない、とキサラギは言った。彼女は何も話してくれなかった。それは、今思うならば自身の事情にキサラギを巻き込まないための措置だったのだろうと思う。彼女はずっと、ある程度距離を置くため、キサラギが自分の意思でいつでも離れられるように、準備していたのではなかったのか。
その問いは、オーギュストの傷に爪を立てるもののようだったらしい。
彼は眉をひそめ、吐き捨てた。
「これがエルザの望みだったというのか」
「だから、私は聞いていない。でも、エルザは、私のためなんかに自分の何もかもを犠牲にするような人じゃないと思う。私よりも、自分よりも、もっと大事なものがあったんじゃないか。あんたなら、それを知っていると思ったんだ」
眉間の皺が、苦悩に変わった。
知っているのだ、とキサラギは思った。オーギュストは、エルザリートの秘密を知っている。それはまた、彼の秘密でもある。
キサラギは控えているブレイドの反応に注意を向けたが、彼は何も聞いていないような無表情で立っているだけだ。
「……エルザのことはいい。君の身勝手さは変わらない」
「許しを乞えって?」
キサラギの一言に、オーギュストの表情がまた変わった。今度は、警戒するように。
「乞うて許されるなら、とっくにやってる。でも、人の生き死にも、人生も、そんなことでは変えられないんだ。だから私は私のやり方で、エルザに償わなくちゃ」
「どんなやり方があると?」
「私が誰なのかと、あんたは聞いた」
瞳をきらめかせ、はっきりとした声で、胸を張って告げる。
「私は騎士じゃない。奴隷でもない」
だったらなんだというのか、とオーギュストの目が語っている。遠国から来た小娘、奴隷になった女、性別を無視して男たちの戦う場所に身を投じて傷つこうとする理解しがたい存在、従妹をたぶらかして何もかも奪いながら今から死にに行こうとする愚か者。
そのどれもが私だけれど、大事なものがそこにはない。
「私は、竜狩りだ。だから――私は、竜狩りとして生きて、死ぬよ」
水路の水が、壁や、足場とそれを渡す橋を、ざぶざぶと波になって洗っている。
闘技場は水場を作る関係でいびつな形をしており、観客席は通常よりも高い位置にあった。
水は、濁っている。用水路から引き込んでいるというが、底が見えない。何かが潜んでいてもおかしくはなかった。
この『水』の闘技場で、キサラギと竜騎士の剣闘が行われる。
観客席には無数の人がうごめき、音のかさを増している。今日の戦いの結末を噂しあい、自ら竜騎士に挑んだキサラギを嘲笑し、あるいは傲慢だと呆れた。それがあのエルザリート・ランジュの騎士だと聞いて、王家に叛意を持つのだと知った顔で言う者もあった。
そうした声、言葉をかすかに聞き止められるのは、キサラギの心が静かだからだ。
身につけたのは、王国に来てから揃えたものではなく、身に馴染んだ竜狩りの装備。革の香り。金属のにおい。研いだ剣が反射する光に、心を磨いていく。
故郷を遠く離れて、一人で戦う心細さを知った。仲間を頼ることなく生きることの難しさ。そして、繋がりを得た喜び。その繋がりを守ろうとすることは、キサラギには少し荷が重かったようだ。一人前になったつもりでいたけれど、自分は、きっと一人で生きていくのには向いていない。
大事な人たちと助け合い、その人たちを守ろうとするから、自分は生きていける。
何のために剣があるか。
剣は、ただの力ではない。
剣は誇りだ。魂だ。刃が最後に守るのは、自分の気高い心なのだ。
例え他者によってどんな目的で振るわれようとも、キサラギ自身がそれを忘れさえしなければ、その魂を守ることはできる。
(そして私の魂が、守りたいと叫んでいるから――)
現れたキサラギを、観客は低いざわめきで迎えた。キサラギが、小さく細身の剣士であることが、本当にこれまで戦ってきた騎士なのかと、その力量に疑いを抱かせているらしい。
『水』の闘技場は、蓮が咲く池のようだった。円形の足場には高低がつけられており、高い位置にある場所が、茎の長い蓮葉に見える。足場と足場をつなぐ、傾斜のある橋を渡り、高い位置につく。
苔や藻が繁殖した、生臭い水のにおいが、灰色にくすんだ空に向かって立ち上っている。
どこかで見た曇り空だった。
きっと雨が降る。冷たい雨が、すぐに。
この戦いを見守るのは、キサラギの準備を整えてくれたフェスティア公をはじめ、約者候補の少女たち、身分の高い貴族、その騎士たち。王太子オーギュストが席に着き、最後に龍王が座す。
エルザリートの姿はない。彼女はすでに処分を受けたはずだった。オーギュストがどう動くかは分からないが、助命はされたとフェスティア公は言った。ただ、このままでは貴族の身分を持っている可能性は低いだろうとも、正直に教えてくれた。だからキサラギは、この戦いでエルザリートの命と立場を救わなければならない。
竜騎士の登場に、声が爆発した。帽子や手巾を振り、仮面の騎士がこちらに視線を投げることを期待する女性たちが、金切り声の悲鳴を上げる。男たちは興奮して足を踏み鳴らし、これからすぐに訪れる惨劇に期待を煽った。
目を血走らせ、爛々とさせ、濁った目玉を剥き出す者たち。
これは竜の声だ。血に飢えたものの叫び。
キサラギは、心を静かにすることができるようになっていた。見失っていた。自分が自分としてあること。自分はいったい何者なのか。執着するあまり周囲が見えなくなるのはもう性格だろうけれど、今度はもう少し早く気付きたいものだ。
私は誰か。この剣は、何のためにあるのか。
(私は、竜狩り。竜狩りのキサラギ)
この剣は竜狩りの魂。この魂に逃げないことを誓った。逃げないために。守るために。
(竜に運命を狂わせられてしまう人たちを、救いたい)
そして、今戦うべきはこの――。
キサラギの立つ足場の先、別の足場に立った竜騎士は、まるで世界にキサラギしかいないような静けさで、なにものにも揺るがせられない姿だ。漆黒の装備。鈍色の仮面。わずかに覗く、銀の髪。その内側に、どんなものが渦巻いているのか。
「――……あんたが誰なのかを、知りたい。けれど、それが叶わないというのなら、私は、自分の心に従って、あんたと戦う」
手にした白刃が、わずかな光を集めていく。
「あんたを狩る。きっと、あんたもそれを望むだろう?」
竜騎士が剣を抜いた。
開始の声もなく、両者が動いた。
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