強さだけではなせないものがある。我が身を捨てることで示せる強さもあると、エルザリートを見て知った。それは、故郷の親友にも通じるものだ。
いつか、男と女の差で揺れ動いた。強さを追求することか、優しさを示すことか。でも、キサラギは女で、男のように戦っている。つまりは、その両方を体現できるということなのだ。
もう二度と会えなくとも、それぞれの心の中にお互いを呼び合う。キサラギの中には、セノオのユキと、ルブリネルクのエルザリートがいて、それは自分が持っていない力を教えてくれる。
投げ捨ててまで、愛おしむ相手を守ろうとする、無垢な力。
(どうか)
祈る。届くように。
私の生きた証が、ここに刻まれるように。
(誰かのために戦った私を、よくやったと言ってくれ)
そして、最後まで全能ではなかった私を、許して。
――絶叫が世界を揺るがす。
流れた血の量に応じて、歓声が沸く。望んだ結末に誰もが興奮し、唾を撒き散らして快哉する。人の死を喜ぶ者たち。王国の人々が、狂ったように歓喜し、騎士を褒め称える。
あつい。
灼熱を叩き込まれたような感覚に、意識がぼやけていく。
キサラギは、そっと手を伸ばし、腹部に埋まる剣をたどり、柄を握る竜騎士の手に触れた。
その手は、震えていた。
「……欲しかったんでしょう。だったら、震えていちゃ、だめだ」
「…………」
「後悔、するなら……自分を手放しちゃいけない。こんなことしたくないと叫ぶなら、誰かに使われていてはいけない……」
「…………」
そろそろ、口が動かなくなってきた。視界がぐらついて、焦点があわない。
間近にある男の瞳に、キサラギは手を伸ばす。そして、汚れたその手に気づき、触れることなく手を下ろした。
(分かったよ、セン)
私がここまで来たわけは。
(私は、あんたを……――)
キサラギは、よく聞こえるように、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「さあ、剣から、手を、離して」
手を、ともう一度告げると、竜騎士のそれが柄から離れた。
「いい子だね」とキサラギは笑った。
そして、静かに後退る。びちゃり、と赤い足跡が後ろへ続く。足場のふちにかかとがかかった。
その背後は、濁った水面。
「……私は、あんたのしたことを許すよ。灰色竜のことも、黒竜のことも……この国でのことも、私のことも」
風の唸りに、雷鳴が混じり始めた。
細い糸のような雨が、水の表面を叩き、打つ。世界が銀色にけぶる。それですべてを洗い流せはしないけれど、片手くらいは拭うことができるだろう。
その手で、自分自身を取り戻してやることくらいはしてもらわなければ。
「…………………………」
竜騎士がキサラギを見る。
キサラギは、笑った。
そして、その場から身を躍らせた。
――深い水底のような混沌の渦の中に、お前の声が聞こえる。
「欲しかったんでしょう」
そう、欲しかった。この暗闇は寒い。明けの知らぬ夜の闇だ。晴れることのない永遠の雨が降り続き、黒い水は枯れることがない。お前の声すら、歪んで曖昧になる。
水は、甘い。血の味が、する。けれど本当に欲するものが手に入らない。ここから抜け出して、この凍える身体を温めて癒したい。お前の側ならば、きっと光があるだろう。
「自分を手放しちゃいけない」
その言葉に、ようやく、自分が何も見えてないことを知る。この闇は、目が開かないためだったのか。そこで、思い出す。そう、この目を閉じようと決めたのは、黒竜を手にかけたからだ。
殺した竜は、最期に元の姿を取り戻した。まだあどけない、かつて愛そうと決めた少女の姿は、この手によって血に塗れていた。その死に顔を見ることができず、目を閉じた瞬間、囚われた。
『あの子は、あなたを最期まで憎んだでしょうねえ……』
声は甘い。そうだろうと、そうに違いないということを、刃のように滑らせてくる。
『だからあなたは、救われてはいけないのよ……。優しさを捨て、竜人としての本来の姿を取り戻しなさい』
「誰かに使われていてはいけない」
二つの声が重なる。かすかに開いた視界に、揺らめくものが見える。
『許されると思ってはいけない』
「あんたのしたことを許すよ」
二つの声の源は、赤い炎と紫の闇。闇は炎を取り込もうと忍び寄り、警句を発するために口を開くも、声が出ない。
呼んではいけないと思っていた名だった。
届いたなら、絶対にお前は来るだろう。助けに来たよと笑って、自らを削ることを厭わない。
身体を沈めた水は甘い。しかし、その甘さに衝撃が走る。
この血は。この色は。
――そして、目が覚めた先に、血に塗れた両手と、今まさに落ちていかんとするお前がいた。
少女騎士が水底へ姿を消すと、観衆の興奮は最高潮になった。幾人かが腰を上げる中、勝者に向けられた暴力的な歓声が響き渡る。雨など吹き払うほどの興奮の中に、雷鳴が轟く。
「…………キサ、ラ、ギ……?」
呟きは轟音ともいうべき声に掻き消されていく。
雨に混じって足元に流れてくる血、そして両手を染めるこれは、彼女のものだ。
――俺が、やったのか。
(俺が?)
幻のようだった先ほどの光景が、蘇ってくる。腹部に剣を突き立てられたまま、こちらに向かって笑った、そして、背後へと身を躍らせたキサラギ。
その身体はどれだけ待っても浮かんでこなかった。
――あんたのせいじゃないからね、と言葉にせずとも伝わる、愚かなほどの優しさ。
衝動が、足元から突き抜け、身体の底から声が迸った。竜の声であるそれは、天地を揺るがし、人々の声を止ませた。異常な吠え声に竦み上がったのだ。それでも、吠えるのをやめることはできなかった。
(俺が殺した。俺が。俺が――)
怒りとも悲しみともつかない感情が、周囲で爆発した。
その瞬間、その身体は、竜の姿になっていた。
逃げ惑う人々の絶叫の中、呪わしいほどに美しい哄笑が響く。
いつの間にか、闘技場の足場に移動していた紅妃が、吠える竜に興奮の声を叩きつけている。
「堕ちる時を待っていた。あなたが約者を失う瞬間を!」
紅妃の声が、高らかに響く。
「王の資格もつ私の小さな竜。これで、すべての竜が狂う……!」
その声に宣言され、闘技場のあちこちで異常が起こり始めた。逃げ惑う者の一部が、急に足を止めたかと思うと、這い蹲り、その身体を膨らませ、苦悶の声を上げながら、化け物になっていくのだ。それは、形こそ異常だが、自分たちが竜と呼ぶ生き物だった。
「お、おお……!」
従者に取り残され、龍王が一人、闘技場を支配する白い竜に手を伸べる。
「竜よ……真なる竜の王よ……! 神代のように我らに加護を与え給え。新しき誓約を得るため、そなたに約者を捧げ、」
だがその声は寸断される。深紅の竜の爪が、王の頭を握り潰したのだ。
その腕の持ち主は、紅妃だった。
「――ずっと殺してやりたかった。私からすべてを奪った王の血筋。私の息子を殺し、私が毒を煽って死ぬと家族をも害したお前たち。ああでも一つだけ感謝しなければ。毒だったものが竜の血であったから、私はこうして今まで生きることができたのよ」
被っていた薄布が風に巻かれる。それを鬱陶しいとばかりに剥ぎ取って、女は恋い焦がれてようやく訪れたこの時の安らぎに目を細めている。
女の語るものに聞き覚えがあった。龍王に召され、拒んだがために息子を殺され、のちに自害した美貌の公爵夫人。
「ユートピア・アレイアール」
「オーギュスト・イル・ルブリネルク」
人外の素早さで身を寄せた女は、オーギュストの頬を人でしかない滑らかな両手で包み込みながら、口付けられるほどの距離で、囁いた。
「最初はあなたも殺してやろうと思ったけれど、気が変わったわ。あなたには竜人に通じる憎しみや飢えがある。私に協力してくれるかしら」
「……何に協力しろという」
オーギュストは冷静だった。これは、来るべき時なのだという実感が、自分を静かにしていた。その時を甘受する王太子に、女は大輪の花のごとき麗しい微笑をもって囁いた。
「私たちが生きることを許さない、この世界を壊すために」
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