走って、走って、背を向け続けた挙句、海に行き着いた。ここは草原ではない。青い香りの代わりに、潮のにおいが満ちていた。
どんなに走ったところで、逃げ場にしていた、親友がいるあの塔には戻れないのだ。
「…………」
何者にも縛られないのが自分の生き方だった。故郷のいる時、出て行こうと思った時に出て行くと、啖呵を切ったこともある。けれど今、頼るものもないまま独りでいることは、それを言うことすら困難なのだ。
(独りで生きていると思ってた。けれど、守られていた……)
戦うしかないのか。騎士として。エルザリートの剣として。
人と殺しあわなければならないのか。
(私の剣はそんなことのためにあるんじゃない!)
草原に、戦争がなかったとは言わない。賊もいたし、人殺しもあった。キサラギも、街を守るために誰かを傷つけたことがある。
けれど、それらと竜との戦いは別のものだと思っていた。剣とは生きるためのもの、仲間たちと力を合わせて竜を狩り、お互いを守りあうための力だ。
このまま逃げようか。キサラギは考えた。自分のことすら守れない自分に、エルザリートをも守ることは不可能だ。一人きりの外出はずっと許されていなかったが、今回は止められなかった。逃亡と裏切りは許されないと言われていたけれど、今は好機ではないか。
だがその時、あの顔が浮かんだ。
金色の笑み。
嘲笑していた。キサラギの言葉を、草原の、異邦のくだらない法だと嘲った。
「っ……」
ぎりりと歯を噛んだ。
騎士を、戦いを、道具として扱った。命を奪う覚悟をそういうものだと信じて疑わない、不遜な態度だ。傷つくことを、恐れを知らない。
許せない、と思った。
(あの人に思い知らせることはできないか)
けれどキサラギが持つのは力だけだ。他は何もかも借り物で、王族なんてものに太刀打ちできるとは思えない。だが、王族がどれほどのものなのか、という気持ちもある。畏れ敬われるだけの理由が彼にあるのか。
はっとした。
(私は、何も知らないんだ。この土地のこと、どんな人が生きているか、どんな問題があるのか。多分、それを知ることからでも、自由が始まる……)
そう思うと、すべきことが浮かんだ。
情報を集めよう。この街にいる人たちが何を考えているかを聞くだけでも、始めることができる。キサラギは取って返し、人が最も集まりやすい市場や飲食店が連なる場所を目指して歩き回った。
街は薄暗い。海からくる雲のせいだろうか。草原の街をいくつか見てきたが、ここほど空気が湿っているところが初めてだ。道の色はくすんで、建物に使われている石材も木材も、劣化してぼろぼろだ。そして、人々の格好は、エルザリートやオーギュストと比べて、非常に貧しい質素なものだった。一枚の布を筒状にしてそれを腰の帯で締めている、女性はそれに前掛けをしているという服装だ。
人の流れを見ながら、ふと、意識に引っかかるものがあった。
(つけられてる)
複数人、なんとなく、男だろうと思った。
キサラギの身なりが、簡素だが上等なものだと目をつけたのだろうか。それとも、あの奴隷市の関係者がまたキサラギを売り飛ばすつもりなのか。もしくは、キサラギがどこから出てきたのかを知っているのか。
尾行者は、最も人通りの多い市場に来ても、キサラギを見失わないでいた。剣を持っていないのがまずかった。荒事になると、どうしても不利になりそうだ。
「綺麗なお兄さん、寄ってって!」
「お兄さん、こっちの腕輪を見て行って! 恋人、気になる人への贈り物に!」
キサラギは苦笑して、その二人の女性が広げている、装飾品の店の前に座り込んだ。女性はそれぞれ三十代後半か、発せられる雰囲気が明るく、声も大きくて、身体が大きく感じられる。
「綺麗ですね」
「ええそりゃもう! 南の砂漠地方の職人が作ったものだからね!」
「そう言うお兄さんも、綺麗な耳飾りをしてるね」
顔を上げた拍子に、片耳にしている、板状の耳飾りが揺れた。
「片方だけなのね。おしゃれねえ。お兄さん、異国の人? 黒い髪に、金と赤い石がよく似合ってる」
その耳飾りは、故郷の街セノオで、竜狩りが成人として認められたときに与えられる証だ。楕円の金属板が連なっており、その中の一つに赤い石がはめこまれている。そして板のひとつには、キサラギの名と生年月日などが刻まれている。
これと竜狩りの装備は、キサラギが草原の民である証になるとして、奴隷として囚われても奪われなかったものだ。彼らはキサラギたちの自由を奪い尽くし、人間としても踏みにじったが、不思議と身につけているものなどはそのままにしていた。おそらく、エルザリートのような高貴な人間が時々買い付けに来るからだろう。美しい馬が高値で取引されるように、奴隷も美しく生き生きとしている方がいいという発想だ。
この気の良さそうな女性たちも、奴隷はそういうものだと思っているのだろうか。素性を明かしたらどんな反応をされるかを考えていると、急に背後の気配が強くなった。尾行者が、こちらに近づいてくるのだ。
「女の子にはね、こっちの透かし彫りの腕輪なんていいんじゃないかしら。手首が細く見えるわ」
(こっちを見てる。足音が、こっちに来る)
「幅は太い方がいいわね。華奢に見える方がいいものよ」
「それとも、お兄さんが着ける?」
きゃらきゃらと女性たちが笑ったとき、背後から、すっと手が伸びた。
「……これを」
分厚い外套から伸びる腕が、キサラギに見せられていた腕輪を指差す。男の手、男の声だった。まいどあり! と女性が叫んで、男から紙幣を受け取った。
それで、その人物はいなくなった。キサラギは、詰めていた息をどっと吐いた。
(なんだったんだ。どういう目的でつけてきてたんだ?)
「で、お兄さんは買う気あるの?」
鋭く訊かれて、腰を上げた。冷やかしだけで店の前を占領し続けるわけにはいかない。
「また今度にします」
「あらそう。それじゃあ、お近づきの印に」
袋状のものを手渡された。
と、同時に、何か別のものの感触があった。
「甘茶って言って、匂いも味も甘い茶葉なんだけど。『さっきのお兄さんにも渡したらよかった』」
ああ、それとも、と女性は笑う。
「『やっぱり、男なら酒場、特に黒羊亭の黒麦酒かしらね』」
キサラギはその目が笑っていないことを見抜いた。
ありがとう、と微笑み、店を去る。手渡されたものを注意深く広げると、女性が言った茶葉が一包み、そして、折りたたまれた紙が一枚。
『龍王子の真実を話したい。黒羊で待つ』
あの女性たちがどんな顔をしているか確かめてみたい気持ちがあったが、振り向いてはいけないと堪えた。彼女たちは、キサラギの尾行者と知り合いだったのだろう。おくびにも出さずにすぐに走り書きを渡してきたのだから。
(龍王子……オーギュストのことか)
キサラギが彼らの近くにいることも知っていての尾行だということだ。ずっとエルザリートの屋敷が見張られていたのだろう。エルザリートたちに何らかの思いを持つ者たちだと考えられるが、果たして言葉に従っていいものか。どちらにしても、あんまりいい予感はしない。
(……いや、情報は、偏らないほうがいい)
屋敷に戻ったときのキサラギの立場が怪しまれ、束縛がきつくなるかもしれないが、今でなければ接触が難しくなるだろう。
こういう直感には従った方がいい。キサラギは、とりあえず目に付いた石をいくつか拾って懐に入れた。武器がない状態だが、投石は牽制くらいにはなるだろう。そして、黒羊亭なる酒場を探した。
そこは、表通りから外れた、けれど陰鬱な感じはしない店だった。きっと、あまり裕福ではない層と働くことを主とする人々がよく利用するのだろう。まだ日は高いが、営業中の証に表の燈台に火が入れられている。
開け放された扉をくぐる。いらっしゃい、の声をかけてきたのは、よく焼けた肌をした赤い髪の少女だった。彼女は、入ってきた客が若くて身なりがいいので、意外そうに「一人?」と尋ねた。
「いや。連れが待ってるはずなんだ。ええと……」
文面を思い出す。なんと書いてあったか。
「まあ、とりあえず……『黒麦酒』」
奥の席で一瞬声が止んだ。少女は「はいよー、一番奥の座席にどうぞ!」と案内して、注文を通しに行く。
示された場所には、三人の男。キサラギは彼らを背にする形で、席に着いた。じきに黒麦酒らしきが運ばれてくる。小さな樽の器に、黒い酒が入っている。においは、その名の通り、麦や米に近い植物の甘さと、酒精の辛い香りが立っていた。
「……あ。美味しい……」
精製品ではないのか少し強いが、竜狩りたちが好む強いだけのお酒より、ずっと美味い。
キサラギの後ろで、笑う気配がした。
「ふん。がきのくせに、いける口か。お里が知れるぞ」
振り向こうとすると、見るな、と言われた。
「そのままで聞け」
「いいけど、最初に言っておくと、私、財布持ってないからね?」
「分かってる。お前が出てくるのを待っていた。あの屋敷は、隙があるように見えて、奴隷を一人も使わない念の入れようだったからな」
炊事場のサラも、そんなことを言っていた。エルザリートの周辺は、身元の確かな人間ばかりを置いている。出身、生業を含め、キサラギが一番の不審人物なのだ。
「それで、何を教えてくれるって?」
「龍王子は王国での地位を磐石にするため、資金源として人身売買や暗殺に手を染めている。この街での奴隷市、表に出ていないが龍王子が支援者だ」
そんな気はしていた。エルザリートもオーギュストも、奴隷という言葉を気軽に使う。そういう職業があるみたいに呼ぶのだ。ただ、オーギュストの方は、それがどういうものなのかを知って見下しと嘲りを抱いている様子だった。
「今、港にある船が停泊している。船には、龍王子が大公に命じて仕入れさせた『荷』が積まれている」
「何が積まれてるの」
「違法品の山だ。奴隷、薬、酒。いろいろあるが、今回俺たちが目をつけたのは、最も厳重に守られた品があるからでな」
「俺たちはそれを奪って、王子の鼻っ柱を折ってやりたいんだ」
それはさぞかし気持ちのいいものだろう、と思ってしまったのは、先ほどの怒りが燻っているからだ。キサラギはそんな衝動を押さえ込み、静かに制した。
「人死にはごめんだ。誰かを傷つけることも」
「そんなことはしない。せいぜい、しばらく商売ができなくなるよう、荷を奪って船を燃やすくらいさ」
そりゃ大事だ。他人事のように思ったのは、そういった暴力的な手段に出る輩は、たとえ主張が正しくとも好きになれなかったからだ。断る、と言ってもよかったが、ひとまず聞くことにした。
「あんたたちは誰?」
キサラギが協力しないと答える可能性を考えて、明かす可能性は低いと思っていた。キサラギがオーギュストに報告すれば、彼らは一網打尽にされるかもしれないからだ。だから、彼らがキサラギが出てくるのを待っていた、最も大きな理由があるはずだった。
男の一人が低く笑った。
「お前、草原から来たんだってな。半信半疑だったが、その顔立ちですぐに分かった。確かに、お前の顔は異邦人の系統だよ」
「そりゃどうも。で?」
「草原には、竜と竜狩りがいるそうじゃないか。草原に住む人間は、さぞ竜が憎かろうなあ」
肌が粟立った。
その先に恐ろしい話が待っていると直感して。
空気が変わったことを感じたのだろう。キサラギを抱き込むような声で、男は言った。
「なあ――王子の積荷が、竜だったとしたら、どうだ?」
*
ヴォルスが外へと視線を投げかけると、薄闇に包まれる空には、雲が集まり始めていた。じきに降り始めるだろう。明日の朝は大時化だろうか。天気の悪い日は、姫の機嫌が悪くなるから嫌いだ。
そんなことを思っていると、門番が門を開き、小柄な人影が滑り込んでくる。ヴォルスは、ほっと息を吐き、玄関でその帰還を迎えた。
「ずいぶん遅かったじゃないか」
帰ってきたキサラギは、さっぱりとはいかないまでも、しっかりとした顔つきをしていた。いささか目の光が強すぎるくらいだ。外で何かあったのか。
「一人になりたいときもあります」
「……お前、飲んでるのか。って、酒代を上着の釦で払いやがったな!?」
前が留まっておらず、開けっ放しになっているのを見て、ヴォルスは天を仰いだ。確かに、装飾の施された金釦はそれなりの値がするだろうが、やけっぱちになってそれで酒を飲んでくる者はそうはいるまい。
「お前は本当に、世慣れてるのか世間知らずなのか分からんな……」
言いながら、キサラギの様子を確認した。この辺りの連中に、オーギュストとエルザリートに反感を持っている輩がうろついていることをヴォルスは知っている。そして、オーギュストがキサラギを放ったのは、それらと接触させるためだということも分かっていた。
(……特に不審な点は見当たらない、か?)
不自然に何かを隠すでもなく、自然を装った感じもしない。
ただ強いのだ。芯が据わったというべきか。これまでは立ち位置を探っていたが、眼差しがまっすぐになり、顔つきがしっかりした。敵意も見えない。研がれた刃が使われるのを待っているかのように、静かだ。
足音がし、上階にオーギュストとエルザリートが現れる。
「帰ってきたということは、決めたようだな」
キサラギの強い目が、からかうように言葉を投げかけるオーギュストに向けられる。
それを受けて、彼女は微笑った。
「それ以外の選択肢を用意していないのによく言うよ。私がやらなくても、誰かがやることなんだろう?」
がつっ。床を蹴りとばす様に足を踏んだ音が響き渡った。
「誰かがやるんなら、私がやる」
オーギュストは、ますます笑みを深めた。
「理解が早くて助かる」
言い切ったキサラギに向き合うオーギュストは、彼女の本心を測っている。何がそう心変わりさせたのか。誰と接触したのか。目的は。そしてそれらに的確に手を打つのが、龍王子と呼ばれるルブリネルクの王太子オーギュスト・イルという男だった。
「では、日程と場所はこちらで決めよう。騎士としての初仕事だ。期待している」
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