故郷からともに来たのは、身につけていた装備と武器、そして自身を証す耳飾り。
 キサラギは、己の一部でもある剣を確かめ、きちんと研がれているか、曇りがないかなどを確かめた。
 最後の手入れをしていると、ヴォルスがめずらしく興味を持った様子だった。部屋の床に座り込んでいるのを、横からふむふむと眺めていたのだ。
「草原の武器って、剣身がやけに広いな。それ、両刃か。しかし見たことのない白さだな。白鋼か? 鍔は飾りに見えるが」
「草原の一部でしか採れない特殊鉱石で作られてます。それ専門の鍛冶師がいるんですよ」
 研ぎやすいので柔らかいかと思えば、この鉱石自体がかなり重いものなのだそうだ。そのため打撃力は高いが剣として扱うには十分な鍛錬が必要になる。大抵は、斬るというよりは叩き割る用途で、戦斧や大鉈などに使う竜狩りが多い。
 しかし、キサラギの有利な点は素早さと腕力なので剣を持つようにしている。幅広にして重量を出したこの剣は、重さからでも竜を叩き切れるように仕上げてもらっていた。
「その鉱物の出処は……まあ、秘密だよなあ」
「私も知らないです。採掘師がいるって聞いたことはあるんですけど、絶対に鉱脈の場所は明かさないそうですよ」
 装備は、縫いを解き、薄くなっているところには継布を当てて、きっちり縫い込む。その手の動きにヴォルスが感心したようなのは、キサラギが針仕事なんて細かい仕事ができそうにないと思っていたからかもしれない。
 胸当て、籠手、膝当て、長靴などは、竜や動物の革、そして鋼などでできている。狩りの対象によって装備の重さは決まるが、キサラギが持っているのは普段着と仕事着の間にある、旅用の装備だ。急所は鋼鎧にしているが、他は軽量化を図って革になっている。
 くん、とヴォルスは鼻を鳴らした。
「なんか、独特のにおいがするな?」
「使い込んでますからね。ほら、着替えるから出て行ってください。覗くつもりはないでしょう?」
 慌ててヴォルスが部屋を出る。キサラギはさっさと装備をまとい、必要なものを仕込んで、外に出た。
 ヴォルスに先導されて、控室から薄暗い通路を抜けると、キサラギの姿を認めた人々からわっと声が上がった。
 空はよく晴れていた。風はからっとしており、鳥が大きく鳴き交わしている。日差しは強く、キサラギがこちらに来てから初めて見るような快晴だ。心なしか、街の声も活気に溢れていたが、キサラギがやってきた闘技場と呼ばれる試合場は、熱がこもって嫌な感じだった。あの、奴隷市を思い出す。
 円形になった最も低い場所が、剣闘が行われる場所。その周りを、成人男性ほどの高さの壁がぐるりと囲んでおり、客席は、外側に向けて一段ずつ高くなっていく。席は、地上に近い席からそこそこ埋まっていた。
 無力だった奴隷市と違うのは、キサラギの両手足には枷がないこと、手元には使いなれば武器があることだ。
 しかし、これからこの剣で、人と、戦わなければならない。
 オーギュストが指定したのは、今日この日、観客を集ったこの場所で、エルザリートを襲った男と試合をすることだった。
 使うのは、本物の剣だ。触れれば切れる。当たりどころが悪ければ相手を殺す。それが、この王国地方の決まりなのだと、ヴォルスは言った。
(勝者には栄誉を、敗者には死を……か)
 すべてのことが、騎士の戦いで決まるのだ。正義を主張する決闘はもちろん、地位や土地を賭けた試合もあるという。例えば、と苦笑を浮かべてヴォルスが例に挙げたのは、とある少女たちが言い争いになり、どちらの主張が正しいのかを騎士の戦いで決めさせたというものだ。だがその主張というのは、自分と相手のどちらが美しいか、優れているかというものだったというから、キサラギは表情を落として何も言えなくなってしまった。
 なんてくだらない剣の使い方だろう。それで命を落とすなんて。その主張すらむなしく思えた。
 キサラギは、客席をぐるりと見回し、興奮に満ちた人々の表情に嫌悪を覚えながら、中段の、緞帳をかけたところに座っているエルザリートに目を留めた。
 まるでそういう人形のように、美しい姿勢で座っているエルザリートは、じっとこちらを見つめていた。けれど、その顔は瞳よりもなお青ざめている。隣に座り、キサラギを嘲るようなオーギュストとは対象的だった。
(エルザ……)

 ――オーギュストに諾と返事した次の日、エルザリートはキサラギを部屋に呼んだ。
 彼女と話すのは久しぶりだという気がした。強気だった表情には、暗い影が差している。
「エルザ。ちゃんと食べて寝てる?」
 キサラギの第一声に、エルザリートは眉をひそめ、目を背けた。
「そんな話をするために呼んだのではなくってよ」
「知ってるよ」
 エルザリートは、にこりと笑ったキサラギを薄気味悪そうに見て、そしてまた、目を背けた。
 キサラギは室内を見回した。調度はエルザリートの可憐さを引き立てるような豪華なものばかりだが、先日とは異なって、絵や飾りに新しいものが置かれている。視線に気づいて、エルザリートは絵を見ながら言った。
「お兄様がお土産に持っていらしたの。古王国の貴人たちの余暇の光景なのだそうよ」
 薄い衣服を着た女性たちが、泉の周りに集まって、背中合わせに座ったり、草の上にうつぶせになったり、立って歌を歌っている、という絵だ。周囲に緑が描かれていて、非常に爽やかな絵なのだが「綺麗だけど、あんまり面白くない絵だね」とキサラギは言った。
「面白いとか面白くないという話ではないわ」
「そりゃ、絵の価値とか歴史とか考えるとそうだろうけど、見てどう感じるかっていうのは必要でしょう。『この絵をどう思いますか?』って聞かれたときに、この絵は古い時代のもので価値があって、っていう話をするの? それは答えになってないよ。というわけで、エルザはこの絵、好き?」
 エルザリートの眉間が引きつった。
「例と実際の質問が違うじゃないの」
「好き?」
 エルザリートは長くため息をついた。
「……嫌いじゃないけれど、好きでもないわ」
 だろうと思った。エルザリートには、人間を描いた絵よりも、花だけだったり、風景だったり、架空の何かが描かれている方が似合う気がしたのだ。
「エルザは、オーギュストにははっきり物を言うことができないんだね」
「…………」
 彼女が顎を引いたのは、防御姿勢に入ったからだ。キサラギは視線が逃げられないよう、まっすぐに目を合わせた。
「あなたは、たくさんの思いを抱えてる。けど、それを誰にも言えずにいる」
「……やめなさい」
 喘ぐようにエルザリートは言った。けれど、キサラギは従わない。
「私をここに呼んだのは、今度の剣闘のことで話したいからだって、分かってるよ。でもどう言っていいのかわからないっていうのも、知ってる。自分の主張を呑み込んできた人は、だんだんとそれをどう表していいのかわからなくなってくるんだよね」
 故郷にそんな人がひとり、いた。彼女は自身の思いを呑み込んで、キサラギの思い込みを否定せずに頷いてくれていた。すべては、キサラギが傷つかないために。そしてキサラギは、親友の本当の思いを、失いそうになって初めて知ったのだ。
「エルザが自分を殺してまで守りたいものがあるんだね」
 声にならない怒りが聞こえた気がした。
 エルザの目には青い炎が燃えて、輝いて、キサラギを詰っていた。お前がどうしてそんな知ったようなことを言えるのかと、憤っていた。
 ぶつけてくるだろうか。キサラギは待ったが、エルザリートはその炎を奥底に押し込めると、低く落ち着いた声で言った。
「お前の物言いは、いつも偉そうだわ」
「エルザの喋り方には負けるって」
「ふん。その様子だと、特に落ち込んでいるということはなさそうね。だったらもういいわ。お下がりなさい」
「私は私のしたいことしかしないけど……エルザが嫌だっていうなら、考えることはできるよ」
 エルザリートはキサラギを凝視した。ここまで来て大人しく帰るつもりは、キサラギにはなかった。
 彼女は賢い。そして、傷つきやすい、普通の感覚を持っている。今は様々なものに絡め取られて動けないようだけれど、そこから出てきてほしいと思うのだ。せめて、笑って過ごしてほしい。
 そこで、エルザリートは怖気付いたように距離を取ろうとした。そして、キサラギがじっと視線を注いでいるのに、怒りの火を灯した。
「何も知らないくせに……」
「うん。私は、何も分からない。エルザの考えていることも、誰が正しいのかも。でも、自分の心は分かってるつもり。エルザもそうだと思う。そこで行動するかどうかの違いだよ」
 だからお願いがあるんだ、とキサラギは言った。
「いやよ。協力しろと言うのでしょう。お前が外の人間と接触したことはもう知っているわ。馬鹿な真似はやめなさい。彼らに協力しても、何も変わらないわ」
 エルザリートは苛立ったように握りしめた拳を震わせて言う。
「個人の力など、たかが知れているのよ。そして、ひとりひとりの力の差は大きくて、一人で成せる人間と、そうでない人間がいるの」
 キサラギは驚いてまじまじとエルザリートを見た。
「エルザ、もしかして……」
「もう出て行って。お前と話をすると、いつも不愉快だわ」

 話はそれで終わってしまったけれど、キサラギは気がついていた。エルザリートは、自分の望みをきちんと抱いている。そして、自分にとって最も大事なものを知っている。話を打ち切るための言葉を聞くまで、それだけだと思っていたけれど。
(エルザは、自分がどんな力を持っているか、何をすればいいのかを分かってる。分かってるけど、使わないでいる。……どうしてかは、想像するしかないけど)
 見下ろすエルザに、笑みをひとつ贈る。
 苛立ったように顎を上げたエルザに向かって、手を挙げると、キサラギは試合場の中央へと進み出た。
 正面の道から、鎖を引かれて、男がやってくる。
 茶色の髪はぱさぱさに乾き、飢えた緑の目がキサラギを睨み上げてくる。キサラギは内心で眉をひそめていた。どうやら大公は、彼を相当痛めつけたらしい。誰かを傷つけようとした人間は相応の罰を受けるべきだと思うが、食事を与えず、着るものも貧しく、さらに私的に痛めつけるようなことは、人の上に立つ者がすべきでない。
 男の枷が外され、剣が与えられる。どうやら、何が行われるかというのはすでに知らされているらしい。客席から、怒声混じりの揶揄の叫びが上がる。キサラギは剣を抜き、尋ねた。
「私は、セノオのキサラギ。あなたの名前は?」
「……エジェ・ロリアール」
 摩耗した掠れた声が名を告げると、ほんの少しだけ、緑の瞳に感情が宿ったように見えた。
「エジェ。あなたがここにいるということは、なんとしても生きたいと思ってるからだね?」
 ゆらり、と剣先が動く。キサラギの力を量っているのだ。
 この戦いにキサラギが勝てば、キサラギの剣がエジェを殺す。エジェが勝てば彼は逃げることができるが、キサラギが死ぬ。いや、死ぬよりももっと重いものを背負わされるかもしれない。
 天秤に、命を乗せた戦いだ。
 彼は、殺意を持ってエルザリートを狙った。そして、捕らえられてなお、キサラギと戦うことを選んだ。彼は生きることを望んでいる。そして、エルザリートに復讐したいと思っている。
 ――そこにキサラギの勝利が隠されているのだ。
 客席のエルザリートが促されて立ち上がり、試合場を睥睨する。無感動な声が、静かに告げた。
「始めなさい」

    



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