水の滴る音がする。
 冷たい空気に凍えて目が醒める。起き上がった途端に全身が痛み、エルザリートは息を震わせた。懐かしい痛みと寒さだ。北区で生活していた頃、この感覚は日常だった。
(生きている……)
 全身の傷の有無を確認し、無事を確かめる。そして頭上を見た。
 小さな光の点がある。
 あそこから落とされたが、どうやら下敷きにしているもので命を拾ったらしい、と足元で繁茂している植物に触れた。蔦が絡み、小さな木が生い茂り、枯れ草や色々なものが積み重なって、布団のような役目を果たしたのだ。
 誰もこの内部を確認していないのだろう。もしくは、突き落として殺すのではなく、負傷しつつも一命を取り留めさせ苦しませるための場所なのかもしれない。牢獄に入れられるのがためらわれるような存在をここに葬ってきたにちがいない。
 篭っている空気はすえた臭いがする。骨が見当たらないのが不思議なくらいだ。
 慎重に歩き出し、周囲を確認しながら進んだ。地上に城を建てているが脆いものではないようで、計算のもとにしっかりと石材を積み、作られた場所のようだ。
(城の地下に何かある、とはずっと言われていたけれど、本当にあったのか。あるのは牢獄だけだと思っていた)
 オーギュストは『地下回廊』と呼んでいたが、思い出そうとしてみても、それらしいものを見聞きした覚えがなかったから、ここは限られた者しか立ち入ることのできない場所でもあるのだろう。壁の石や、柱の形から推測するに、確実に五百年以上前の建築物だ。
(方角が分からない……城のどの辺りなのだろう)
 同じような部屋が続く。いくつかの広間を回廊で繋いであるらしく、小箱の中を行き来しているような感覚になってくる。迷宮めいた広さに、目眩がした。暗闇も気力を削ぐのに十分な効果を発揮している。視界が利かないというのは、かなり心理的に苛立つのだ。エルザリートを精神的に弱らせようという、オーギュストの思惑だった。
「…………」
 ひどい顔色をしていることに気付かないほど、オーギュストは危険な場所で精神を削っているのだ。自分のことも周囲のことも見えず、何かに取り憑かれたようにこの国を竜たちに蹂躙させている。
(きっと、自分では壊せないからだ)
 この世界を疎みながら、この国を忌まわしく思いながら、手を下せずにいたところを竜に付け入られたのだ、とエルザリートは思う。でなければ、オーギュストはもっとうまく動いていたはずだ。エルザリートのことをとっくに保護していただろうし、結婚などもさせなかっただろう。
 新しい龍王は体調が思わしくないらしい、という噂は、商人のカステルから聞いていた。侍医が診ているというが、治癒の気配がなく、横になる時間が多くなっていると。前王のように、オーギュストもまた少しずつ弱っているのだ。
(城に何かよくないものがいるのだ。呪いと呼ばれるような……それを竜たちが加速させたのか)
 傷つけた、という後悔が、ひたひたと押し寄せる。
 守られてきたというのに恩を仇で返すようなことをした。オーギュストが自分に聖性と不可侵を求めていたことを知っていたから、それを踏みにじってやれば冷静ではなくなるだろうという策だった。これで敵対関係になるという宣言だったはずなのに、彼はそれでもエルザリートを処刑しない。まだどこかで以前のオーギュストが残っているのだということが分かる。
 オーギュストがエルザリートをどう処罰するかによって、救出手段が変わるのだが、きっと援助者たちもこの地下回廊のことは知らないだろう。外に連絡をつけようにも、手段がないし、地上までは遠すぎる。しかしどこかに上に出られる道があるはずだ。少しずつ、けれど確実に探索を重ねていこう。そう思った時だった。
 暗闇の中に、ぼうっと光るものがある。
 ぎくりと足が止まった。
 光の発生源は、人だった。銀の髪だ。エルザリートはそれを幽霊だと思った。
 何故なら、その男はオーギュストと同じ顔をしていたのだから。
「……シリウスレイ王子?」
 オーギュストにそっくりで、銀の髪の男というと、あの肖像画の王子しか思い浮かばなかった。思わず名前を呼んだけれど、年齢が違う。肖像画は少年だったのに、こちらの方がオーギュストとほぼ同じ年齢になっている。
 そして、幽霊は呼びかけに反応した。ものすごく、嫌そうな顔をしたのだ。
 その人臭さに、思わず驚くほどだった。凄まじい眉間の皺だ。
「こんなところで何をしている」
 そして声を発した。こちらもオーギュストに似ていたが、より低く、鋭かった。
「…………」
 かつかつ、と足音がしたので、下を見た。
 ちゃんと足がある。靴を履いている。だからこれは、実体なのだ。
 そして思い出す。この黒い服装。銀の髪。
「……竜騎士、レイ・アレイアール? どうしてこんなところにいるの、というか、あなた、話すことができたの?」
「…………」
 何か言いたそうだったが、何も言われなかった。説明するのが面倒だったのかもしれない。焦れたエルザリートが矢継ぎ早に問いかける方が早かった。
「いったい何をしているの。紅妃の命令でわたしを殺しに来たの?」
「お前、何か見なかったか」
 質問を無視されたことに多少苛立ちつつ、尋ね返す。
「……何かって、何?」
「ここにあるには奇妙なものだ。扉や通路でもいい」
 思い出してみたが、ほぼ一本道だったと思う。暗いから見落としている可能性はないわけではなかったが、おかしな感じもなかった。
「あったとすれば……植物くらいかしら。誰も手を入れていないからか、凄まじい勢いで生長していたみたいだった。高いところから突き落とされたのに、それが下敷きになったおかげで打ち身で済んだの」
「案内しろ」
 命令口調にむっとしたのが、態度に出た。
「頼み方があるのではなくて?」
 この時、竜に変身するという者たちのことを、エルザリートはまだ見たことがなかった。ごく普通の人間に見え、見分けるのはかなり困難なのだとカステルが言うのを聞いたくらいだ。その身体的な能力が優位な立場を与えるせいか、かなり自分勝手な物言いをし、芋と栗と魚を寄越すように言われた者がいたとか。
 そして、エルザリートは、じろりと睨みつけられた瞬間に、その虹彩が人とは異なることに気付いてぎくりとしたのだった。
(この男、竜だ!)
「……………………案内してくれ」
 言われたことが一瞬理解できなかった。
 聞こえなかったのかと顔をしかめられて、ようやくエルザリートは頷いた。
(……変に殊勝ね……こんな竜もいるのか)
 来た道を今度は二人で戻る。突然襲いかかられないだろうかと思いはしたが、気配が静かなのでエルザリートの心臓も徐々に落ち着いてきた。兜で顔を隠し、口をきかずにいた頃の方がよほど恐ろしい気配をまとっていた。
 しかし、この男がキサラギを手にかけたのだと思うと、怒りをぶつけてしまいそうになる。けれどそれは、彼女の剣を汚すことになるからと、堪えて前を見た。
「お前」と、男が口を開いた。
「王家の者か」
 確か、一度会ったことがあるはずだが、向こうはこちらを認識していなかったようだ。覚えていないの、という言葉が妙な響きになるような気がしたので、触れないでおく。
「いいえ。わたしはランジュ公爵家の者よ」
「……ゼナ・イフェス・ランジュは血縁者か?」
「ゼナ・イフェス? 妾腹の生まれだったけれど王子の愛人になった人ね。最後には伯爵夫人の称号をもらって亡くなった人。ええ、辿れば同じ系譜よ」
 その王子は、後継と目されていた兄王子を排除し、ゼナを手に入れた男だ。ゼナも、最初は兄王子の教育係として城に上がっていた。そういえば、その王子の名は確か……。
「…………」
 尋ねても答えが返ってこないような気がしたので、問わずにおいた。多分、それを聞くのはエルザリートではない。
 埃が重なった道に、足跡が残っていたので、迷わずに済んだ。自分が落ちてきた穴のところまで来て「ここよ」と折り重なった植物を指す。
 竜騎士は剣を抜き、それを大きく縦に振り下ろした。ざくりと蔓と枝が断ち切られ、わずかに道が開く。だが、そこで不思議なことが起こった。
 まるで、ずるずると滑り落ちるようにして、植物が道を開いたのだ。
 山が崩れたところには扉があり、これが、彼の探しているものだと思われた。
(まあ……さらに秘密の部屋があるのか。この場所には奇妙な力が満ちているのね)
「何かあるか」
「え?」
「俺には見えん。影になった壁が正面にある」
 エルザリートは眉を寄せた。あんなにはっきりと、紋章の穿たれた両開きの扉があるのに。
「紋章が描かれた扉があるわ。少しかすれているけれど、ルブリネルク王家の紋章に見える」
 近付いていくエルザリートの後に続いた男が、指し示された扉の方向を見る。だがその目が、急に影の膜で覆われたように、エルザリートには感じられた。
 男は首を振ったので、エルザリートは自分が幻を見ているのではないかと疑い、その扉に手を伸ばした。
 しかし、確かに感触があった。冷たい、金属だ。少しだけ錆びてざらついている。奥へと押すと、軋んだ音を立てて開いた。だが、それでも男の目は虚ろなままだ。
「……手を引きましょうか? わたしには見えているのだから、手を繋げば入れるかもしれないわ」
 手を差し出すと、男はそれをじっと見て、少しだけ目を細めたようだった。
「……頼む」
 声と同じくらい、手は重く感じられた。
 そうして触れた手は普通の人間と同じで、汚れているとも、恐ろしいとも思えなかった。彼の所業を知っているはずなのに、哀れに思うのは、彼がオーギュストと同じ顔をしていて、だというのにもっと濃い悲しみを連れているせいか。
(キサラギなら、それを指摘したのだろうか……)
 しかし、それほど自分の心が広くはないことを知っているエルザリートは、黙って虚ろな闇の中を進む。
 そして、不意に足元から明るくなった。踏みしめた場所から熱が広がるようにして明るさを増していく。狭くはない部屋の中央が光によって円形に切り取られた。
 そして、そこに安置されたものに、慣れたとはいえど足を竦ませてしまった。
 人骨だった。仰向けに寝かされた何者かの亡骸。骨の形、大きさや全長から、恐らく若い女だろうと分かるのは、こうした者をそれなりに見てきたからだ。
 ごくりと息を飲むエルザリートの傍らを、すっと男が通り過ぎた。
 哀切を帯びた背中。静かに死者に眼差しを向けている。
 ふと身じろぎをしたので、その視線を辿ると、細い手首に目を向けていた。どうやらこの死者は死してなお縛られているらしい。外れるはずの手枷と足枷が、まだそこに嵌められているのだ。
(哀れな……こんな暗く冷たい地下に、未だに縛られて)
 エルザリートが短剣を取り出す前に、男が剣を抜くのが早かった。さらりと音を立てた白刃の先は、その錆び付いた鉄輪に向けられる。
 ぎん、と音を立てて鎖が断たれた。両の手足を同じようにして、男は死者を解放した。
 そして――何も、起こらなかった。
 地下の空気の冷たさが和らぐことも、闇が吹き払われることもない。死者は語らず、もうその命が終わったことを知らしめるだけ。
 くっ、と押し殺すように男が笑った。
「――当然だな。お前が俺を許すことはない……」
 期待した自分を嘲笑い、叶えられなかったことに絶望を始めた者の声だ。
 彼は振り返って、そこに他者が立ち尽くしていたことに気付いたようだ。しかし、こちらを見る目はどこか優しかった。胸の前で手を握って固唾を飲んでいたエルザリートは、顎を引き、何か声をかけようとした。
 だが、「出るぞ」と言われる方が早かった。帰り道は見えているらしく、部屋を後にする男の背中を見、そして繋がれていた死者に目を戻した。
(……後で埋葬してやらなければ)
 二人が部屋を出ると、扉は閉ざされ、植物たちの守りが再び道を覆っていく。蔓に足を取られないようにと、小走りでそこを離れる。
 エルザリートは唇を噛んだ。誰の仕業かは分からないが、不思議な力で扉を隠し、あんな暗い部屋に少女を繋いだ者がいるのだ。白骨化した少女は、この男の知る者だったのだろう。ここに来るまでに、他の場所も探して回ったに違いなかった。
 だから、男が「お前、外に出たいか」と聞いたのは、エルザリートを彼女と重ね合わせたからだった。
 一瞬不意を突かれて黙ってしまったものの、頷いた。
「出たいわ。城を脱出して、仲間と合流したいの」
 この城から出て、援助者の誰かの元へ逃げ込み、そこから西に向けて発つ手はずだ。騎士領国に到着後、彼らとともに首都へ攻め込む予定だった。
「分かった」
(……えっ!?)
 頷かれたと思ったら、横抱きにされた。思わず首にしがみついた瞬間、世界の速度が変わった。足が浮き、凄まじい速さで景色が変わったかと思うと、ふわりとドレスの裾が泳ぎ、突き落とされたはずの穴の縁に着地していた。
 さすが竜、人外のものだ、と声をなくして感心している間に、ゆっくりと降ろされる。
「ここからは一人で行け。俺といると目立つだろう」
「ええ……どうもありがとう。けれど、あなたはどうするの。もしこの国にあなたの敵がいるなら、わたしと一緒に来ない? この国から竜を排除し、龍王から王冠を取り上げて、戦火が広がるこの状況を終わらせたいの」
 男は目を細めた。
「俺は、ここで断罪を待たなければならない」
「断罪……?」
「何が始まりかは分からん。だが、すべてのことが、俺にはどうにもならないところまで来てしまった。選択の権限は俺にはない。その裁定を下せる者が他にいる。俺は、ここでそいつを待っている」
 どこからか、風の音がする。彼の眼差しはそこにある。
 そして、遠くに呟くようでありながら、まるで恋人の訪れを呼びかけるように言うのだった。
「……あなたと戦うことがないことを祈るわ」
 彼は本当の敵ではないのかもしれない。そう思い、その言葉を感謝の代わりにした。
 だが、行こうとするエルザリートを男が呼び止めた。
「お前、ランジュ公爵家の人間だと言ったな」
「ええ」
「今も残っているかは分からんが、『龍族肖像録』という図録に、エリザシア・ジュレスという王女の肖像がある」
(エリザシア・ジュレス……聞いたことがない名前だけど)
「王家に生まれながら、父王によって抹消された王女だ。ある年代から彼女の名が系譜から消えているが、それ以前のものには名がある。『龍続肖像録』は肖像が残っている唯一のものだ。探してみろ」
「……? 分かったわ。ありがとう」
 それが何の手がかりになるのか分からないが、素直に頷いた。
 そして、部屋を出る。うまく表に出ることができるはずだ。今、この城の人間はかなり数を減らしているのだから。
 振り返ると、男がまだこちらを見ていた。エルザリートは裾をつまみ、膝を曲げて礼をした。
「やがて訪れる断罪者が、あなたの救い手でありますように」
 深くは考えていない、けれど心の奥にある場所から、そんな祈りの言葉が口をついた。
 ただ、思ったのだ。この、内側を傷だらけにして息をするたびに血を流しているような、冷たい見た目の美しい男が、何もかもを忘れて安らげる場所、存在があればいい。
 彼が、エルザリートに繋がれた少女を重ねたように――エルザリートは、彼にオーギュストを重ねたのだった。
 目を丸くする男を清々しく笑って、エルザリートは階段を上って地上を目指す。援助者たちに告げていない、あることを為さなければならない、と思い始めていた。
 オーギュスト、例えわたしのすることが、あなたからすべてを奪ったとしても。
(わたしは、あなたを助けに行く)



 ルブルスの城は、地下遺跡の上に建てられた。竜を信仰していたかつての名残を、征服したという証明のために廃棄したのだった。だから、呪術を行うなら地下だろう、と予測していた。
 ただ、自分の目に隠されるような術まで施されているとは思わなかった。おかげで探し回ることになってしまった。
 意識が時々、消える。突然倒れて、気付いたら別のところにいるという状況が頻発していた。
 そうして自分の呪いの根源たるものを解放したはずなのに、何も変わらなかった。
 だからもう、自分はとっくに狂ってしまったのだろう。
 待っている。焦がれている。今すぐ会いに行ってさらってしまいたい。人の立ち入らぬ、遺跡のような場所に閉じ込めて、その血と肉を貪りたい。
「キサラギ……」
 早く来てくれ。でなければ。
 この世界を、壊してしまいたくなる。

    



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