暗い。
空も大地も。風の色も。世界中が、まるで黒い布に包まれたかのように、灰色に濁って見える。
踏みにじられた旗や、折れた矢、くすぶる煙の中を進み、キサラギたちは王国地方に入っていた。
移動の最中、監視と思しき竜が頭上にいた。襲われることはなかったものの、こちらの行動はある程度知られていると考えていいだろう。キサラギは顔が割れているので、帽子をかぶり、外套の頭巾をかぶって、口を覆って顔を隠していた。
それでもなお、突き刺さるような臭気が、大気になっている。
反対勢力とルブリネルクの兵による衝突が繰り返され、こうして土地が荒れていくのだ。
(国の軍が強い印象がないのが救いだろうか。ルブリネルクは、どちらかというと個人所有の騎士の方が名を挙げていた)
それでも、小国を潰していくくらいには兵力があるということだ。竜の力があるとはいえど、油断はできない。そう考えていて、ひとつの嫌な想像が胸をよぎる。
以前、マイセン公国で、キサラギは王太子の荷物だという小竜を倒したことがある。あれは砂漠でいうなら砂蜥蜴と同類の生き物だ。
草原には、それを用いて研究を行っている者たちがいた。同じことが、王国でも起きていないとは限らない。王国のそもそもの起源が、竜の血を取り込んだことによるのだ。
(少なくとも、関わった範囲では、それらしいものは感じられなかったけれど……)
「そろそろ合流地点だ」
アリスがそうキサラギに呼びかけた。
「何度も聞いて悪いんだけど、本当に私を連れて行っていいの? 面倒なら、置いて行ってくれても、あとは勝手にするよ」
「お前を連れてくることが契約に含まれている。だから、勝手に抜け出すな」
「だったら仕方ないけど……本当に邪魔だったら、切り捨ててくれ。あなたには守るべきものがあるんだし、私を切ったとしても、恨んだりしないから」
巻き込みたくなかった。センが来るかもしれないとどこかで思っていたのだ。
けれど、彼はルブリネルクの城で待っているのだろう。キサラギが辿り着かなければそれが運命だと言って眼を閉ざす。辿り着けば、この状況がどこに行き着くのかを知りたい。多分、そう思っている。
(そういう、ちょっと運命っぽいものを信じるところがあるんだよな、あいつ)
思って笑うキサラギを、アリスは薄気味悪そうに見ている。
「つくづく思っていたが、お前、本当に妙なやつだな……真剣にこの状況を見据えていたかと思ったら、乾いた調子で自分を切り捨てろという。そして、今は笑っている。どこからそんな余裕が出るんだ。今の状況が、自分に関わることだと思っていないのか?」
「ああ、うん、実感できてないのはあると思う」
「はぁっ!?」と神経を逆撫でしたための独特の怒りの声を、キサラギは苦笑で受け流した。
「だってさ、世界なんて実態のないものが、自分の手にかかってるなんて、実感できると思う? 今の私は、センが戻れないところまで行っちゃわないかって、そればっかりが心配なんだよ。ちゃんと帰ってこれるかなとか、転んだりしてないかなとか」
「子どものおつかいか」
「こうなるんだったら手を離さなきゃよかったって後悔でうずくまっちゃいそうだから、とにかく足を動かしてるんだ。だから余裕なわけじゃない。考え始めると動けなくなるから、考えないようにしてるだけ」
キサラギの言い分を、ひとまずは受け入れることにしたようだ。アリスはぷいと顔を背けた。
「だったら救うことだけ考えてろ。後悔なんて振り返らず」
「うん。ありがとう」
小休止を終え、移動を始める。騎士領国の仲間たちとの合流地点は、西方にある古い教会だ。
ルブリネルクにいた頃、異邦人であるキサラギが特に強制されなかったように、王国地方の宗教色はかなり薄い。過去には、竜を従えた王を神として崇めていたが、この時代ではその権威も当時よりはかなり落ちている。ただ、それでも王家が長らく宗教の介入を排除してきたために、教会はある一定の権威を保ったまま、どちらに傾くこともないままで来たという。
それに、何か竜にまつわる秘密があるにちがいないと思うのは、竜狩りとしての勘だろうか。
(誰が私を連れてくるように言ったんだろう……)
馬を借り、朽ちた戦場跡を突き進む。やがて風景が変わり、急な岩場を登っていくことになる。この岩場を埋めるようにして、その教会が建っているのだという。顧みられなくなった祈りの場所だ。
だが、先見に行っていた者が戻ってきた。「戦闘になっている」と言う。
「追われているのは貴族らしい。追っているのは多分王の手の者だ」
「王に追われている? 公ではないのか」
「いや、違うようだ」
しかし、アリスは手綱を握った。
「もしかしたら関係者かもしれん。助けよう」
その号令で、一行は道を駆け上った。しばらくすると剣戟が聞こえ、馬車が襲われているのが見えた。粗末な車は、内部の者の身分が知れないようにする偽装だろう。
対して、襲撃している者たちの服装は、それなりの身分と立場が与えられたものだ。現在の状況で、身なりに気を遣えるということは、龍王周りの関係者だと考えられた。
身を低くして馬で突入したキサラギは、アリスたちが馬上から敵を切り捨てるのとは異なり、白兵戦を選んだ。自分の身体の動きを確かめたかったからだが、想像以上に身体が軽いのに驚いた。いつものように地を蹴ったと思ったら、倍くらい高いところを跳んでいる感覚だ。
「ぐぅっ……!」
相手が十分逃げられるよう、余力を与えつつも、攻撃されないように手や腕を狙う。キサラギの振るう剣は、舞の一部になったかのように軌跡を描いた。
「何者だ!?」
(首領がいるはずだ。そいつを落とす)
誰何を斬り伏せながら周囲に視線を巡らし、それらしい者を探す。だが、次々に退却していく者たちの中に、気になる者はいない。
悲鳴が上がった。女性の声だ。
馬車から引きずり出されている少女を目の当たりにした瞬間、駆け出していた。振りかぶった剣、叩きつけられるはずの刃は打ち払われる。体勢を崩しそうになり、頭の中に警鐘が鳴った。
距離をとると、相手は感心したような声を漏らした。
そして、目を合わした瞬間、同時に悟った。
「お前……、まさか」
(ブレイド・ランザー!)
オーギュストの一の騎士、剣とも呼ばれたブレイドだった。
間違いない、追っ手はオーギュストの手の者。追われているのは――。
しかし認識することを追いやって、キサラギはブレイドに肉薄した。刃を受けたブレイドの顔が歪む。傾いだ刃を滑らせて、斜めから二撃目を与え、三撃目は我を取り戻したブレイドの刃によって受け流される。
だが、キサラギは左手で腰に帯びていた短剣を抜き放つと、左右を用いて攻撃を繰り出した。
右の長剣を受けたブレイドが呻く。
「こ、の……馬鹿力め……!」
今までの技量なら、左右で違う獲物を用いることは不可能だった。だが、異常なほど怪力が増した今なら、それが可能になる。正々堂々では絶対に勝てない。不可思議な力の助けという反則技を用いなければ、キサラギはここでブレイドに勝つことなく、潰えていただろう。だからもし運命を信じるなら、――ここで負けることはないだろう、と挑戦されているのだ。
剣をくるりと回し、前を見据えて構える。
「……強くなったもんじゃないか、ええ? なんとか言ったらどうだ」
(荒んだ目をしてる。前の余裕そうな態度とは大違いだ)
例え主人であろうとも、自身の利と鑑みて距離を置ける人物だと思っていたのだが、オーギュストに影響されてしまったのか。それとも、逃げられないよう退路を断たれたのか。
(何があなたを縛っているんだ?)
「ブレイド! あなたが本当に主人のためを思うなら、剣をお引きなさい!」
声が響く。周囲を払い終えたアリスたちが、馬車にいたその声の主の元に集まり始める。
足を踏みしめ、まっすぐに立つ少女が声を張り上げる。
「あなたの主人を助けるために、わたしはここにいる!」
「姫君、あなたが守ろうとしているその方が、あなたを処分するようにお命じになったんですよ。それを理解した上で、同じことが言えますか?」
「言えるわ」
返答は、間髪を入れなかった。
「世界を憎み、唯一を欲した。その希求と飢餓を知っているのに、わたしはそれになれなかった。何故なら、わたしたちは同じものだから――同じ血を継いでいるから」
外套の頭巾を払う。
瞳の青は夏空のよう。誰もが待ち望む快晴の色。短い金の髪は、凛々しい眼差しを高貴な光で包んでいる。
綺麗だった。影を背負い、白い顔をして、儚い彼女は綺麗な女の子だとずっと思っていた。けれど、今ここに立つエルザリートは、自ら光を放つ宝石のようにきらきらしていた。
キサラギは、彼女の頭上に、七色に輝く宝冠が見えた気がした。
「それでも、彼を救えるのはわたしだけ。実の妹であるわたしだけだ」
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