少し前から、地下回廊で何人かが工作していた。河川や堤防を破壊し、この城の地下に水を引き込むように手を加えていたのだろう。そして、その水が地上にあふれて、この古びた城の根元を破壊したのだった。
地下にいた自分も、死んだ少女の骨も、何もかも流された。そうしてなお意識のある自分は、ろくに死ぬことすらできないのだ。
目を閉じ、遠くにある声を聞かないようにする。水に飲み込まれたのは自らの意思だった。
キサラギがずっと自分を呼んでいた。探していることも分かっていた。けれど、離れられなかった。
自分を呪いに繋ぐために、死んで亡骸となってもこの場所につながれてしまったかつての恋人から、離れることなどできるはずもない。自分と関わってしまったばかりに、竜に変わり、自分に殺され、何もかもを奪われてしまった少女なのだ。
キサラギとは正反対の、生きる力ばかりが強く、それ以外には何も持たない無力な娘だった。ただただ、自分が他人とは違う、特別なものだということを信じたがっていた。
その必死さに、何度も自分は平凡だと思い知らされながら、自分を奮い立たせる強さに、憐れみと驚きを覚えた。そうして誰にも特別に思われずに消えていくであろう彼女を手を取ったのは、気まぐれとしか言いようのない心の動きだった。
それでも、共にあることは新鮮な日々だった。彼女はどこまでもごく普通の感覚の持ち主で、よく怒って泣いた。その度に自分は腹立たしい思いをして、苛立ったことも一度や二度ではなかった。あれほどまでに他人を気遣う生活は、今までなかったことだ。それが負担でもあり、少しの、幸せでもあったと思う。
長くは続かなかった、ささやかな日々だった。ごく普通に暮らすことができた、人間の感覚を味わった、刹那の時間だ。
「愛していた?」
問いかける声に、わずかに目を開ける。
「私のことを、少しでも愛してくれていた?」
すぐ頷かなければ、彼女は泣いた。怒り、拳を振り回し、私だけと言ってと縋り付いてきた。それを抱きとめる時の重さに、わずらわしさに、自分は何度も、これが選んだことだからと飲み込んできた。
「……ああ。愛していた」
影は笑った。くすくすと声を響かせて。
「私も、愛していたわ。残酷で優しいあなた。幸せが続かないと知りながら、私を放り出せなかったあなた……」
『許さない。許さない。あなただけが幸せになるなんて』
暗く怒れる声が、センを闇へと引きずり込んでいく。
『許さないわ。私を一人にするなんて』
「私もあなたを離せなかった。でも、別れてみればよかったかもしれないわね。私も案外、一人で生きていけたかもしれない」
異変を感じて、センは目を開こうと試みた。
声が優しすぎる。誰だ、これは。今喋っているのは、本当にランカなのか?
『あなたを許さない。私と永遠に一緒にいて』
縛る声と同じ声の、けれど柔らかな声がセンを包み込もうとしている。
「そろそろ、終わりにしましょう。あなたは私を選んだかもしれないけれど、その果てがこれなのよ。あなたは呪われ、私は死んだ。もし後悔してくれるなら、一生抱いていて。私の犠牲の上に、あなたは生きなさい」
「でもお前は、俺を許さない」
そうね、とランカはあっさりと肯定した。
「私を幸せにしてくれなかったことを、私は絶対に許せない。でも、私の人生は終わって、あなたは生きている。そのことをよく考えてみて。あなたは、新しい願いを持ってはいないかしら」
息を詰める。まるで首を絞められたかのようだ。
許さない、と囁く声が強くなる。
「俺は――」
「誰の声が聞きたい? 誰の顔が見たい。誰の手に触れたい。誰を、抱きしめてあげたい――?」
ランカの問いは容赦ない。頭を振る。すべてを追い払うように、低く呻く。
「許されない。こんな、お前の犠牲を無駄にする、新たな望みで、生きたいと思うなど……」
許すよ、と笑って、落ちていく彼女――お前を狩ると叫びながら、救いの手を差し伸べる、あの女。
その手を取れるなら、その身体を抱きとめることができるのなら、例えこの身が人からも竜からもかけ離れた存在となってもいい。たった一人を救えるのなら。
助けられたいわけじゃない。お前を助けたい。
けれど、許されない。
「キサラギが欲しいと、言えるわけがない――」
「そうね、許されはしない。けれど、それを認めて生きることは、あなたしかできないことでしょう」
暗闇の中に浮かぶ手は、白い。顔をすくい上げるようにして上向かせた彼女を、センは久し振りに目の当たりにした。そして、ああ、こんな顔をしていたのだと思い出した。気が強く、弱さを秘めながら、自分を心から求めた、この目。
『許さない……』
「許されないまま沈んでいく? それとも、許されないまま生きていく? 私があなたを許さないことには変わりがないけれど、その続きは、あなたが決めていいことよ」
「ランカ、俺は」
「あなたを呼ぶ声が聞こえているのではないの?」
彼女は何もかも知っている。
彼女の胸で、形見の護符が光を放ち、その身を包んでいる。
白い光の輪郭を得た彼女は、センの記憶の中にある血だまりに沈んだ姿とはかけ離れた、淡く、純粋な存在だった。これが自分の願いが生みだした幻想だとしても、その手に許しを請わずにはいられなかった。許しは与えられないと分かっていながら、彼女はどこまでもおおらかにそれを包んで、すべてを識っていた。
「ランカ」
「犠牲を抱いて生き続けて。さようなら、セン。私の愛した銀の竜」
できればもっとあなたのことを知りたかった、と、笑った拍子に、その姿が弾けた。白い粒となった彼女は、空へと昇り、そこから光をつないだ。
雨だ。白い雨。天地をつなぐ細く、頼りない糸。
その場所から、呼ぶ声がする。
(また、不幸に終わるのだろうか……?)
キサラギがずっと変わらないということはないだろう。離れたくなる時も、憎しみ合う時もやってくるかもしれない。その時、自分は勇気を持って彼女を手放すことができるだろうか。
(できそうもないな)
自嘲を吐き出し、ため息した。
少なくとも今は、彼女を離すことはできそうもない。
「……その続きは、俺が決めていいんだったな」
明るい笑い声が、そうよ、と肯定する。
そして、センは天に向かって手を伸ばす――。
*
セン。
何が始まりかなんて考えないでおこう。だって、私たちは出会ったんだ。あんたはもう一度会う約束をして、それが出来ないことを分かっていて私に希望を与えた。そして私は、全部分かってここまで来た。全部の選択が、私の選んだ道だ。
だから何を選んでも後悔しないよ。
セン。私、あんたを一人にしたくない。
すぐ馬鹿にするし、口が悪いし、言葉が足りないし、時々無性に腹が立って仕方がないけど、でも、あんたが私にしてくれたことは、一生忘れることなんてできそうにないんだ。
忘れないために、一緒にいてもいいでしょう?
いやだって言っても、追いかけてくよ。
傷だらけになっても。おばあちゃんになっても。私が、心だけになっても。
傷は何度も癒していこう。歳を取っても、杖をついて歩き続ける。心を、誰かに託すこともなったとしても。
だから。
「――私を、あげる。この朽ちない血、滅びない魂を」
手を絡め、額を寄せて、呟く。
睫毛が触れるほど近く。唇が重なるほどに近付いて、その約束を交わす。
「一緒に生きよう」
鈍色の濁流が、突如白い光へと変わる。水の粒が宙に向かって登り、人と建物を飲み込んでいたものが、あっと言う間に乾いていく。泥にまみれていた人々は、その不可思議な光景を見上げ、金と銀に輝く空に、戸惑いの眼差しを向けた。
そして、彼らは、銀の竜が紅い竜の首を噛み切ったのを見た。
それはあたかも、人の王が国をなすよりも以前、神話の時代にあった光景のようだった。
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