終章 環   
    


 ルブリネルク龍王国における戦争は、エルザリート・ランジュの勝利宣言により収束した。崩れ落ちた首都に入った彼女は、まず市民の救助、保護に尽力し、彼らが落ち着くのを見計らって、彼らの前で自分がいずれ王として立つことを宣言した。
 その宣言は多数の貴族から反発を受けたものの、教会の後押しと、何より禁帯出となっていた古書『龍族肖像録』に理由づけられたエルザリートの本来の出自によって、一応は静まった。彼女の父であった王が、幾人かの女性と関係を持っていたのは確かであったし、それがあの王妃と公爵夫人の不仲の理由であったと言われると納得できることだったからだ。
 こうして、エルザリートは名を改め、エルザリート・イル・ルブリネルクを名乗ることが許された。戴冠は、状勢がさらに落ち着いた頃に予定されている。
 彼女を援助した者たちは取り立てられ、中でも騎士領国の長であったルイス・マーシャルは大公位を授けられた。騎士領国はルブリネルクの一部であるという立ち位置は変わらないまでも、ある程度の自立が認められた形だ。
 また、西方公フェスティアは一代限りではなく、正式な貴族として認められた。これを辞退しなかったのは、女王の配偶者となった、次代フェスティア公エジェの存在が大きい。
 このエジェが長となり、騎士団が組織された。多くの騎士たちがこれに取り立てられ、厳しい審査の元に配属された。そして、これに伴い、騎士による剣闘が廃止された。剣闘を行った者は厳罰に処せられ、国から追放されることとなった。
 そして現在、エルザリートたちは、首都北区の貧民街の改善と、奴隷制を廃止すべく、尽力している。
 そんなエルザリートが、時間を作って出かけている場所がある。
 首都から離れた、田舎の小さな館にいる、先の王オーギュストを訪ねるのだ。
 都市の崩落に巻き込まれた者たちは、奇跡的に無傷で助かった。それには様々な要因があるのだろうが、奇跡に水を差すようなことは誰も言わず、これが世界の選択だからというように、その事実を受け入れたようだ。
 オーギュストはそのようにして生還したものの、右足に障害が残った。恐らく狂化の影響だろうと言う彼は、以前よりもずっと穏やかになったようだった。落ち着いた様子で微笑んでいたのは、彼に一生付き添うと誓った騎士ブレイドの存在も大きかったにちがいない。
 医師が彼にその不随は一生のことだと告げたが、それを聞いた彼は「ありがとう」と感謝を述べたとか、同じくそれを聞いたエルザリートが「なら彼は、一生わたしのものなのね」と晴れやかに笑ったとか。真偽はわからないが、やはりあの王家だから、と人々は囁いている。
 もっと言えば、その館には時々若い竜が訪れて、焚き火をしては芋や茸を食っているらしいとか、先王と現王の二人にはおかしな噂が絶えない。
 商人たちは復興に利を見出して、マイセンに帰らずに動き回り、教会が力を強めて人々に奇跡を説いたり、ルブリネルクに攻め入られた小国の人々が故郷へ戻っていったりと、すべてがあるべく形に戻ろうとする中、本来なら救国主と讃えられるべき二人は、幾人かに短い別れを告げて、ひっそりと姿を消していた。
「落ち着いた頃に戻ってくるよ。私たちがいると、きっと騒がしくなるだろうからね」
 あそこと、あそことー、あの人とー、と訪ね歩く場所と人を挙げるキサラギは、世界の守護者になっても、ごく普通の人のようで、それを静かに見守るセンも、絶世の美貌の持ち主ながらも、片割れの娘を愛おしく思っているだけの男のようだった。

 そしてヴォルスは、オーギュストの館にいる弟を訪ねるところだった。弟からの希望で、籠の中には魚や、野菜が入っている。ブレイドの友人になったというリュウジという男が、近頃、焚き火で物を焼いて食べる、という行楽にはまっているからだ。
 そのリュウジがそろそろ来そうだから何か食材をくれ、とブレイドが珍しく頼みごとをしてきたので、それなら、とヴォルスは張り切って肉に野菜に魚にと、色々持ってきてしまった。多すぎだ、とうんざりされそうだが、みんなで食べればあっという間になくなるだろう。リュウジは最近サクトという名の仲間を連れてくる。サクトは少し難しい性格のようで、リュウジの開けっぴろげな振る舞いに小言が絶えないが、実は本が好きだというかわいいところもあるのだ。
「……おっ」
 館が近くなってきた時、ヴォルスの頭上を大きな影が横切った。
「……変わるもんだ。普通に竜が飛んでいるなんてな」
 ブレイドを慕うリュウジは、その兄であるヴォルスを「あんちゃん」と呼ぶ。その呼称のくすぐったさは、多分、幸せと呼ばれるものだろうと、ヴォルスは思う。そして、その平和を与えたこの世界の守り手を思い――その腹を思い切り殴った過去に、密かにもんどりうつのだった。





   *





「本当に、何もないなあ……」
 いにしえの王国の名残も、滅びた都市の残骸もない。溢れる緑に覆われて、ここに悲しい出来事があったことも、不思議な力が異界への扉を開けたことも、まったく分からない。
 キサラギノミヤに行くことにしたのは、けじめだった。姉の墓を作るならここだと思ったし、ひとつの終わりと始まりを証すのもここだと思ったからだ。
 一つ呼吸を置いて、キサラギは同行者を振り返った。
「なあ、なんで初めて会った時、私を助けたの? あのまま、死んでいくものだからって、約束を捨ててもよかったでしょう」
「同じ光景を何度も見たくなかっただけだ」
 だが宿命らしいな、と遠い目をして呟いている。キサラギは首を傾げた。
「それは、いいこと?」
「お前が生きてるんだから、別にいい」
 言葉少ななのは、それがまだ痛むからだろうか。
 あえて触れず、そう、と言って流す。お互いに、そうした傷はまだ鮮やかで、認めるのにまだ少しだけ時間がかかると分かっていた。その、待つ、という時間が心地よくて、言葉がなくとも側にいるという安心が、胸を満たしていくのだった。
 不思議だ。二人でこうして、草原に立っているなんて。伸びた髪を指先でつまみ、一人で笑う。
「……お前に返すものがある」
 そう言って、センはキサラギに向き直った。
「――俺がお前の姉の死に目に立ち会った時、その姉から、ひとつの問いを預かった。お前がその答えを見つけた時、これを渡すよう言付かった」
 センの手の中にあるもの。それは、指環だ。
 それは、姉の指にあった、約束と、運命の環だった。
「――答えを聞こう」
 死にゆく姉が、己を殺す竜人に願った。
 この指環を持って、妹に尋ねてほしい。
 自分は『分かって』と願った。あなたは『分かった』だろうか?――と。
『エリコ。分かった?』
 頷いた。
 やっと、言える。そう思うと、熱いものがこみ上げた。
「姉さんは、私に許してほしかったんだ。竜狩りが竜に恋をしたことも。自分が竜に変わってしまうことも。私が姉さんを憎んでしまうことも。何もかも、許してって言いたかったんだ」
 その時の、請うような気持ちが、今なら分かる。
 同じように、竜人に恋をしたからだ。
「――好きだよ、セン。私が竜狩りでも。あんたが、竜人であっても。センっていうたましいのことを、私は大事にしたい」
 泣くなんて情けないなあ、なんて、唇を結んで笑いながら涙を拭っていると、それを、広い胸で抱きとめられた。
「――俺は、俺が憎い。それは、昔も今も、ずっと変わらない」
 大きく息を吸い込んで、降ってくる声を温もりと共に受け止める。
「だが、お前の姉の言葉は、生きろという意味だった。生きて考え続けろという意味だった……」
 センの呟きには、手にかけた彼女の、暗い影がある。けれどキサラギは、姉が笑っているように思えた。
 妹のことを、お願いします――と、どこか遠い場所で、そんな風にして手を振っているような。
 そうすると、なんだか、すべてあの人が仕組んだことのような気もする。この出会いも、その先の長い旅も。そんな風に思って、ふとずっと疑問だったことが浮かび上がってきた。もぞもぞと胸の中で顔を上げ、ねえ、と呼びかける。
「そういえばさ……なんで、私が姉さんの妹だって分かったの?」
「よく似ていたからな」
「そう、かなあ……」
 女らしい外見になってきた今ならともかく、出会った頃はあんまり似ていなかったように思うのだが、センがそう思ったなら間違いないのだろう。
 記憶の中のあの人は、とても綺麗で洗練されていて、強く美しかった。あの人に遜色ないような女性になれるまで、まだまだ道は遠そうだなあ、と風に吹かれて頬に触れる髪の感触に、思う。
 静かな草原の風の音色に、静けさがある。
 センの背を借りて空の道を通ってきたが、常なら警戒すべき竜が、人を襲っている気配が感じられなかった。自分たちが本当に竜約を交わしたのなら、草原の竜の呪いも、王国の血の呪いも消え失せているはずだが、長らく草原に生きてきたキサラギには、竜の脅威がなくなったというのは、まだ実感できないことだった。
「……きっと、この風景は少しずつ変わって、今見ているこの光景はどこかにいってしまうけど、その変わっていく景色を、私たち、二人で見られるんだよね」
「お前が俺に飽きなければな」
 キサラギはがばりと胸の中で起き上がった。
「ちょっと、信じてないな? 忘れてる? 私、一緒に生きようって言ったよ」
「忘れるわけないだろうが」
「だったらもうちょっと態度で示せっての! だいたいのことに我関せずだし、そっけないし、打ち解けてない人はとことん冷たいのは性格だって知ってるけどさあ、これから人に混じって生きていくんだから」
「すぐには変われん。……努力は、する」
 お、譲歩した。とキサラギはにんまり笑った。長い旅を経たのは彼も同じで、最近ではずいぶん素直にものを言うようになった。憎まれ口が、照れ隠しということも分かる。
 口を押さえてくつくつ笑っていると、むっとしたセンがキサラギの腰をさらった。
「わっ!?」
「そろそろ行くぞ。帰るんだろう、セノオへ」
 帰る。
 帰る。
 帰ることが、できる。
 懐かしい人々、友人、養父、仲間たちが生きているふるさとへ。
 何度も死にかけながら、キサラギを救ってきた何者かの手で、生きろ、と許されている。帰りなさい、と送り出してくれている。
(私は、いつかそういうものになれるんだろうか?)
 世界の守護者、と呼ばれるものとして、大事な人たちを、大事な時に生かしてあげられる、そんな、まったき存在に。
 それは、なんて長い道のりだろう。どれだけ生きるのだろう。
 けれど、傍らには、共に生きることを約束した人の手があるから。
「一緒に生きよう。セン。私たち、一緒にいよう。それだけで十分だよ。幸せにしたいなんて考えなくていい。私は勝手に幸せになるからさ」
 センは束の間目を丸くし、そして、ぷいと顔を背けた。
 その顔が、耳まで赤くなっていることに笑って、さあ帰ろう、とキサラギは言った。

    



>>  HOME  <<