そうして、どれだけ経ったのか。
 いた、という声に顔を上げると、すでに空は白み始めていた。エルザリートは斜面を登り、丘を越えていくと、低くなった場所にごみ山の住人たちが溜まっていた。いつの間にか駆けつけていたケイティが、ミリュアを抱いていた。
 彼女の名を呼ぼうとして、静謐に満ちるその光景に、言葉を失う。
 ケイティは涙を流しながら、動かないミリュアを抱きしめ、背を撫でていた。繰り返し、繰り返し、いたわっていた。
 エルザリートの膝が崩れた。そうなるかもしれない、という予測があったとしても、ミリュアの死はエルザリートから力を奪っていった。しかし、瞳は乾いていた。涙が出ない。自分はこんなに、無情な人間だっただろうか。
 代わる代わる、彼女を知る者たちが別れを告げていく。ケイティの濡れた目に見上げられ、エルザリートもミリュアに近付いていった。
 頭を強く打ったのだろう。骨が歪み、流れた血がまだ赤く、こびりついている。痛かっただろう。こんな小さな身体が受け止めるには強すぎる衝撃が、彼女を襲ったはずだ。
「埋葬、しなければ……教会に」
 人々は動きを止め、ケイティは首を振った。
「教会はあるけど……お墓なんて建てられないよ。そんなお金もないでしょう?」
「土地がないんだって。墓地はいっぱいなんだよ」
「他の死体と一緒くたにされて、売人に売られるんだよ。髪とか、皮膚とか……子どもは、そのまま保存するやつがいるって、聞いたことある」
「では、どこに葬るというの」
 顔を見合わせて「海に」と彼らは言った。
「水路に行って流す。運が良ければ、海に行くんだ」
 エルザリートは唇を結んだ。その行き着く先は、ほとんどが海ではなく、この街に閉じ込められているのだということを、知っていた。
 家に戻り、エルザリートは、ミリュアの亡骸をケイティと二人で清め、なるべく白い服を着せてやった。そして、ケイティに言った。
「埋葬するよう、教会に依頼してみるわ」
 ケイティは首を振った。それは無理だと教えながら、エルザリートの気持ちを無為にしたくないと、ただ悲しい顔をしている。
「それでも、行ってみます。このまま水路に捨てるなんてできない」
 ミリュアは、重かった。エルザリートが非力なのだ。肩に担ぎ上げるようにして、家を出た。崩れたごみ山を、滑らないように慎重に下り、何か言いたげに動きを止めるごみ山の人々の視線を振り払って、先ほど子どもたちから聞いた教会へと向かう。
 路地の中に埋もれるようにして立つ、薄汚れた建物がそれだった。剥がされてしまったのだろう、入り口の真上に備え付けられる、本来ならば金で装飾されているはずの紋章は、欠けて、ひび割れている。
 エルザリートが扉を開くと、中はがらんどうだった。椅子はほとんどなく、奥にしつらえる祭壇は、台座に布がかけられているだけ。紋章の柱が孤独に立ち、やってくる者を冷たく見下ろしている。
 すると、奥から人が出てきた。白色のたすきをかけた、灰髪の目つきの悪い男だった。たすきは聖職者の印だ。入っている線は三本。この教会の責任者だと思われた。
「……なんだ、お前は」
「司祭様。葬儀をしたいのです。お力をお貸しください」
 司祭はじろじろとエルザリートを眺め回し、抱えている少女の亡骸に顔をしかめた。
「いくら払う。それ次第じゃ、墓地の片隅に置いてやってもいい」
「墓地……」
「入り口にあったろう」
 この敷地内にそんな場所があったかと思い返してみるが、ミリュアの家のような広さの、石や何かが乱雑に積み上げられた場所しか浮かばない。
「あんな場所に?」
「あんな場所と言うが、他のどこに埋葬するというんだ? この街に自由になる土地はない。せいぜい、ごみ山に埋めるか、水路に流すか、売人に売って有効活用してもらうかだ。椅の下に住んでいる、背骨が曲がった男がその売人だ」
 エルザリートが睨むのを鼻で笑って、司祭は背を向けた。金が払えないことが分かっているから、相手にするつもりはないのだろう。自分は組織から十分な衣服や食料を享受しているだろうに、それを与えないのは、彼ら教会が歴代の龍王から迫害され、遠ざけられてきた恨みが降り積もったからか。祭事が行われても、出席を許されず、邪険にされる聖職者たちは、首都の住人にもまた、軽んじられている。それを、哀れに思ったこともあったのに。
 エルザリートはミリュアを抱え直すと、教会を出た。そして、町中を歩き回った。
 怪我を負った少女を一目見て、どういう状態なのか悟った者たちが、哀れみの目を向けてくる。死者の遺骸を抱きかかえて歩き回るエルザリートは、きっと心のどこかを壊してしまったのだと思われているだろう。
 川につながる水路にも行ってみた。けれど、冷たい水に彼女を沈め、海に流したと思いながらこの街に閉じ込めてしまうのだと思うと、どうしてもできなかった。
(どこか。この子を眠らせてあげるような場所はないの)
 空き地を探してうろついた。しかし、そういった場所にはすでに先住がいた。
 この街のどこにも、安らげる場所なんてないのか。
 ずり下がるミリュアを抱え直す。
(重い……)
 ずっとうろついていると、ミリュアが、次第に『亡骸』ではなく『荷物』になっていくのも辛かった。どうしてこんなに重いの、どうやったらうまく持てるだろうか、そう思っている間に、人間にするような抱え方ができなくなってくる。袋や、棒を持つように、やがて、足を引きずるようになっていく。
 少女一人の亡骸がこうなのに、今まで犠牲になってきた人々の重さはどれほどのものなのだろう。背負うことができると、そうしなければならないのだと思っていた。けれど、それは甘い考えだったのだ。
 冷たい物体になっていく人間を両手に抱えて、その生死に鈍感になっていく自分の心が、痛い。その痛みはミリュアが死んで悲しいのではなく、何も感じないようにしてきた自分を哀れんでのものだ。
 自分は、なんて憐れなんだろう。誰が生きても死んでも、涙をこらえ、じっとしていることができる。何事もなかったかのように生きていける自信がある。
 そんなわたしが死んだとしても、誰も泣いてくれはしない。
 しかし、その時、エルザリートの脳裏に浮かぶのは、ごみ山から救い出されたミリュアのもとに集まり、悲しみを表す住人たちと、彼女をいたわるケイティの姿なのだ。
(この子だけは)
 人に泣いてもらえる人生を送ったミリュアは、必ずどこかに弔ってやらなければならない。
(この世界で、わたしの死だけが悲しんでもらえないとしても)
 自分以外の人々には、永遠の安息と死の扉の向こうでの幸いを、祝福せねばならない。
 エルザリートは、ごみ山にとって返した。以前、ミリュアに「この向こうには何があるの」と聞いたことがある。何もない、というのが彼女の答えだった。
「ごみも、街の壁も、何もない。でも、誰もここから出て行かない。だって、生きることができるわけがないから」
「……どうして?」
「竜が出るから」
 ことも無げにミリュアは言った。
「ごみ山を越えて、しばらくすると、まるで知ってたみたいに襲ってくるんだって。でも、ごみ山には絶対に入ってこない。竜さえ出なけりゃ、みんな出ていくんだろうけど、武器もないし、旅をする準備もできないから、みんなここにいる」
 エルザリートの沈黙を、ミリュアは笑った。
「エルザも、竜なんていないって信じてた? ときどき、そういう大人のひと、いるよ。どうして知らないの? 自分で、外を歩いたことないの?」
 山を登りながら、歯をくいしばる。
(そうよ。わたくしは一人で外に出ることはなかった。街の外にも、家の外にも。部屋の外すら、一人で歩くことはなかった)
 ごみ山に戻ってきたエルザリートを誰かが呼んだけれど、構わずに歩き続ける。途方もない蓄積の海は、足を傷つけ、息を切らせた。何度か膝をつき、硬いものが刺さっているのを抜く。滴る血が、ミリュアの作ってくれた布の靴に染みていく。
 その果ては、崩れた石の波だった。
 本来ならば街を囲っていたはずの石壁が、重みに耐え切れず崩れ、埋もれたのだろう。そしてその果てには、からからに乾いた大地が広がっているだけだった。
 一度、ミリュアを下ろし、息を吐く。冷たくなった汗が、滴る。
 いったい、自分は何をしているのだろう。死んでしまった子どもなんて、適当な処置をして、あとは自分がこれから生きていくために働いていかなければならない。遺体を担ぎながら町中を歩くだけで、エルザリートは今日一日の食事をすべて食いはぐれてしまったのだ。
 身体が冷えて動かなくなる前に、とエルザリートはミリュアを連れてもう少し歩いた。そして、ごみが流れてこないだろう距離を取ったことを確認すると、もう一度ミリュアを下ろした。
「……ごめんなさい。もう少し、待っていて」
 一声かけると、エルザリートは自身の見頃の隠し部分を探った。
 取り出したのは、いつか命を絶つために与えられた短剣だ。エルザリートは、それを自らの喉ではなく、地面に突き立てた。
 硬い地面をほぐすようにして何度も突き刺し、そして、その穴に指をかける。両手を使って土を掘り返していくと、その冷たさに指の感覚がなくなっていく。
 両手を使い、短剣を使い、それでも効率が悪いと、ごみ山に引き返して、使えそうなものを抱えて地面を掘り返した。
 深い深い穴を掘った。母の墓の記憶と同じ深さを目指して。
 埋葬される母の棺は、あの時、開かれないままに埋められた。苦悶の表情がどうしても元どおりにならなかったというので、亡骸を納めたあと、身の回りの品と花とで埋め尽くしてすぐに蓋をしてしまったのだという。参列する人々はよほどのひどい顔だったのだと囁きあい、それが誰の仕業かということを悪意を持って推測しあった。
 もう母の顔など忘れてしまった。記憶に残っているのは、青ざめた顔をしながら憎々しげにエルザリートを見ていた、その印象だけ。
 わたしをこの世から消したがっていた、その憎しみだけ。
「っ……」
 どんどん冷えていくというのに、汗が流れて、息は白くなった。土で汚れた手のひらで、鼻をすすりあげ、汗を拭いながら、生きている、と思う。
 生きていると、汚れていく。
 空を闇が閉ざす頃、エルザリートは穴を掘り終えた。よろよろと、おぼつかない手つきで穴から這い出て、ずっと吹きさらしていたミリュアのそばに行き、その氷のような頬を撫でた。
(待たせてごめんなさい)
 最後は、今までより丁寧に、彼女を抱き上げ、穴に収める。
 彼女を埋める花はない。彼女とともに逝く品物もない。エルザリートは唯一、服の隠しに忍ばせていた硬貨を三枚、ミリュアの手に握らせた。死の国の門を通るための通行料が、三枚の硬貨なのだ。これで、ミリュアは安らぎの川で潤っているという死の国で安らぐことができるだろう。
「さようなら。短い間だったけれど、ありがとう」
 少し、笑うことができた。
「……あなたが生きればよかったのに。わたしの方が、死んでしまえばよかったのに」
 けれど、そうはならなかった。何が、生と死を分けるのだろう。己自身の選択以外に、いったい何が、命の灯火の長短を決めてしまうのか。
 生きたいと思うなら、と声がする。
 エルザリートは土の匂いのする両手で顔を覆った。
 認めなければならない。口を結んで、何も感じないふりをしていた自分は、偽りだったと。
 生きている。ここにいる。だとすればそれは。
(わたしが、生きたいと願ってきたからだわ)
 掘り返した土で再び穴を埋めていく。初めて自らの手で送り、掘り返したばかりの新しい土を撫で「また明日」と約束をしてから、エルザリートは再びごみ山に戻る。
 山を登り、下り、誰もいない吹きさらしの、混沌の海を渡って、そうして、その橋の下に辿り着く。
 最初に逃げ込んだ、あの行き止まりの闇だ。
 その奥から、不規則な足取りで男が現れる。
「……んなとこに突っ立てんなよ。邪魔だ」
「あなたに頼みがある」
「金にならない頼みならお断りだね」
「墓を作らせてほしい」
 すげない態度に怯まず言ったエルザリートに、男は動きを止めた。
「あなたの仕事の邪魔はしない。けれど、ここに行き着く者たちの最期を弔ってやりたい。ここに流れ着く者の、一部でいい、埋葬させてほしいの。もし、わたしがあなたの知らない遺骸を弔うことになったら、少しならあなたの商売道具になるものを、譲ってもいいと思っている」
「……ほお? 死体で商売すんのか、お姫様だったあんたが?」
 にやにや笑いながらエルザリートの顔を覗き込む。
「そんなの冒涜だって言いそうだと思ってたんだが、いきなり心変わりした理由はなんだ? その答え次第じゃ、考えてやってもいいぜ」
「わたしの命は、もう未来にはない。これまでわたしは、多くの人々を犠牲にしたもので足場を作ってきた。そして今はそこから墜ちてきた。もう戻ることは望めない。なら、過去を清算するしかない。わたしが踏みつけてきたもの、見ないふりをしてきたものを、ここで拾い上げることができなければ、わたしにはもう生きる意味がない」
 積み上げてきた犠牲を弔うこと。
 それがエルザリートの選んだ「生きること」だ。
「わたしの残りの人生を、人の魂の安寧のために使う。自己犠牲でも贖罪でもなく、わたしが、わたし自身がそうすることで生き永らえられると思うから、やる」
 思いだけでも、力だけでも、世界は変わらない。その二つがそろったとしても、変えられないものがある。
 何のために復讐する(たたかう)のか。それは――決して変えられない、過去の時間に存在する、自分の過ちを正すために。
 わたし自身を清算するために。
 男は、歯を見せて哄笑した。エルザリートが冷ややかに見つめ返す先で、やがて「いいぜ」と、答えが返った。

 そうして、エルザリートは死体を運ぶ。過去がその犠牲を埋めてしまうよりも前に、彼らの魂を運び、墓を作る。割れた爪は乾いた土が覆い、靴は邪魔だからと脱ぎ捨てた。ごみ山から拾った道具で土匙を作り、時間をかけて穴を掘り、埋めた。名前も知らない者、他の骨と一緒になって判別がつかなくなった者たち、その日生まれてすぐに死んでしまった赤ん坊。
 目の前で、銀の雨が幕を作り始めた。
 そして、世界が鳴動する。
「世界の終わりだ」と頭を抱える盗人や、両手を合わせながらひれ伏す老人たちを横目に、ああ彼らもわたしと同じで生きていたいと思ってこの街にすがりついているのだと、思う。
「ぎゃああああっ!」
 悲鳴が響き、路地から人が逃げてきた。驚く周囲をよそに、次に現れた男は、どこか悪くしているのか、歩くことが覚束ない。何でもないふりをしてそこから立ち去ろうとした人々だったが、次の瞬間、「ぐぶ」と何かが潰れるような音を聞いて、再び目を向け、そして、凍りついた。
「ぐ、ぶ、ぶぶ」
 立っていられなかった男はその場に四つん這いになり、背筋を震わせて獣のように呻いていた。その背中を、謎の突起物が突き破る。手はぱんぱんに膨らみ、首は無くなって、出来損ないのとかげのような何かになった。
「なっ……!?」
「化け物だ!」
 のたうつ化け物に一斉に背を向ける者、武器を探して襲いかかる者とに分かれる。エルザリートは呆然とその光景を見ながら、灰色に覆われた空を仰ぐ。
 何が起こっているのか。
 空に浮かぶ飛影に、エルザリートは目を奪われる。
 巨大な翼。長い尾。雨の雫を振り払う、大気を揺らす低い鳴き声。
(――竜)
 その耳元で、世界の終わりだ、と誰かが囁いた。

    



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