街の各地で、人間が竜に変化する奇病が発生した。身体の一部が膨れ上がったり、皮膚の上に鱗が表出したり、硬化したり、あるいはまったく正気を失い、姿すらも失って、化け物として殺された者もいたという。そして、そんな奇病は、下層よりも上層の貴族たちの間で、最も流行しているらしい。
 竜化病、という通称がつけられた。
 階層を分ける各所の門は閉じられ、行き来は困難になった。ただ不思議と、北区の貧民街は静かだった。竜化病が発生したと思われるその日を境に、幾人かがそれに侵されたものの、その後は大きな事件になることはなかったのだ。
 ただ、彼らはふとした拍子に空を見上げ、自由に行き来するいくつもの巨大竜の影に、不安を抱いた。
 竜が、国を乗っ取った。龍王国に滅ぼされた本当の竜の王が、ルブリネルクの王になったのだと、そう言い合った。
「あんた、何か聞いてねえのか」
「いいえ」と穴に土を被せながらエルザリートは答えた。
 この墓の持ち主は、長年街角に座っていた、右足のない男だ。仲間内の話によると、元々騎士だったが、足を無くしたことで身分を失い、この街に流れ着いて、物乞いをしていたのだという。手先が器用だったので、道具の修理などもしていたというが、そういった時に手に入る金銭で時々酒を買い、近くを寝床にしている人々と飲み交わしていたそうだ。
 それが、ついにこの冬の寒さに耐え切れず、建物の壁に背を預けて事切れていたのを仲間が発見した。そして、墓作りをしているというエルザリートの話を聞いて、連れて行ってくれ、と言ったのだった。
 その墓を一瞥して、橋の下の骨拾い、ルイは鼻を鳴らす。
「あんたも奇特なやつだな。墓を作りたいって言ったかと思えば、別に商売にするわけじゃないっていう。ただ毎日、くず拾いをして日銭を稼いだ後、死体を集めて墓を作るだけ。救いがたいのは、それで感謝する連中が、礼を置いていくことだよな」
「人の心に善意が残っていることが、この世界をようやく支えているのよ」
 エルザリートは呟き、手を止めてルイを見た。
「龍宮の現状については、聞いていない。けれど、じきに王位継承が行われると思う。竜たちがこの国に介入するなら、新しい王が必要だわ。オーギュストならそれをうまくやるでしょう。けれど、そういうことは、あなたの方が詳しいのでは?」
「話を拾おうにも、外出禁止令ってわけじゃねえが、誰も表に出てこねえし、外から人間を入れもしねえ状態なんだぜ。誰がいきなり竜になるかわからねえっつってな」
 だが、と急にルイはにやついた。
「あんたの周りで、最近うろうろしてる奴らがいるのは知ってるぜ。王太子の使いだろう? あんたを迎えに来てるんだな。何故戻らない? 万々歳じゃねえか。ここに落ちてきた者は二度と上がれないが、あんたはその、唯一の例外になるんだぜ」
 暖かい寝床。十分な食事。衣服。それ以上の嗜好品。贅沢。
 それらのものを恋しく思う気持ちはない。むしろ、その華美さに眉をひそめてしまう。ここは決して恵まれた場所ではないけれど、自分のしたいことができる。それがここで生きる理由になった。
「上層のものが、わたしに必要だと思えない。それだけよ」
「騎士を殺してまで手に入れたかったものが、墓守ってか?」
 つきりと刺す痛みにエルザリートが一瞬顔をしかめると、愉快そうにルイは笑うのだった。
「正直になるべきだぜ、お嬢様。あんたは贅沢の味を知ってる。ここにいれば、あんたは一年も生きられないぜ。そして、あんたは死にたいとも思ってない」
「…………」
「『他人を犠牲にしたから戻れない』なんてお綺麗な言葉は、ここではちり紙にもなりゃしねえよ。死なねえうちに戻りな。墓なんてものは、まだ心がある人間が作るもんだ。心を無くした方がずっと生きやすい。あんたは情を与えたつもりで、この街の住人に酷なことをしている。心を生かすのは、やめてやれ」
 目を閉じる。
 自分の世界を切り開いてくれた騎士クロエ。そして、諦めていたエルザリートの手を引いて顔を上げさせてくれた、キサラギのことを思う。
(キサラギ……)
 遺体が見つからなかったと聞いたが、恐らく竜に食われたのだろうと言われていた。その後の音信は、当然ない。自分は、再び大事な存在を失ったのだ。
 けれど、エルザリートはキサラギの墓を作ることができなかった。埋葬できるものは何もなかったし、埋めるとしても自分の心だったけれど、まだ、彼女との思い出は鮮やか過ぎた。そしてそれは、クロエも同じことが言えた。
 ルイは去っていき、エルザリートも墓を作り終えたので、街を回ることにした。一日の半分を墓守として過ごすエルザリートは、日銭を稼ぐために他の仕事をした後、墓に来て、その後は死者を探して街を巡回するようになっていた。
 布をかぶり、土匙を手にして、ゆっくり歩き回るエルザリートを、死神と呼ぶ者もいたし、墓守と知って遺体の処分を頼みに来る者もいた。中には家族の弔いの依頼もあり、そういった人々は僅かながらに謝礼を置いていった。頭巾も、木靴も、その品だ。金銭をほとんど持たない人々は、おおよそ物々交換で生活を回している。
(あの道の、行き止まりを住処にしていた、老人。あまり、長くなさそうだったわ)
 毎日巡回していると、路上に寝泊まりしている者たちの縄張りが把握できるようになる。そうすると、住人も分かる。もともと、人の顔と立場を覚えることが日常だったエルザリートは、そうして死に近付く人々のおおよその命数を記憶するようになっていた。
 あまり長くなさそうだった老人のところへ、様子を見に行こうと、路地に入った時だった。鼠の群れのごとく、さささっと近付いてきた一団が、エルザリートの背後を塞いだ。エルザリートはちらりと一瞥したが、無視して歩みを進める。
「……姫様。エルザリート様」
「我らは怪しい者ではありません。オーギュスト殿下の」
「お迎えにあがり、」
「再三言っているけれど、わたしは迎えを必要としていない。徒労させて悪いけれど、城へお戻りなさい。ここはあなた方が来るような場所ではないから」
「姫様、どうか話を聞いてください。現在、オーギュスト殿下は即位の準備をなさっておられます。そして、約者としてエルザリート様を選ばれるご予定です」
 エルザリートの返答は最後まで冷たくなる。
「わたしは約者にはならない。妃にもならない。わたしはただのエルザ。すべての人間と同じ赤いだけの血を持つ、ただのエルザよ」
 いつものように背を向けて、それで、彼らは退散するはずだった。
 空気が一瞬鋭くなった気配がして、警戒したエルザリートが、持っていた土匙を突き上げると、伸ばされた手に当たった。匙で手を振り払われた男は、当たった箇所を押さえて呻く。
「捕らえろ!」
 穏当でない言葉が聞こえ、エルザリートは走った。
 ついに無理やり連れ去るつもりで来たかのだと、歯を噛んだ。即位が行われようとする現在、エルザリートを呼び戻すことは、オーギュストにとって容易なことになったのだ。すぐに手を打つだろうと思っていた。オーギュストが、エルザリートの知る彼のままだったなら。
(けれど、きっともう彼は、あの時の彼ではない)
 追いつかれた。頭巾を剥がれ、肩を掴まれた。せめてと反撃を試みたエルザリートは、そのさらに向こうで発生した「ぐぁっ!」という呻き声に動きを止めた。
「な、お前は!?」
 エルザリートを追ってきた男たちを、追うようにして現れた何者かは、目深に頭巾をかぶり、外套で全身を覆って、手には、抜き身の剣を持っていた。
 剣士は男たちを次々と斬り伏せると、黙ってエルザリートの動向を見守っていた。
 エルザリートは、逃げなかったのではない。剣士の動き、呼吸の仕方、わずかな声を、見知っていたからだ。それが本当かどうか確かめたくて、じっと相手を伺った。
 思えば、ずっとお互いにそうだった。きっかけを探して、見つけたと思ったら相手に爪を立てるような言葉しか使えなかった。この時も、彼はかける言葉を探しあぐねているのだと思うと、笑いが漏れた。
 微笑みを浮かべて、エルザリートは言った。
「助けてくれて、ありがとう。――エジェ」
 ちっと彼は舌打ちした。
「じっとしてるな。移動するぞ」
「殺したの」
「手当をすれば間に合う。そうでなければ死ぬ。どうせ仲間がすぐ拾いに来る。お前が心配することじゃない」
 言って、先立って歩き出す。どこへ向かうのだろうと思っていたが、ごみ山に行くようだ。彼が地理を把握していることに、エルザリートは内心驚いた。
 エルザリートが追放処分になって、彼は騎士の身分を解かれた。そのまま実家に戻ってもよかったはずなのに、何故まだ首都に滞在しているのか。それに、この様子ならばもしかしなくとも、北区に住んでいたのだろう。エルザリートが寝床にしているごみ山にたどり着いた。
「エジェ。あなた、実家に戻らなかったのね」
 彼は振り返った。
「それは、わたしに復讐したいから? わたしが死ぬのを見届けたいから?」
 彼の兄を殺した――くだらないことで命を賭けさせた。
 そのために彼はエルザリートの命を狙ってきた。エルザリートは彼を自分の側に置くことで彼の命を拾った。ある意味、残酷なやり方だったということは、自覚がある。だから同じようにして、彼は己が手を下すことなく、エルザリートが衰弱し、死んでいくところを見届けて満足するのだろう、と考えたのだった。
 ごみ山の入り口を指して、エジェは立ち止まった。
「ここからなら一人で帰れるだろ。さっさと行け」
「……わたしの質問に答えていないわ」
 彼は顔を背けた。
「……もしお前の言う通りだったら、助けてない」
 目を瞬かせるエルザリートに向けられた顔は、不機嫌なのにどこか優しかった。
「……そんなことよりも、王太子からの迎えを拒否し続けるのは不可能だ。あいつは、絶対にお前を手に入れるぞ」
「ごみ山の姫を?」
「笑うな、馬鹿。こっちは真剣なんだ。……城に戻れば、また同じ生活が始まる。今度は、紅妃の天下だ」
「紅妃?」
 エジェは、龍王の寵妃だった女が、人と竜ふたつの姿を持つ竜人であると説明し、同族を引き込んで、宮廷を掌握しつつあることを説明した。紅妃は、オーギュストと手を組み、ルブリネルクを人と竜の国に変え、世界を再びあるべき姿に戻すつもりなのだという。
「あるべき姿……」
「竜が、神として、国を治める。竜が人間の王を選んで、民を統治させる。歯向かうものは竜(かみ)の力で殲滅する。――他国に攻め入るために軍が組織されつつある。最終目標は、南の砂漠王国だ」
 これまで、ルブリネルクは王国地方中央部を治めることで満足してきた。だが、南を攻めるということは、欲を出して、すべての国を制覇しようと考え始めたということ。
(大陸戦争になる)
 この数百年なかった、大規模な戦争だ。しかも、竜などという存在がある。
「頭のいいお前なら、もう分かるはずだ」
 エルザリートは顔を上げた。
 エジェは顔をしかめるようにしてこちらを見つめる。
「王太子の力を殺ぎたい陣営がある。そいつらは旗頭を欲しがってる。王家筋のランジュ公爵家、そして約者候補にも上がったお前なら、担ぎ上げられる資格はある」
「けれど、理由としては弱いわ。傍系王族の方がましでしょう」
 言い訳をしている、と内側で自分が呟いていた。
 反オーギュスト派の者たちにとって、エルザリートは分かりやすく担ぎやすい存在だ。オーギュストの動揺を誘うことができるだろう。彼の自分への執着は、昔から貴族たちの注目の的だった。
 オーギュストと敵対するのか。彼に守られ、ようやく生かされてきた自分が。
(ああ、それとも、このためにわたしは生かされてきたのか……)
 動かないエルザリートをエジェは無理矢理に引きずって、家へと放り込んだ。その家のことを知っている不可思議さに気づくことなく、突然の来訪者に驚くケイティになんでもないのだと首を振って、エルザリートは項垂れていた。
 戦わなければ、ならないのか。
(守りたいと思っていたオーギュスト、あなたと)

    



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