「ほらよ」とエジェが投げてよこしたのは、腐敗の進んだ肉片と、黴の生えた麺麭だった。もう、食べられるわけないでしょう、と目を釣り上げることはない。肉は、腐った部分を取り除いて焼けばいいのだし、麺麭は黴部分を削ってしまえば、ちゃんと食べられるのだ。
ただ、エルザリートは首を傾げて、こう尋ねた。
「ねえ。あなた、どうして食事を持ってくるの」
反オーギュスト一派の旗頭になれ、と言われたけれど、エルザリートは、明確な返事をしなかった。ケイティを一人にしたくはなかったし、新しい立場に思うところがあったせいもある。墓を作ると決めて、それをやり遂げられたとも思えない状況で、再び上層へ戻るのは抵抗があった。
そんな曖昧なエルザリートを、エジェはひとまず置くと、それまでの北区での変わらない暮らしをさせることにしたようだった。ただ、彼は平民のような服装でふらりとやってきては、廃棄されるような食べ物や着るものを置いていく。そして時々、ケイティに招かれて、食事に同席することもある。
此の期に及んでエルザリートを自由にさせるエジェのことも、彼に指示しているであろう一派のことも、エルザリートは理解できずにいた。しかも、よくやってきていたオーギュストからの遣いは、彼が追い返しているようなのだから。
そういう意味を込めての問いかけだったが、エジェはごく普通に「食ってないんだろうが」と言うのだ。
「お前はまだ大丈夫としても、ばあちゃんは食わせなきゃならねえだろ」
「それはそうだけど、これでも一応、わたしも働いているのよ」
「足りねえだろ。どうせ、自分の分を削ってばあちゃんにやってるくせに」
「……それは……」
いいから食え、と渡される。ケイティが、野草を水につけたお茶を出してくれたのを、エジェはごくごくと飲み干す。
確かに言う通りで、エジェが食べ物を持ってきてくれてから、ずいぶん食生活が潤った。先頃までは、毎日頭痛がしたり、だるかったり、寒かったりしたものだが、加えて睡眠をとる時間ができて、以前より体力が戻ってきていた。
狭い小屋に三人、ほとんどくっつきそうな距離で座っている。
「とにかく仕事がねえな。この地区、人口密度の割に働き口が少なすぎる。上層じゃ、どこでも人が足りない、働き手がいないって愚痴ってたが、まあ、剣闘に負ける度に一族郎党排除してたんじゃ、需要と供給がおかしくなって当然か」
強い騎士を抱えることのできる上流階級ばかりが多くなり、敗者は下流階級に落とされるため、その中間である中流階級がいなくなっていき、働き口となるべき家が減少する、という状況なのだ。
しかも、上流階級の者たちは、勝者というだけで様々な恩恵を受ける。登城もそうだが、税金の免除や一定の給与の支給など、栄光といえばそうなのかもしれないが、富が一部の者に偏り過ぎているのだ。
エジェのその愚痴が、ここしばらく二人の間で流行している、遊びが始まる合図だった。
「やっぱり、貴族階級で人数制限をすることと、税金を課すことが必要ね。今の貴族は、王家の関係者か、これまでの王たちが大判振る舞いしてきた称号かで乱立しているでしょう。これをはっきりと区別したいわ。覚えるの、大変なのよ」
「めちゃくちゃ反発されるな、それは」
「国内では、竜に対する畏怖と恐怖が蔓延している。だったらそれを利用して、貴族は建国以来の血筋に限定すればいいわ。竜にまつわる王国なのだから」
「そりゃ選民思想だ。差別につながる。今でも貴族でない人間の数の方が多いんだぞ」
「最初はね。ただ、その間に国民の教育の充実化を図りたい。教育を受けた人材が成長した頃、能力次第で出世できるような仕組みを作っておく。今までは騎士がそうだった。でも、次は、血なまぐさい方法じゃない、知恵や才能を持ち寄れる人材が、上を目指せるようにするのよ。そうすれば、どんな立場の人間も努力次第で上に登れる。堕ちる、なんて心配をしなくていい」
「だが教育者がいない。ある程度育った子どもは家族を養う働き手になるし、どうやって教育させるんだ。強制的にか?」
「そうよ。義務化するの」
「誰がやるんだ。まともな学者は、この国にはいないんだぞ」
「暇な人たちがいるでしょう。教養も知識もあって、なおかつたくさんいて、今、迫害されてる……」
エジェは眉をひそめた。
「まさか……聖職者か?」
エルザリートはにっこりした。
ルブリネルクにおいて、龍王が実権を握り続けてきた歴史上、宗教組織は常に影に追いやられてきた状況にあった。建国以前は、竜を鎮めることを唱え続けてきた教会は、ルブリネルクの建国王が竜を従えたことにより、民衆の支持を失ったのだった。以来、教会の権威は、首都ルブルス周辺では地を這うに等しく、地方ではかろうじて拠り所になっているものの、求めるのは龍王の加護、と、完全に王家に取り込まれた状態なのだった。
「教会は、国がどんな状況にあっても、聖職者には教育を課してきた組織よ。歴代の龍王が、かれらにかけらも権力を譲ってこなかったせいで、媚びへつらうこともしなくなった。当然、龍王のことを恨んでいるでしょうけれど、彼らを味方に引き込むことができれば、なんとかなるわ」
はあ、とエジェはおかしな顔でため息をつく。エルザリートの想像力に呆れているのかもしれない。
「加えて、自発的に教育施設を創設、運営するものには補助金をつけてもいいわね。そうしたら、教育が事業になるもの」
エルザリートは手を唇に当てる。
「そしてやっぱり、奴隷制度の廃止。人身売買を行う者には重罰を課す。そうね、労働者としての最低基準を定めることが必要だわ。奴隷と呼ばれずとも、奴隷と同じ扱いをされる者はいるから。そうなると、状況を訴える部署が必要だし、監督官を作らなければならない。そのためには、やはり人材を揃えることが必要ね」
この国をどう変えていくか。
それが、二人の間で交わされる、虚言の遊びだった。
エルザリートはこういう改革をすればいいのではないかと話し、それにエジェが反論するというそれは、遊びといえどもエルザリートにとっては真剣なものだ。机上で国は回らないけれど、思考するのは面白い。自分がこの国をどう見てきたのか、何を変えてみたいと思っているのかが分かる。
しばらく話していると、疲れて会話が途切れる時がある。エジェは、そういう時に腰を上げ、どこかに帰っていくのだった。
次の日も同じようにエジェはやってきた。いつものように食事をした後、「そろそろ覚悟は決まったか」と言った。エルザリートは顎を引いた。
「何の覚悟」
「王太子……今は王か、オーギュスト王に宣戦布告する覚悟だ」
「前にも言ったけれど、わたしは玉座に座れるほど血が濃くないのよ。今、地位を振られている竜たちの支持を受けることもないでしょう。支持率でいえば、西方のフェスティア公が有力だわ」
「フェスティア公は中立だ。他の奴らじゃ期待できねえ。お前にはそいつらができない考え方や行動ができる。そう言って、俺が推した」
眉をひそめる。何を言い出すのだ。
彼は、自ら嫌悪する権力闘争の中に飛び込んでいるというのか。
「あなた、いったい何をしているの」
「俺も考えた。騎士とは何か。剣とは何か。答えは分からない。だが、今のままでは剣は腐り落ちて塵になる。踏みにじられて、それで終わる。そんなのは嫌だ。そう思ってくれるのは、お前にしかいないと思った」
堰を切ったように吐き出される言葉を、エルザリートは慌てて受け止める思いだった。
「騎士は主人を守るだけだった――でも、主人が騎士を守ってもいいんじゃないか。少なくとも、お前はそうやって、キサラギの命を拾おうとした」
これまで抑えてきた体温や感情が、一気に膨れ上がってエルザリートを真っ赤にする。感じなかったものがこみ上げて、瞳に涙の膜を作った。唇を噛み締め、首を振った。
それは、未だに膿む後悔の傷だ。
「……でも、救えなかったわ」
「それでも、救おうとしていた。だからあいつは、お前を助けようと戦った。本当は、騎士とはそういうものなんじゃないかと思う。守られるからこそ、戦う。守りたいと思って、剣を取る」
エルザリート。
と、エジェは初めて、エルザリートの名前を呼んだ。
「お前は、守りたいと思われる主人になれる」
腰から抜き出し、鞘に収まった剣を差し出す。
エルザリートは困惑してエジェを見上げた。彼は自分を憎んでいるはずだった。今も、顔を歪ませている。けれど言葉は、心を打って響いている。
「お前が俺を守る限り、俺はお前を守る――もし、俺がそう誓うなら、お前は俺に、何を誓う」
「…………」
言葉が出ない。
自分は騎士を得る資格がない、そう答えようとして、違う、とかぶりを振る。
エジェが求めているのは、これまで通りの主人と騎士の在り方ではない。
(もし、彼がわたしのために戦ってくれるのなら……わたしは……)
「お前の言葉で語れ。お前はいつも、上辺の、つくられた言葉しか使わなかった」
分かっていたのね、と苦笑がこみ上げた。
傷つけたくはなかったのよ、と今更なことを思う。彼に対して傲慢に振る舞ったのは、決して、傷つけたり悲しませるためではなかった。ただ、自分の心を守るためだった。
きっと、傍目から見ていればすぐ分かることだったのだろう。いつも何か言いたげにしていた、彼女の微笑が浮かぶ。
キサラギ。わたしは――。
「わたしは……もし、わたしが主人と呼ばれるような立場になるのだとしたら、わたしは、あなたたちの心を守りたい。剣という心を、正しさのために振るうことのできるように。あなたたちの、誇りを踏みにじらせないように」
――あなたの誓いの言葉に、ふさわしいものを返すことができただろうか?
正しいことを正しいと叫び続けることは難しい。自分とは異なる世界の状況の中、くじけずにいることは。そこで命を賭けられるキサラギの心の強さは、世界を変えるべきものだったのに。
遠くで竜声が聞こえている。
(わたしが殺してしまった。助けることができなかった)
不意に、手を掴まれた。
差し出された剣の鞘に、右手を置かされる。汚れた手は、彼の手と剣の鞘を汚したけれど、そんなもの、エジェは気にしないようだった。それどころか、エルザリートに励ますようにして、わずかに微笑みながら囁きかけた。
「お前は賢い。自分がどうしたいのか、どうすればいいのか、その後のことも考えただろう。だったら、そろそろ決めろ。俺たちの剣を、腐らすな」
生きろ。
彼は言った。殺したいほど憎んでいた、怨嗟の声を放ったその口で。
「生きろ。そのために、俺の剣はお前を生かす」
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