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(キヨツグ様? 何を……)
 どこか憂えた目をしてヨルムを見下ろし、頬を紅潮させる彼女から背後に並ぶ女性たちを見回し、対峙する自分たちを見定めようとする人々の存在を確かめてから、ゆっくりと口を開いた。
「そう、言葉では何とでも言えよう」
 ヨルムの瞳の歓喜の輝きは、続くキヨツグの言葉に失われる。
「この場にいる誰が、命山に行ったことがある? 己が身を犠牲にしてヒト族と交渉したのは? 無力な幼子の未来を思い、己の願いを手放してなお微笑まなければならない痛みと苦しみを知る者は? 故郷と家族と縁を切り、その身一つにならなければ欲するものを得ることができない状況に立ったことがあるのか」
 アマーリエは驚愕に目を見張った。
 過去の行動と、選択の結果、いまに繋がる積み重ねに意味をつけるのだとしたら、それはキヨツグへの思いだ。何のためにと尋ねられたら、心に咲いたその思いのために動いたのだと答えることができる。
 そこには若くて愚かで、それしかないと信じて、たくさんのものを振り回して傷付けて、後悔しないと言ってしまう、自分への嫌悪と怒りと憎しみも同時に存在している。胸を張って堂々としていても、ずるくて汚い欲の果ての行いでもあったのだと、自分自身が知っている。
 それをいま、アマーリエではなくキヨツグが語っている。
 これ以上ない行いをしたのだと、この場にいる者全員に呼びかける。
「そのような思いをしても真夫人でありたい、この、キヨツグ・シェンの妻でありたいと願って行動を起こした者が、このアマーリエ・エリカ以外にいるというのなら、いますぐ私の前に出よ」
 もちろん誰一人動くことはない。当たり前だ。こんなとんでもないことをやってしまう人間が他にいるのならお目にかかってみたい。そう思うのに。
「真様」
 誰かが驚いたように呼ぶ。そのとき初めて、アマーリエは頬を滑り落ちる涙に気が付いた。
(あ、やだ、止まらない……)
 瞬きし、口元を押さえるが、感情の大小の波に翻弄され、静かになったと思ったらまた涙が溢れてくる。みっともない、早く泣き止まなくてはと思えば思うほど目の奥が熱くなる。閉じた眼裏に、いくつかの景色が浮かぶ。
 天気雨の、空の虹。
 一人でないと知った夜と朝。
 寂しいと叫ぶことができたあの日の草原。
 我が子を抱いて感じることができた花と風。
(私が、私のためだけに、身勝手なことをしただけ)
 でもあなたはそんな私の行いを尊いもののように思ってくれている。
「……エリカ」
 泣くことはないと、族長の仮面をわずかに外してキヨツグが囁く。
 アマーリエは頭を振った。
 だってこの、涙のわけは。
「愛しているから、涙が出るんです」
 しっかりと強く、微笑むその姿に誰も否やを唱えられない。それぞれに、眩しいものを見るように、心に刻むように目を閉じて、胸中に浮かぶ思いと記憶に重ね合わせて、自分たちが族長と仰ぐ者の傍らに立つのが彼女以外の誰であってもこの光景を見ることは叶わないと確信を得た。
 そのときを待っていたかのようにキヨツグが再び氏族たちに向き直った。
「ヨルム・クワンの主張を受けて、私からも回答する」
 大広間の人々の心根を正す緊張が満ちる。
「まず、かねてから多数寄せられている、リリス族の妻を娶るべきだという進言について。私自身、現状その必要はないと考えていることを、この場を借りて全員に告げる」
 今度のざわめきはごく一部、キヨツグの前に出ている女性たちから上がる。
「その理由は、……敢えて説明するまでもなかろう」
 こちらの様子をわずかに振り向いて確かめたキヨツグが言う。アマーリエは未熟な自分への羞恥に見舞われながら慎ましく項垂れたが、それを微笑ましく眺めている者の数が増えていることには気付かない。
「次に、アマーリエ・エリカが真夫人にふさわしくないという声が聞かれる件。我がリリスが長らく閉じられていたことは皆も知るところ。我らがヒト族を知らぬのと同じに、真もまた、リリス族を知らぬ。それにも関わらずここに立つに至るまで努力を惜しまず、またいまでも変わらず学び続ける姿を、この王宮で知らぬ者は誰一人としておらぬ。力不足だと感じたとしても、いましばらく見守ってもらいたい」
 お願いしますという思いを込めて、アマーリエは深く頭を下げた。
「そして不貞疑惑についてだが……」
 ちらりと落とされた視線に気付いたヨルムが震える。
 もう彼女は顔を上げられない。彼女が本当に頭のいい人間なら、こちらが反撃に出ていることも完膚なきまでに叩き潰すつもりだということも理解できているはずだ。
「目撃証言、そして当事者である真の説明通り、私を騙って呼び出し狼藉を働こうとした者がいる。この者はすでに取り押さえ、何の目的あっての行動か取り調べを進めている最中だ」
 そうは言うものの、すでにある程度調べは済んでいる。
 だがここではシハンの名も調査状況を出さない。この場では恐らく関わりのないであろうジイ家の人間に被害をもたらさないためだ。心当たりのある人間だけが、シハンが失敗し、自分たちも追及されることを予期して、それから逃れる方法を考えている。
「アマーリエ・エリカに何一つ瑕疵がないとは言うまい。だが真夫人の座を返上しなければならないほどではなかろう。これまで彼女の言動を思い返せば、私は、これ以上なく素晴らしい花嫁を迎えたと考えている。恐らく、真以上の女性はこの先二度と現れまい」
 異議の声が上がらない、それを確かめるだけの間を取って、結論が下された。
「真以外の妻は、必要ない。これが私の、そなたたちの疑義に対する答えだ」
 大広間を沈黙が満たす。
 これで終わりかと思われたそのとき、ヨルムの背後でアラヤ長老夫人が立ち上がった。
「……いいえ。いいえ! それはなりません! 御身の地を引く御子がコウセツ様一人なのは不安要素が大き過ぎます。どうかリリス族の、ヨルムのような娘との間に御子を設けてくださいませ!」
「……それもそうだ。天様の血は……」
「……正統の血統を残すためには、真様では……」
「……やはり別に花嫁を迎えて……」
 静かだったはずの男性陣もにわかに騒ぎ出す。そもそもリリス族の中のリリス族であるキヨツグの濃い血統に端を発した騒ぎなのだ。アマーリエを引きずり下ろす意味はないと納得させたところで、彼の持つ血とそれを残したい人々の思惑はそのままだ。
 追い風を受けていると確信してアラヤ長老夫人は笑みを深め、ヨルムも気力を取り戻し「おば様!」と頬を赤く染めて恥じらいながら食いかかる。
「御子を設けて、なんて、そんな……!」
「謗られることを恐れず矢面に立ったあなたには、名乗りを上げる資格があるはずですよ」
 そこへキヨツグの深い嘆息が響いた。
「――そなたたちは思い違いをしている」
 何か言いかけたアラヤ長老夫人を視線で封じ、一同を見回して同じく言葉を奪う。再び満たされた沈黙の中、キヨツグは静かに声を放つ。
「そなたたちの望みは、古き血、濃い血統がリリスを導くこと。だがそれは、リリスが長きに渡って敷いてきた秩序に反する願いであろう。何故なら、族長は、血統で決まるものではないからだ」
 元々族長は世襲制ではない。公子と呼ばれる候補を複数人立て、才能や人となり、後ろ盾などを鑑みて、ふさわしい者を選ぶものなのだ。リオンやマサキもかつては公子と呼ばれていたし、キヨツグは有力候補に過ぎず、順当に族長に収まっただけで、状況が違えばリオンが選ばれることもあったという。
 だから彼らの言う、キヨツグの血を引く子を次の族長にしたいという望みは、古きを尊ぶリリス族の慣習を真っ向から否定するものなのだ。
「しかし、天様。天様の後継ぎは御子様がしかおらず、」
「私たちが我が子に望むのは、ただ一つ。――自由であること」
 アラヤ長老夫人の言葉を遮り、キヨツグは一度大広間を見渡した。そのすべてに、この言葉が行き渡るように。
「コウセツが望まぬ限り、次期族長としての擁立は、行わぬ」
 ざわり、と大広間が揺れた。
 それは以前からキヨツグが抱いていた望みだった。
 彼は前族長夫妻の実子ではない。それよりも遡った血の持ち主だ。そのせいで族長位を得ることになったが、可能ならば本来の、たとえばリオンや、一時期候補にも上がったマサキ、その次の世代に位を渡したいと考えているのだと以前話してくれたことがある。
 それはアマーリエも同じ思いだった。コウセツが異能を持つことがわかり、それがこれから強くなるのかそれとも失われるのかわからないいま、最良なのは、彼自身が、なにものにも縛られることなく自由に自らの生き方を選べることだと考えた。
 特別な血の持ち主として、キヨツグの子として、責任を負うべきだと考えて族長になろうと努力するのならそれを応援しよう。だがもしその血を厭い、浴びせられる期待や願いの重さに耐えられないというのなら、新しい別の道を模索するよう見守ろう。どのように生きるにしても本人の強い意志がなければ幸せにはなれないのだから。
「私の子だから。リリスの中のリリスの血統だから。そのような理由で族長に推すことは絶対にない。旧来通り、リリスの長は、最もふさわしい者が選ばれるべきだ。血に関わらず。出自に関わらず。性別も、年齢も関係なく、才気溢れる優れたる者が候補となって」
「天様」
 声を上げたのはそれまでまったく関係がないという顔をしていた、ハルイという名の若い長老だ。朗らかな人柄と柔軟な思考を買われて、リリス族の外交官としてよく都市との交渉ごとを担っている。
「天様。それはつまり、リリス族の誰でも公子となりうる可能性がある、という認識で間違いないでしょうか?」
「私は、旧来通りと言った。昔もいまも、そしてこれからも、それを変えるつもりはない」
 そのときの人々の声と驚愕のうねりは、その日最も大きいものだった。
 リリス族の誰もが族長となれる可能性がある――これが、キヨツグとアマーリエが対抗策と準備していたうちの最大の切り札だった。
 キヨツグの花嫁の座を射止めようと必死になっているのは主に女たちだ。しかしキヨツグの性質とアマーリエが絡んだときの苛烈ぶりを知っている男たちは、それが実現する可能性が薄いと考え、静観を決め込んでいた。アラヤ長老のように、積極的に止めることもせず彼女たちが動くに任せて、状況が変わればそちらにつくくらいの気持ちでいただろう。
 だがそこに「もしかしたら自分の身内が族長になる未来があるのかもしれない」という餌が投げ込まれたらどうなるか。
 夢を見る。そしてその夢が現実になるかどうか考え始める。リリス族を取り巻くすべてが、決して他人事ではないと気付くに至る。
 リリス族の族長が往々にして世襲になりがちなのは、シェン家をはじめとしたいくつかの氏族の人間の能力や性質が際立って優れているからだという。それでも実際、前々族長、キヨツグとリオンの祖父に当たるコウエイの前の族長はシェン家ではない、別の氏族の出身だった。だからキヨツグの主張は決して夢物語ではないのだ。
(この宣言で、血や家に縛られない優秀な人材がきっと色々な形で現れるようになる)
 異種族との外交を始めて開かれていくリリス族の変化を感じ、より良い未来を思い、探し、実現していくであろう人材。たとえ公子にならなくても、いつか芽吹いて花開く人々。それを確保したいというのが、族長としてのキヨツグの次世代への思いでもあった。
 真夫人を糾弾し、新しい花嫁を迎えさせるべきだという問題が、次期族長にまつわる話になった。
 決して繋がりがない話ではないはずだが、ヨルムもアラヤ長老夫人も人々の関心に置いていかれて途方に暮れたような顔をしている。そんな彼女たちに大きな人影が音もなく近付き、言った。
「そろそろ、現実を見た方がいいのではないか?」
「きゃあっ!? な、な!?」
 ヨルムたちが悲鳴を上げて後ろに退く。彼女を覗き込んでいるのは、異種族の正装に身を包んだ、アマーリエと同じ異邦人。
「アシュ、何をしている」
 リオンの声に彼は笑みを向けただけで答えず、その笑みをどこか謎めいたものにしてヨルムを見下ろす。野蛮な、とされてきたモルグ族だが、アシュほど整った容貌や恵まれた体躯の持ち主が華やかな装いをしていると、つい見惚れてしまう一方で気圧されてしまう。ヨルムも呆然とアシュを見上げていた。
「我が義兄の許しを得てリリス族を見聞していたが、先ほどからどうにもわからなないことがある。リリス族では、他の男の子を宿して別の男と結婚しようとする女のことは、ふしだらと言わないのか?」
 すべての者が息を飲んだ。
「…………は……?」
 アマーリエはヨルムを見て、彼女の衣装とその下の腹部に目をやった。目立っているとは言い難く、目視で気付けるとは思えない。だが異能力を持つモルグ族であるアシュなら、もしかしたら。
 真っ青になって凝視するヨルムに、それ、とアシュは指先を振る。
「そのやや子は、キヨツグ殿の子ではないだろう。もし結婚して胎の子を御子にするというなら、それは狡猾な欺瞞と言われるものではないのか?」
 次の瞬間アシュは後ろに跳んだ。駆けつけたアラヤ長老夫人が掴みかかってくるのから逃れたからだ。
「ぶ、ぶ、無礼者っ! こんな、こんな侮辱……汚らわしいモルグ族め!」
 おかしな顔色でぶるぶる震えるアラヤ長老夫人だが、アシュはどうということはない顔をしている。
「悪いが、事実だ。その娘は孕んでいるぞ。本人に心当たりがないはずはないと思うがな?」
 ヨルムの白い頬は青白く、色づいた唇は暗く、潤んだ瞳は乾いて陰り、何もかも絶望に染まっていた。
 それが、真実だった。
 嘘でしょう、と現実を否定したがる長老夫人に、いつの間にか近くに来ていたリオンが言った。
「先ほどの私の夫に対する侮辱的発言については、後日話し合いの場を設けさせてもらおう」
 咄嗟に口にした、隠しきれない異種族への差別意識そのものの言葉を絶対に見逃さないという姫将軍の宣言に、アラヤ長老夫人はヨルムの隣にへなへなと崩れ落ちた。
 キヨツグが控えていた者たちに命じて、ヨルムとアラヤ長老夫人を退出させる。二人ともいまにも倒れてしまいそうな顔色で、特にヨルムは一度医師の診察を受けるべきだと判断したのだ。こんな寒い場所で座っているよりも早く横になった方がいい。
 場を一度整えた後、改めてキヨツグとアマーリエは氏族の長たちの前に立った。
「改めて、リリスの同胞に告げる」
 気付けば籠もっていた空気を入れ替えるようにあちこちの扉が開け放たれていた。
 冷たいくらいの空気が流れ込んでくるが、だが決して身を凍えさせるだけのものではない。気持ちを引き締め、紅潮した頬と熱い思いを自覚させる。新しい風が吹いている。
「私たちが一つ、歳を重ねる度、リリスは大きく変わっている。二度三度季節を見送ったとき、どのような形になっているのか誰にもわからぬ。だが悲しみよりも喜びの勝る世であることを、願って止まぬ」
 伏せていた目にちらちらと舞うものの影が見えた気がしてアマーリエは顔を上げた。
 ざあっと庭の木々を揺らす風が、並居る花木の小さな花弁を舞い上げていた。雲と花と風が生み出す光と影が大広間を彩り始める。
「すべての者に自由を。あらゆる者が、己の生きる場所を選べるリリスであれ」
 そのキヨツグの祈りは、アマーリエの目に映る世界を過去から現在、そして未来に至るまで輝かせるのだった。

 かなり遅い時間になってしまったが、大広間を退出したキヨツグとアマーリエは急いで身なりを整え、コウセツを抱くと、シャドの街を見ることのできる王宮の門の上に登った。門番が「門が押し開かれてしまいそうです」と動悸で顔色を悪くするくらい、こちら側にいても集まった人々の熱気と期待が伝わってくる。
「……疲れていないか?」
「私は大丈夫です。コウセツも元気そ、っ」
 腕の中で振り回された人形が顎を直撃する。もちろん綿が詰まっているので怪我などしないが、勢いよく当たるとそれなりの衝撃になる。
 途中退室したせいかコウセツは元気いっぱいで、雰囲気に当てられ始めたのか興奮して顔が真っ赤だ。声も甲高くなり、ずいぶんはしゃいでいる。活きのいい大魚を抱えている気分だ。
 キヨツグはそんなコウセツを抱き取ると、顔を覗き込みながら気付かれないうちに人形を取り上げた。
「……コウセツ」
「う、うー? なあに、とっと?」
「……後もう少し、頑張れるか? どちらがたくさん手を振れるか、競争だ」
 どうぞ、お出でくださいと声をかけられ、キヨツグとコウセツ、アマーリエが門上の露台に出た途端、凄まじい歓呼の声が三人を出迎えた。
 手を上げ、振り、飛び上がって声を枯らしてこちらを呼ぶ。コウセツの姿を探し、きょとんとしている彼の愛らしさに歓声を上げる。そうしてキヨツグとの『競争』を思い出し、人形めいた小さな手をぶんぶんと振り始めると、よりいっそう人々の声が大きくなった。
 驚きにコウセツが目を見張る。怯えたようにキヨツグを見る。だが父の変わらぬ表情に安心感を見出して、自分の動きに人々が反応することを理解すると、新しい玩具を見つけたように満面の笑みで全身をばたつかせた。コウセツを呼ぶ声、可愛いという称賛、おめでとうございます、お健やかに、という祝う言葉。
(あなたは祝福されている。この日のことをどうか、覚えておいて)
 たーたも! とコウセツに促されて、アマーリエは笑い、手を振った。
 親子三人、幸福な笑みをたたえて手を振っていたこの瞬間、人々の幸いを願う喜びの声は最も大きく、空を突き抜けて響いていた。

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