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賑わいを誇った大広間は、今日は打って変わって静まり返っていた。キヨツグとアマーリエ、コウセツの来臨が告げられたことで咳きの音さえしない、あくまで表面上は、平らかな静寂に満ちている。
キヨツグに抱かれているコウセツはうとうとと船を漕いでいた。連日はしゃぎ通しなのだからすぐに体力と気力が切れて当然だ。これから始まることを思えば、そうして眠ってくれている方がありがたい。
「――此度は、我が子、コウセツの誕生と成長の祝いに集まってくれたこと、心から嬉しく思う」
声を張り上げているわけではないのに豊かに響くキヨツグの言葉に、全員がより姿勢を改めたところが見て取れた。
「誕生以来、多くの祝意を受け、大勢に見守られて、このように健やかに育ってくれた。よく眠り、遊び、笑ったかと思えば不機嫌になり、泣き出す。命とはかくも豊かなものかと、私自身、日々目を開かされている」
心当たりがあるらしい若い男性陣がかすかに目元を和らげる。ヨシヒトなどは顔を伏せながらもはっきり笑っていた。恐れ敬われる族長であるキヨツグであっても、物の道理もわかっていない我が子に振り回されながら嬉しそうにしている姿が、きっと目に浮かぶのだろう。
「初めての喜びをくれる我が子コウセツ。その子をもたらしてくれた我が真、アマーリエ・エリカ。そしてこれまで至らぬ私を支えてくれたリリスの者たちに、心からの感謝を伝えたい。そしていまはまだ幼き我が子が、成長につれ広く世を知ることができるよう、よく導き、助けてやってほしい」
キヨツグの隣で、アマーリエが深く頭を下げた、そのときだった。
「――汚らわしい」
弾かれたように顔を上げる。
(いまの声って……多分……)
周囲も声の主を探して視線を動かし、何事かと囁き合っている。にわかにざわめき始めたその間に、別の場所から異なる声がいくつか上がった。
「ご自身が本当に真夫人と呼ばれるにふさわしいと思っておいでなのですか」
「天様の傍らに、よくも堂々と立てるものですこと!」
「私ならできないわ。だって」
「――静まれ」
キヨツグの一声にすべての声、糾弾の言葉も、ひととき消える。
「申し立てたきことがある者は前に出よ。陰に潜んで声を上げるのではなく、この場に集うすべての者の前で告げるがいい」
心当たりがありそうな女性たちがお互いを窺うように視線を交わし合う、その中で、紅色の衣装の少女がすっと立ち上がった。華やかな人々が道を譲り、真っ直ぐ目の前にやってきた彼女に遅れて、数名の少女や女性たちが後に続いてきた。
「クワン家のヨルムでございます」
ばらばらと続く背後の誰よりも、優雅にしっとりと叩頭する。伏せた睫毛の長さや、緊張した白い頬、匂い立つような唇と潤んだ瞳は、ぞくりとするほど可憐で美しい。
キヨツグは腕にいたコウセツをアイに託し、別室へ連れていくよう指示してから、再度ヨルムを見下ろした。
「疑義を抱いているのはお前か」
「はい。これから申し上げることは、御子様のお祝いの席にふさわしくないと重々承知しております。ですが真実を知る者として、天様に対するこれ以上の裏切りを見過ごすわけには参りません」
裏切り、と心当たりのある者もない者も不安そうにしている大広間で、ヨルムの濡れた瞳はアマーリエに向かってきっと猫の目のように吊り上がった。
「天様に隣に立つその方は、真夫人と呼ばれるべきではありません。何故ならその方は、ご自身の御子の祝いの会にも関わらず、人知れず別の男性と密会するような方なのですから」
困惑と戸惑い、そして正義感と怒りが混沌としたざわめきがアマーリエを取り巻こうとする。それに縛られそうになりながら、心を固めて、周囲をゆっくりと見回した。昨日話した少女たちは仲間たちで固まって不安そうな顔をしている。いますぐ大丈夫だと言ってあげたいけれど、悪いがそれは後回しだ。
いまここで誰が笑い、誰が冷静に成り行きを見守っているか。敵味方を見極めるのにこれほど適した場はない。
「何故、なのですか……?」
小さな呟きが噛みしめられていた唇からこぼれ落ちる。
「何故ですか? どうして、それほどまでにご寵愛を受けながら、他の殿方になびくのですか? わたくしには、わかりません!」
ヨルムは感情を昂らせてうっすら涙を浮かべている。本当にそうなのだと信じている風情だ。さらにはヨルムの涙に共感した女性たちが「酷うございますわ!」「信じていたのに……」と次々に言い始める。
対してアマーリエは、キヨツグによく似た無表情でそれらの状況を眺めていた。
(こうなるんだろうなって想像していた状況が現実のものになると、なんというか……)
「あなたは元々、天様と望まぬ結婚を強いられた方。別の殿方に心惹かれても仕方がありません。いつかも同じようにして、リィ家のマサキ様と深い仲になったことは存じております。リリスの暮らしに慣れず、真夫人としての役目を果たすこともできない状況で、無力感に苛まれ、心を痛めていたことは理解できます。ですがそれでも、あなたを庇護される天様を顧みずに別の方と、だなんて……あんまりではありませんか」
事前にわかっていたせいか動揺もできない。喜劇を見せられているような状況に、笑うことも呆れることもできず表情を削ぎ落とすしかできず、それがなおさらヨルムの可憐な涙を強調する。
「お立場から離縁できないならそれでも構いません。せめて真夫人の座を降り、リリスの者にお返しください。いいえ、天様を、解放して差し上げてくださいませ!」
アマーリエの小さなため息に、一同が耳を傾ける気配がする。
『解放して』――自らの正義を主張し、こちらを陥れようと画策しながらもその言葉だけは、きっと本物だろう。
つい表に出てしまいそうな苦い気持ちを抑えて、アマーリエは穏やかに口を開いた。
「色々と、誤解が生じているようですね」
「誤解? 何が誤解なのですか?」
「あなたの仰ることのほとんどです。そもそも、私は天様が第二第三の妻を娶ることを反対したことは一度もありません」
ヨルムは、なんて馬鹿馬鹿しいという目をしている。それはそうだろう。実際、キヨツグの隣に立っているのはアマーリエ一人なのだから。
「先日も、そのようなことになるなら一度ご相談申し上げてくださいとはお願いしましたが……天様は絶対にあり得ないと仰せになりました。もしそうなったならあらゆる手で回避すると」
「それはあなたがいるせいでしょう?」
「そうでしょうか。私がいたとしても、天様は政のためなら婚姻という手段を辞さない方ではありませんか?」
アマーリエはそこで観客となっている大広間の人々に問いかけた。
「皆様はどうお思いでしょう。あなた方の知る族長は、異種族の花嫁一人の意見を重じて政を疎かにするような方ですか?」
結婚する以前、力関係を考慮して付き合う女性を選別し、思惑をもって近付いてきた相手を容赦なく裁いた過去は、人々のよく知るところだ。そのことを思い出した人々は納得がいった顔をしているが、ヨシヒトなどはまた一人で笑っているし、隅に座しているカリヤは渋い顔で、何かにつけてアマーリエを優先しようとするキヨツグの実態を知っているユメのような者たちは、それぞれひそかに笑いを噛み殺している。
「けれどそれは、あなたがヒト族の権力者の娘であることや、命山に認められたせいもあるのでは? あなたを蔑ろにしたとき、天様はすべてを失うことになるかもしれない。それを避けるためにはあなたを大事にせざるを得ないでしょう」
「リリス族と多種族との外交関係を考えるなら、それは義務です」
微笑みを交えて、当たり前のことだと断言する。
「そしてその気持ちに甘んじてリリスの多くを顧みなかった私は、責任を放棄したと謗られて当然でした。この場で申し上げるべきことではありませんが、心からお詫びいたします。本当に、申し訳ありませんでした」
深く、深く頭を下げる。
このような真夫人は見たことがないと言われても、これがアマーリエだった。すれ違ったときに挨拶をし、手ずからお茶を淹れ、必要であれば謝罪のためにお辞儀をする。間違ったときには、きちんと頭を下げて、謝る。
ヨルムは一瞬言葉を探していたが、息を整えてから、もう一度アマーリエを見据えた。
「だったら、だったらなおさら、天様にはリリス族の方をお迎えするよう進言するのがあなたの務めではないのですか?」
「…………」
この話題が持ち上がることを予想したとき、二人の間で取り決めたことがある。
それはキヨツグとアマーリエが秘儀によって結ばれ、それぞれに特異な性質を与えられたということだ。
アマーリエにはリリス族の始祖に近しい長命と治癒能力が備わり、キヨツグにはアマーリエを唯一の片割れとする強制力が働いている。アマーリエにも多少なりとも付与されているであろうキヨツグのその力は、彼曰くかなり強いものらしく、接近する異性に対して忌避感を抱くほどなのだそうだ。
別の相手と関係を持つことでどのような反動が来るかわからない。だが秘儀にまつわる言い伝えが失われてしまっている現代のリリスで、この話に説得力を持たせることは難しい。途絶えたからには理由があるのだと、キヨツグはリリスの秘儀が再び広く知られることを可能な限り避ける方がいいと考えていた。
だから新しく妻を娶ることができない本当の理由を話すことはしない、と二人で決めた。
「先ほど言ったように、この方が望まないことを、私には強要できません」
ヨルムの潤む瞳がキヨツグに向けられるが、答えがわかりきっていることを尋ねるような真似はしなかった。きゅっと唇を結び、決然とアマーリエを睨む。
「それでも……それでも、あなたが真夫人にふさわしくないのは変わりありません! あなたが天様やわたくしたちを裏切ったのは事実。天様がお許しになっても、あなたの所業はなかったことにはならない。自責の念があるなら、いますぐ身をお退きください!」
「その、不貞行為というのは、何の話ですか?」
「卑怯な……誰にも見られていないから、知らないふりをなさるのですね。でもわたくしは存じております」
ヨルムはどこか誇らしげに、周りに説明するように語り始めた。
「昨日のことです。祝宴の最中、庭にいたはずのあなたは何故か会が行われているはずのその場を離れ、一人で人気のない方へ向かわれましたね? そちらには人目につかない涼亭がありました。あなたがその涼亭に足を踏み入れ、しばらくしてからそこにいかにも待ち合わせという風情の男がやってきた……その後のことはあなたがよくご存じでしょう?」
「はい。暴力を振るわれたところを天様に助けていただきました」
「まあ! なんて臆面もなく……、えっ?」
鬼の首を取ったとばかりに声を上げたヨルムがぽかんと口を開ける。だからアマーリエは丁寧な説明を心がけて口を開いた。
「差出人を天様と偽った手紙に一人で来るようにと呼び出され、不信感を抱いたので、本当に手紙をくださったのかご本人に問い合わせつつ、護衛官を伴って指示された場所に向かいました。そこへ見知らぬ男性がやってきて乱暴されそうになりましたが、問いの回答ではなく天様ご自身がやってきて助けてくださったんです。……知っていると仰いましたが、そこまでは、ご覧にならなかったようですね」
「あ、う……」
「不貞を疑うなら、証人となりうる方を呼ぶなりして現場を押さえればよかったのに、そうなさらなかったんですね?」
顔色を悪くしていたヨルムは自らを奮い立たせるように声を張り上げた。
「そ、それはっ、揉み消されてしまうと思ったからです!」
「誰に、でしょう? 私にそんな力はありませんし、確たる証拠があれば天様でも罪をなかったことにするのは不可能です」
「そうでもないんだよなあ……」とヨシヒトが呟き、ウヅキに背中を抓られているのが見えた気がするし、同じようなことをお腹の中で思っていそうなカリヤのような人たちがいる気がするが、笑ってしまいそうなのでそちらは見ない。
ただヨルムの目撃者としての発言と行動が、少しばかり違和感を覚えるものだということは印象付けられたようだ。ヨルムに賛同していた者たちを不安が取り巻き、様子見の男性陣もどちらにつくべきか見定め始めている。
風向きは、明らかに変わりつつあった。
「不貞を働いている、と仰いますが、そのような事実はありません。何故そうして頑なに私の不義を主張されるのか、理由を聞かせていただきたいくらいです。私はあなたがお考えのように、ヒト族で、リリスのことを知らない、未熟で不出来な真夫人で、決して魅力に溢れた人間ではありませんから」
そこまで言っていない、とは、ヨルムは否定しなかった。劣っていると見られているということがそれではっきりした。
「真。自らを卑しめるのは控えよ」
「ですが、事実です」
まるで自分を貶められたような不愉快さを滲ませてキヨツグが言う。それは謙虚ではなく卑下だと言いたいのだろう。
「……でも、ありがとうございます」
武装した心が、ほんの少し癒される。その言葉を噛み締めていたいけれど、喜んでしまうとすぐ剥がれ落ちてしまう継ぎ接ぎの鎧だから、すぐに冷静にならなければならないのが惜しかった。
「私が何もかも至らないのは事実です。才がないことも、知識やリリスの歴史に浅いことも、根も葉もない噂が流れる隙があることもすべて、真夫人としての力が足りないからに尽きるでしょう。それでも一つ、はっきりと申し上げられることがあります。私が、夫であるキヨツグ・シェン様を愛しているということです」
どんなに言葉を尽くしてもこの思いを形にすることはできない。
どれだけ表そうとしてみてもふさわしいものは見つからない。
「言葉では何とでも言えますわ」
誰もがそうとわかっているから、ヨルムは言う。
言葉は嘘を吐く。心すらも偽ることができる。思いを証明することは限りなく不可能に近い。比較は無意味。強さも、重さも、輝きも、そこにあると知っているのは自分だけ。
「ええ。だから、私はここにいるんです」
すべての行いに、意味を与えることができるのも、私だけ。
だが告げるべき言葉を口にしたのはアマーリエではなかった。衣擦れの音がして何事かと目を向けたとき、アマーリエの半歩前にはキヨツグが立っている。
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