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「驚きました。疲れ果てた心を休めるために訪れたそこに、春を象ったような方がおられるのですから」
 にこりと微笑む男性は、アマーリエと同年代らしい見た目そのままの年齢だと思われた。リリス族らしく美しく、日々の生活で当たり前のように鍛えられた体躯の持ち主だ。
 いつの間に、と思ったが、アマーリエは騒ぐ心臓を落ち着けながら言った。
「そうでしたか。少しぼんやりしすぎていたようです。声をかけてくださってありがとうございました」
 それでは、と立ち上がりかけたアマーリエの進路を塞ぐように男性が前に出る。
「リリス族が誇るものをご存じですか、姫君。広大な草原に良質な馬、それを操る技術。そして武具の扱いです。草原では狩猟の腕前こそがその者の価値を決めるのです」
 アマーリエが何か言う前に男はにこにこと捲し立てる。
「ですからこのように、あなたとお近付きになる機会を逃すわけにはいかないのです」
 中途半端な姿勢を座り直すことで立て直し、アマーリエは静かに口を開いた。
「私が誰か、知っていてそのように言うのですか?」
「もちろんです。異種族ヒト族の姫君、アマーリエ・エリカ様」
「そしてリリス族長キヨツグの妻です。あなたはどなたで、私に何のご用ですか?」
 失礼しました、と男は仰々しい仕草で一礼した。
「シハンとお呼びください。私はあなたの信奉者です、美しい方」
「変わった方ですね。リリス族は誰も彼も美しい顔かたちをしているというのに、あなた方に劣る私を美しいと感じるなんて」
「美しいのは見た目だけでなく、その心もです。天様がご寵愛されるのも納得です」
「ご用件を聞かせてください」
 長々と続く美辞麗句で話が進まない。ばしりと話題を切ると、シハンはそれでも笑みを崩さずアマーリエの隣に腰掛けて身を寄せてきた。気配を感じてすぐ逃げるが、あちらの方が素早く、すぐに距離を詰められる。
「冷たいお顔も大変麗しくていらっしゃる。それだけにあなたの微笑みが見たくてたまらなくなってしまう」
「…………」
 何なんだ、という思いが膨らむのは、アマーリエの育ちや性格に加えて、リリス族の性質を知っているせいだ。
 アマーリエは厳格な祖母や父のもとに育ち、都市では恋愛とは縁のない日々を送っていた。恋や愛を知らずに怯え、政略結婚した後になって初めての恋をした。
 そしてリリス族は、長寿と出生率が低い種族であるがゆえに若い頃から多くの恋を経験する。アマーリエの周りにいる人たちはそうした関係性を巧みに隠しているが、決してアマーリエのように『恋を知らない』なんて状態ではないのだ。
「どうか私に慈悲を。せめて他の者にするように微笑んではいただけませんか?」
 だからこうした口説き文句が本気ではないことをアマーリエは知っている。
「つまりご用件は、私と火遊びがしたい、ということですか?」
 シハンは一瞬ぎょっとし、苦笑いを浮かべた。
「なかなか……はっきり仰るんですね。意外だな」
「では私の答えは一つです。心の底から、お断りします」
 ため息を禁じ得ない。誘うにしても、アマーリエを相手にするなんてありえない。リリス族と敵対しかけたヒト族で、政略のもとに結婚した立場の、既婚者だ。
「何故です? 私はそれほど魅力がないとは思わないのですが」
 魅力の有無ではなく、不貞そのものに嫌悪感があるのだが、どうやら理解できないらしい。
(シハン。家名は聞いていないけれど、招待客なら調べればどこの誰かわかるはず)
 言動に危険なものを感じるとして厳重注意か、関係者にそれとなく知らせておかなければ、アマーリエに限らず別の人間に被害が及ぶ可能性がある。もし重鎮や重要人物の醜聞に繋がったら、キヨツグの手を煩わせることになってしまう。
(キヨツグ様は来ない。申し訳ないけれど少しこの場を離れよう)
 アマーリエは黙って席を立つ。「どこへ行くんです?」と声がしたが振り返らない。
「っ!?」
 だが肩にかかった手が、アマーリエを乱暴に引き戻した。
「……本当に小さくて華奢なんですね。ちょっと強めに引き寄せただけで倒れてしまうなんて」
 強い力に姿勢を崩して倒れ込んだところにシハンの笑みが降ってくる。
 怯むな。アマーリエは自らに言い聞かせる。怖がるな。怯えるな。こちらが弱者だと相手に感じさせてはならない。支配できるなどと愚かな考えを捨てさせろ。
「いますぐ止めなさい。馬鹿なことをしたあなただけでなくあなたの一族にも累が及ぶ、それがわからないわけではないでしょう」
「あなたにそうする価値があれば、ですよね」
 お互いの体勢に反して冷静なやり取りが続くが、アマーリエは如何にしてこの男から逃れるかを必死に考えていた。いったいどういうつもりなのか、意図がまったく読めない。
「私の価値? あなたの暴力行為を裁くだけなのに?」
「その罪の重さはあなたが何者かによって変わります。真夫人なら極刑でも、あなたがただ人ならどうでしょう?」
「何を言っているのかわかりません」
 少しずつ、状況の危うさを増すのを感じて、冷たい指先を自らに引き寄せながら武器となりうるものを持っているか考える。
 シハンの身なりからして恐らく武人でない。とはいえリリス族の能力は人の倍以上ある。その気になればアマーリエを容易に屈服させられるだろう。
 シハンはにこりと笑う。まるで親切を施そうとするかのように。
「あなた様への天様のご寵愛はただならぬものだそうですね」
 さり、と無意識に身を退いたせいで靴か衣服が擦れる音がした。やけに大きく響いたそれに、アマーリエは自分が真っ青になっていることを自覚する。
 これ以上この男の言葉に耳を貸してはならない。
 現実にならないと信じていても、アマーリエの根深い恐れと悲しみが嫌な想像を形作ってしまう。
「果たして不義密通を働いたあなたに、天様は変わらず愛を注いでくださるでしょうか?」
「……っ!」
 そのとき、様々な欠片が一つに嵌まる感覚があった。
 同時に冷や汗がどっと流れた。この男の目的がそれ(・・)なのだとするなら、恐らくこのままでは終わらない。傍目にもわかる『証拠』を刻まれてしまう。
「あれ、思ったよりも冷静ですね。もっと激しく抵抗されると思ってたんだけどな」
 本当はそうしてやりたい。身体を突き飛ばし、蹴り付け、平手と拳を見舞って思いきりその秀麗な顔に爪痕を残してやれたら。
 だがそれが相手の嗜虐心を煽るとわかっている。この男を喜ばせるような真似は絶対にしない。
「ああ、助けが来ると思っているんですね。来ないですよ」
 それが、何者かが描いたものが見えた瞬間だった。
「あの手紙は、あなたが書いたものだったんですね」
 キヨツグを思わせる香りに、筆跡と署名。二人きりで話したいとこの場所を指定し、やってきたのは彼ではなくこの男だった。
「まあそのくらいはわかりますよね」
 人を騙しておきながらシハンは悪びれもせず笑っている。
 だが続くアマーリエの言葉にその笑みが消えた。
「企てたのは、本当に、あなた?」
 顎を掴まれた痛みに息と言葉を飲む。
 相手を動揺させるつもりがしくじった。近付く笑み、だが本当には笑っていない。他人の吐息を近くに感じるだけで背筋が粟立つ。嫌なのに、びくともしない相手に気持ちが萎えそうになる。近付くな。触るな。私に触れていいのは。
「あなたの、顔」
 身体が竦んで囁くような声になる。
 シハンが歪んだ笑みを近付けて「何です?」と嬉しそうに言う。目眩に見舞われながらアマーリエは息も絶え絶えに告げた。
「――覚えましたから、ね」
 ――ばきっ、と日常では滅多に聞かない音がした。
 シハンが吹き飛び、アマーリエの上から身体の重みが失せた。大きく安堵の息を吐きながらアマーリエは身を起こし、救助に感謝を伝えようとして。
「……いったい、どこの愚か者だ?」
「キヨツグ様!?」
 驚愕に目を見開いて叫ぶ。幻かと疑ったが、本当に彼だった。雪輪模様の衣装も髪型も、今朝見た通りのまま。彼にだけ許された耳飾りも、そこにある。
「え、え……? ゆ、ユメは……?」
 事前に配置していた(・・・・・・・・・)護衛官を探したが、すぐに答えてくれるはずの静かな声がしない。
 キヨツグはアマーリエを立ち上がらせ、蹴り飛ばされた痛みで朦朧としているシハンを冷たく見下ろす。
「……シハン・ジイ。行方知れずのジイ家の次男か」
 ご存知なんですかなどとは言わない。族長として、そして本人の能力として、キヨツグが主立った氏族の人間の顔と名前を記憶しているのは当たり前だと思うからだ。
「行方知れず……」
「……色狂いが原因で人間関係が泥沼化し、扱いに困り果てたジイ家当主が軍部に送ろうとしたが、直前に失踪したと聞いている」
 口説き文句と思しき数々の台詞を思い出し、そういうことかとため息を吐いた。そういう気質だからヒト族のアマーリエにもああした態度に出られたのだろう。長らく閉ざされてきたリリス族で、ヒト族のアマーリエは子どものように可愛らしいと言われることはあっても恋愛対象になることは滅多にない。
「なるほど、物好きな方だと思いました……」
 キヨツグは何か言いたげにちらりと視線を寄越してきたが、そのときやっと状況を理解し始めたらしいシハンの声で二人のやり取りは後回しになった。
「て、て、天様!? いやあの、これは、その! し、 真様がお寂しいと仰るので……誘ったのは真様の方です」
「嘘偽りの質としては最低だな」
 ばっさりとキヨツグの評価は容赦がない。あり得ないと断言されてシハンは言葉を失っている。アマーリエを陥れることができると本気で思っていたのだと知り、ほとほと呆れてしまった。
「そもそも……あの手紙がキヨツグ様のものでないことは最初からわかっていたんです」

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