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「……え?」
「いくら香りや署名があっても、あり得ないことが書かれていましたから。二人きりで話したいと言われることがあっても、一人で来るようにという指示は絶対にあり得ません」
 多数の客人、それもそれぞれに立場や思惑のある者たちが集まる状況だ。ヒト族と繋がりを持つ人間がいないわけがないし、リリス族としてもキヨツグやアマーリエの存在を完全に認めているとは言えない者たちもいるだろう。実際シハンのように後ろ暗い事情を持つ者が紛れ込んでいたのだ。
「二人きりでというなら、必ず護衛官か女官が付き添い、確実にたどり着いてから人払いされます。たとえ本当に一人で来るよう指示があっても、私は必ず付き添いを連れて行きます。むしろ一人で向かった方が、何故付き添いの者が不在なのかとお叱りを受けるでしょう」
 それでこちらに向かうときに女官たちに頼んだのだ。
 一人には、ユメを呼ぶように。何が起こるかわからないが、先方に警戒されないよう密かにこちらの様子を見守り、危ない状況になればすぐ駆けつけてほしいと頼んだ。
 もう一人はキヨツグに。本当に本人からの手紙の可能性を考慮しつつ、心当たりを尋ね、知らないようであれば何者かの呼び出しを受けたと知らせてくれるように。
 結婚直後は自覚がなく、またそういう立場でもないと考えていたが、いまは違う。
「私は、真夫人です。私の自由は、立場による責任と自衛のもとに保障されています」
 それがアマーリエの最後にして最大の反撃となった。
 シハンが力を失くしたそこへ「天様」とユメの声がした。
 彼女は一目で状況を見て取ると、シハンを拘束し、いつの間にか控えていた部下たちに彼を連行するよう命じた。人目につかないようにとキヨツグが言い添えたので、捜査が終わるまでは厳重な監視下に置かれることだろう。
 アマーリエの頼みを無視したことを、ユメは「申し訳ございませんでした」と深く頭を下げて詫びた。
「ご命令通り控えていたのですが、駆けつけた天様にお役目の交代を命じられ、他の指示を受けまして……」
 それでユメでなくキヨツグに助けられたのだ。より正しい判断ができるキヨツグの命令に従ったユメは何も悪くない。
「首尾は」
「まずまずかと」
 キヨツグの問いにユメは微笑みを浮かべ、アマーリエにも笑みを向ける。
「真様のご命令で待機していたところ、何者かがこの建物の様子を伺っておりました。その後天様のご命令を受けてその者を監視しておりましたが、ある時点で現場を離れたため、後を追いかけ、お客人方の庵の一つに入っていくのを確認いたしました」
「何処の者か」
「アラヤです」
 アラヤ一族が滞在している庵に入っていったところを確認した、とユメは言った。その後しばらく周囲を探っていたが、出てくる様子はなかったと、アラヤ家の関係者である可能性が高いことを報告する。
「天様が駆けつける前に立ち去ったため、現在の状況は把握していないと思われます」
 シハンは拘束中。周囲に怪しい者が潜伏していないことはユメたち護衛官が確認済みだ。女官たちも信頼のおける者で固めており、情報が漏れない限りこちらが先方の動きに勘付いていると知られる可能性は低い。
「よくやった」とキヨツグが言うのに、ユメは深く頭を垂れた。
 その後アマーリエたちは場所を移すことにした。宴席を抜け出てきたキヨツグは一度戻らなければ不審がられるし、アマーリエは罠に嵌ったと見せかけなければならず、これ以上ここに留まるのは危ういと判断したからだ。
 アマーリエは人目を避けるように、というふりをして女官やユメたちに付き添われて王宮へ戻り、キヨツグに緊急の知らせがいったように女官や侍従を放った。「何か起こったようだと、皆様方が噂しておりましたわ」と言ったのは真夫人付き筆頭女官のアイだ。
「少し厳しめに、余裕をなくした風を装って新人に命じたかいがありましたわ」
 事情を知っているのはごく身近な者たちだけなので、任期の浅い若手はアマーリエたちが何をしているのか知らない。厳しくも優しいアイがきつく言ったのなら、きっと何かあったのだと噂になるのは早いだろう。
「私も、お客様と思しき方に尋ねられました。『何かあったようなのですが、もしかして真様ですか?』と。いつの間にか姿がないと気付かれていた方が多いようですね」
 診察にやってきたハナが言う。診察を偽装するつもりだったアマーリエだが、引き倒されていたことを知っているキヨツグによって診察を受けるようにと言われてしまった。打ち身の痣ができていたものの重い衣服のおかげで思ったよりひどくはなく、冷たい塗り薬で湿布してある。どんな小さな怪我でも治療していなければキヨツグに見咎められてしまうのだ。
「かなり噂になっているみたいだけれど、どんな風に言われているのか、わかる?」
 それに応えたのはお客のもてなしに携わる者たちをまとめる上級女官たちだ。
「真様の体調を心配する声が聞かれました。長らくご公務を休んでおいでだったので、もしや未だご体調が万全ではないのではないかと」
「その声に被さる形で、真様はすでにお役目を果たせるお身体ではないのでは、と不安視する者たちがいるようです。それを煽るように、天様には新しい妻が必要だと声高に言う者たちがおります」
「アラヤやゴン以外の者も、候補に名乗りを上げようと一族で相談している様子もございました」
 正しくは、妻や娘などが出遅れてはならないと身内男性を焚き付けているという。
 だが特徴的なのは男性側が非協力的、そうした行動に出ることは可能な限り避けたいと女性陣の説得を試みている点だという。
「天様のご不興を買ってすべてを失うくらいなら、現状に甘んじる方が有益であると考えるのでしょう」
 苦笑しながらユメが理由を説明する。
「政に携わっているのはやはり男性が多うございますゆえ、天様の容赦のなさは身に染みておりますが、王宮勤めでもない限り女性が見聞きするのは、天様の優れたるご容貌や才覚ばかりです。ご寵愛さえ受けることが叶えば、と考えてしまわれるでしょう」
「真夫人はリリスをよくも知らないヒト族の女だものね」
 アマーリエも苦笑いで応じた。キヨツグと対決したところで敗北が見えているのなら、勝機が見えるアマーリエを狙うのは当然だ。異種族の人間なのだから後ろ盾もない、リリス族のことも知らない、真夫人の立場に必要なものを何も持っていない、そう思うのだろう。
 その通りだ。私は何も持っていない。これまでのものもすべて、遠い故郷に置いてきた。血を分けた家族や、友人たちですらも。
(だから、いまこの手にあるものを守るためなら何だってできるんだ)
 右手を握り、その手を左手で包んだときだった。廊下の外で急に複数の者たちが慌ただしく動き回る気配がし、少しして取り継ぎの者がキヨツグの来訪を知らせた。
 現れたキヨツグは一同を見回した。途端に全員が心得たように沈黙を保ったまま退室していく。ユメだけは部下たちと同じく警護に支障のない位置に控えていることだろう。
 二人きりになるとキヨツグは静かに、だが疲れたように腰を下ろした。酒精と、煙草と思しき香りがわずかに立ち上るのは、大広間の祝宴で染み付いてしまったものだろう。
「お疲れ様でございます」
「……怪我の具合は?」
「打ち身が少し。すぐに消える程度のものです」
 だから心配ないと微笑んだのに。
「……確かめたい」
「はい。……は、い?」
 思いがけないことを言われて目を丸くしたアマーリエを軽々と抱き上げたキヨツグは、部屋の隅にあった几帳を足蹴にして作り出した空間の内側に二人して滑り込んだ。行儀の悪さに目を白黒させている間に足元に手が触れてびくりとする。
「……痛むのか」
「ちっ、違います、びっくりしただけです」
 覗き込まれるようにして返答を迫られ、急激に体温が上がることを自覚しながら答える。
 軽いとはいえ打ち身なので強く押さえたときにじわりと痛む。だがその程度であってもキヨツグは容赦しない。ハナが処置した傷をしっかり確認するまで決してアマーリエを解放することはなかった。
 衝立の影で一頻りばたばたし、乱れた衣服を直したアマーリエは赤くなった頬をぴしゃぴしゃ叩いた。
(さすがに大怪我は隠さないって、言いたいけれど、私の日頃の行いが悪いって言われちゃうんだろうなあ……)
「……馬鹿者が触れたところすべてに触れてやりたいが、ひとまず我慢しよう」
 また熱が上がるようなことを呟かれ、アマーリエは恨めしげにキヨツグを睨んだ。
「……酔ってますね?」
「……本当に酔っていたらこの程度では済まぬ」
「キヨツグ様っ!」と羞恥極まって自らを掻き抱くアマーリエを見る目は、どこまでも涼やかだ。本当に酔っているのか、冗談なのかもわからない。
 手が伸び、指が絡められる。解けないよう握り込まれるそれに、心から案じられているのは確かだと理解して、アマーリエはそっと、深く長く息を吐いた。どれだけ立派な態度を心がけていても、アマーリエの本質はどこまでも普通の、臆病で弱いただの人間だ。
 力をなくした身体をキヨツグの肩に預ける。衣服越しに彼の体温が伝わる。握り合う手が、熱い。
「……助けてくださって、ありがとうございました」
 絶対に屈服しない、助けは来ると確信していても、見知らぬ男に好き勝手に扱われそうになって恐怖を抱かずにはいられなかった。アマーリエの心には触れなければわからないほどの細かな傷が無数についている。だからキヨツグは、せめて身体に傷がないか確認したかったのかもしれない。
 吐息が何かを囁いた気がして顔をあげると、誘うように見つめる目に促されて、唇を捧げていた。
 柔らかく啄まれて、恐怖がほろほろと崩れていく。
 私にはやっぱり、この人だけだ。
「……今日お前が知り得た情報を教えてくれ」
 口付けに反して告げた言葉が凍えるように冷たく感じられたのは、今回の騒動を決して快く思っていないという表れだったのだろう。
 アマーリエは庭園での出来事、貴婦人方とのやりとりや、少女たちの間で広まっている噂、二人から聞き取ったことを説明した。また涼亭での出来事の後、ご婦人方がどのような様子か女官たちが話してくれたことも付け加えた。
 それらを吟味して、キヨツグは一つの結論を出した。
「……大広間の方は、さほど大きな動きはなかった。ゆえに、此度の出来事はアラヤ長老夫人をはじめとした、女たちが主導権を握っているのだろう」
「だとしたら、先方も時期を見計って準備中ということですね」
 アマーリエはまだアラヤ長老夫人にもヨルムにも会っていない。話を広めるだけ広め、最も適した時と場所で、自分こそキヨツグの妻にふさわしいと主張するのだと思われた。それがいつなのかはおおよそわかる、とキヨツグが言う。
「……こちらも準備を整え、そのときになったら迎え撃つ」
 まったく祝い事で交わす言葉ではないなあと思うが、彼と自分の思いが等しいことを理解してアマーリエは微笑を浮かべた。我が子の祝いをこのように利用されて怒りを感じない親がどこにいるのか。自分のこととは別に、絶対に打ち負かしてみせると決意を込めて「かしこまりました」と目礼した。

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