―― 進 み 行 く さ き の 奇 跡
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「…………」
 ため息を、ひとつ。
 わずかに、胸の奥につかえていたものが軽くなる。それでも、鏡に映っているのはずいぶん浮かない顔だった。少し削げた頬に顔をしかめつつ、ユメは鏡を拭いて、さっと身支度を整えると、剣を佩いて、家を出た。
 見上げた空が、青い。とてもいい天気だ。季節にふさわしい風が、きらめくように吹いている。しかし、感覚とは裏腹に、ユメの心は沈んでいる。
 はあ、とまた、ため息。
 目の奥は冴えて、光を眩く感じるのに、鬱屈した気持ちが降り積もる。喉の奥、胃の腑の上、胸の底が重い。いけない、と思ってしゃんと背筋を伸ばす。病は気から、だ。
(……この場合も『病』でいいのか?)
 正しくは、違う、と思う。そう、違う。これ(・・)は病ではない。身体が不自由となるのは確かだけれど。
 またため息をつきそうになりながら、ユメは、夫の実家を訪ねた。いま、カリヤはこちらに詰めている。大量にある蔵書で調べ物をする必要に駆られたそうで、しばらく自宅に帰ってきていないのだ。
 いつものように供もなく、子どもが遊びに来るようにしてやってきたユメを、馴染みの門番は快く迎え入れてくれる。家人に取り次ぎを頼んで、義父母に挨拶をした後、ユメはカリヤの部屋に向かった。
 彼の部屋に至る庭は、青々とした緑の陰に覆われている。暑気が増せば、夏の花が咲くことだろう。幼い頃、カリヤとともに黒と白の縞模様のその花の種を集め、台所番の者に炒ってもらって食べたことを思い出す。塩を振ると、いい案配のおやつになる。日差しの下、汗だくの子どもには、塩気が特別美味しく感じられたものだ。
 開け放たれた部屋の奥、薄暗いそこに、カリヤがいた。
 影と書物特有の紙と墨の香りが、すぐ触れられるところに立ち上ったように感じた。いま、書の迷路に埋もれる彼が、書庫の影と同じ色の瞳をして、その香りを全身に染み付かせているのを、ユメはすでに知っている。墨で汚れた爪。引きこもって肌は青白いのに、意外とたくましい身体付きをしていて、少し驚いたことも思い出す。
「カリヤ」
 彼は、動かない。いつものことだ。集中していると、誰かが呼んでいてもカリヤは軽々しく無視をする。
 ここで立ち去れば、なかったのことにできるのではないか。
 だが問題を先延ばしにするだけだと、諦めた。靴を脱ぎ、入り口に立って、呼ぶ。
「カリヤ」
「手元が暗くなるのでそこに立たないでください」
 そう言って、彼は逆光になったユメの姿を見上げ、目を眇めた。この態度も、特別珍しいことではない。
「失礼しました。……入っても?」
「どうぞ。ちょうどきりがいいので」
 そうして、彼は室内を見回す。何を探しているのか悟ったユメは、廊下に置きっぱなしになっていた茶器一式を持ってきて、茶を淹れようとした。だが湯はかなり温くなっている。これでは旨く茶を出すことができない。
「湯冷ましでいいですか?」
「ええ。……どうも」
 カリヤはユメから器を受け取った。飲み食いせずに書物に没頭していたのだろう、ずいぶん喉が渇いていたらしく一息に干してしまう。ユメは自分用に入れたそれをカリヤにまた渡し、自身は彼が干した器で湯冷ましをすすった。
 しばらくして、カリヤがじいっとこちらを見つめて、変な顔をした。
「あなたが黙っているのは珍しい。何かあったんですね。天様に、破談にしろとでも言われましたか?」
「不敬ですよ。それに趣味が悪い」
 本気で眉をひそめてぴしゃりと言うと、にやにや笑っていた彼は肩を竦めた。カリヤの不機嫌に慣れているユメに対して、ユメの怒りをカリヤは受け流すことができる。そういう関係性でこれまでやってきたのだ、お互いの言動には慣れっこだった。
「で、何か?」
 しかし改めて尋ねられると、ぐっと息が詰まった。
 胸、胃、そして下腹部にかけて身体が重くなるが、呼吸を整え、息を吐くように一気にまくし立てた。
「……大変失礼ながら貴殿の交友関係についてお尋ねしたい」
 カリヤは顔に「理解不能」という文字を浮かべた。
「はあ? 交友関係ですか、何を言い出すかと思えばそんな、」
 ぴたり、と彼は動きを止める。そして、視線を一瞬、遠い彼方へ向け、まさかという口調で聞き返してきた。
「……それは女性関係という意味での交友ですか?」
「…………そうです」
 真剣な顔で向かい合うと、カリヤは天を仰ぎ、苛々と頭を掻きむしった。
「あのですね……結婚した人間が、その前に清算していないと思いますか。それほど私は信用がない?」
「ですから、あなたの口から直接聞きたい。つまり、以前は清算するような関係の方がいたのですね?」
 カリヤは皮肉に顔を歪めた。
「どういうことを聞きたいんですか。経験したのは何人でどこの誰で子どもの有無は、なんていう話ですか?」
 構えたユメの懐に入るようにカリヤはぐっと身を乗り出し、暗い目で笑った。
「ほら、そうして傷付く。他人の言動で自傷行為をするのは止めなさい。まあ私のことで傷付いているのはそう悪い気もしないですがね」
「私のことはいい、結局どうなのですかっ」
 負けん気で叫ぶと、鼻で笑われた。しかし小馬鹿にしたというよりは、必死さを微笑ましく思った、というような笑い方だった。
「綺麗なものですよ。交際らしいものはユーアンが最後ですし、それよりも前のものもすべて切れています。子どもは一人もいません」
 これで満足か、と両手を広げる仕草はこちらを小馬鹿にしたようにも思えたが、ユメは生真面目に頷いた。
「……わかりました。信じましょう」
「待ちなさい、話は終わっていませんよ。その不可思議な質問の理由を教えなさい。どこの誰に何を言われたんです」
「残念ながら、その者はまだ話せません。何せ、まだ腹のなかにいるので」
 ――そのときのカリヤの表情は見物だった、と、後々までユメは思い返す。
 また面倒なことを、と呆れ、ユメの答えに何を言っているのか理解できないでいた顔が、刹那の後、何かに気付いたように硬直した。全身をぴくりとも動かさず、呼吸すら止めて、忙しなく思考していたのだろう。そうして激しい瞬きの後、恐る恐るという目でこちらを注視するものだから、常ならざる動揺を見て取ったユメは、次の瞬間破顔一笑してしまった。
「……まさか……」
「ええ。では、質問に答えましょう。『この子』の父親が不届きものでは可哀想なので、確認を行いました。答え次第では母子二人で生きていくつもりだったのですが……残念ですね、カリヤ。これでもう私から逃げられなくなりましたよ」
 ユメは晴れ晴れと笑う。怖いくらいに眼鏡の奥の目を見開いていたカリヤは、立ち上がった、次の瞬間。
「どうしてそんな薄着なんですか!!!?」
 いままでに聞いたことのないような絶叫をユメに降らせてきた。
 このようにして近しい者の動揺を目の当たりにしたとき、一瞬で頭が冷えるのは武人に染み付いた習性だ。いつも通りの静かな声で、淡々と答える。
「薄着ではありませんよ。普通です」
「帯でそんなに締め付けて!!!」
「いつもより緩くしてあります。ご心配なく」
「剣なんぞ持つな!!」
「仕事道具ですので離すわけにはいきません。それに、この程度のものを重いものとは言いません」
 カリヤもまた武人であった過去がある。ユメの態度が変わらないので、少しずつ冷静さを取り戻したようで、声の調子が少しずつ落ち、ついには口を閉ざして、ゆっくりと座り込んだ。そうして、真顔で言った。
「本当に……私の子ですか?」
 史上最速の拳が、世界で最も愚かな質問をした男の腹部に入った。
 なんとも言い難いうめき声を押し殺して、真っ青な顔で、カリヤは正座を崩した。倒れ込みたいところだが、自尊心がそうさせないのだろう。震えながら、血の気がどんどん引いて、顔色が真っ白になるが、嘔吐しない根性は、さすがユメが夫に選んだ男だ、と褒めるべきところだろうか。
「殴られた理由はおわかりですね?」
「……本当に……」
 問いを口にしたときの微笑みのまま、ユメはこめかみを引きつらせる。
 これ以上同じ質問を重ねるようなら、次は蹴飛ばす。
 だが、震え声の呟きは、ユメの動きを簡単に封じ込めてしまった。
「……本当に……夢じゃ、ないんだな……」
 間違っていなければ、それはいまにも泣きそうに揺れていて。
 そのとき、ようやく、ユメの内にあったあらゆる不安の重石が外れ、ぱっと、光の粒に変わったのだった。
 それは、星のようにきらきらと輝きながら、この薄暗い部屋に、二人の間に舞い散った。ああ、そうだ。夢じゃない。夢ではないのだ。子どもに恵まれない夫婦も多く、遅くに授かることも少なくないリリスで、ユメとカリヤは未来に繋がる命を授かったのだ。
「……夢じゃ、ありませんよ。ほら」
 笑みくずれたユメは、カリヤの手を腹部に導く。紙を捲るために乾燥した手は、下腹部に触れる瞬間、怯えたように強張り、やがて勇気を絞り出すように恐々と、優しく当てられる。
 しばらく二人でそうしていて、カリヤは、震える息を長く、長く、吐き出した。
「……わかりませんね」
「当然ですね。まだまだ小さいですから」
 ずいぶん強がった感想だったので、つい笑ってしまったユメだった。



初出:2011拍手お礼
改訂版:20200118

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