―― 絶 対 安 定 家 族
<<  |    |  >>

 リリス王宮の医局の名物は、宮中の薬草園で栽培されている薬の原料や、各地から取り寄せた貴重な素材を貯蔵する、壁一面に設えられた薬箪笥だ。それらは綿密に管理され、危険なもの、希少なものが保管されている引き出しには鍵がかかっており、一部の管理職だけが鍵を持っている。
 しかし、それらは滅多に出番がない。その日も、ハナは医官の務めとして、保存処理を行った薬の原料を検品していた。素材採集と加工は下級医官の主な仕事で、中堅の者は薬の処方を行う。宮中の勤め人の診察は中堅どころが行うが、高貴な人々と相対することができるのはハナやその夫で医官長のリュウなど、御典医に任ぜられた者だけだ。現在、真夫人アマーリエ付きのハナは、彼女に直接薬を渡す役目があるため、万が一問題が起こらないよう、素材の検品を欠かさないでいる。
 その作業が一通り終わると、ふう、と息を吐いた。
(溜まりに溜まった机仕事をしているせいね……肩が凝っているし、目が痛む。疲れを取るお茶でも飲もうかしら)
 ハナは、医局の他に、街の診療所に仕事を持っている。出向という形で、市井と触れ合い、医療関係の他、住民の状況を報告している。だが、医師は多忙だ。容体が急変したり、事故で負傷したものが運び込まれたりと、突発的な対応に追われてばかりで、なかなか仕事が思うように進まない。事務仕事などその代表だ。
 しかしこの初冬は、珍しいくらいに暖かい。患者も少ないので、ハナは街の診療所と医局のそれぞれで、ずっと机仕事をしていた。こんなときでもないと処理できないもの、やりたいと思っていたことができないので、いい機会ではあったが、忙しさに慣れた身ではつい根を詰めすぎる傾向がある。
(これでは真様のことを怒れないわね)
 自嘲の笑みを零し、席を立つと、隣の部屋から仮眠明けのリュウが現れた。
「おや……来ていたんだね」
「ええ。おはよう、お茶を淹れるけれどいかが?」
「ああ、ありがたい。熱いのを頼むよ」
 お互いに医療関係の仕事に就いている夫婦なので、すれ違いは日常、一緒に過ごすためには予定を合わさなければならず、しかしそれが叶わずとも相手の仕事を尊重して不平不満を抱くこともない。ともすれば自宅よりも、職場でともに過ごす時間の方が長い、というのが、ハナとリュウだった。
 親と同じ医官となった息子のシキは、適当にその辺りにある器具(もちろん洗浄済みだ)を使って美味しいお茶を器用に淹れるが、ハナは片隅に押しのけられた茶器を探し出し、綺麗に洗うと、火鉢にかけてあった薬缶を持ち上げた。幸いにも残っていた湯でお茶を入れ、しばし待つ。
「髪を切ったかね?」
 背後から声をかけられ、振り返る。目が覚めて、だいぶしっかりした顔つきになったリュウの視線に、ハナは笑った。
「よくわかるわねえ。切ったわ。でもちょっとだけよ?」
「香も変えたね」
「ええ。真様とそんな話になって、調合してみたの」
 向学心のある真夫人は、ハナの弟子というか、医師を目指す学生のような立場だ。しかし講義が終わってその立場を取り払うと、色々な話をする仲になっていた。ありふれた世間話や、王宮勤めの者の噂話などが多かったが、近頃、癒しの術としての飲食や香りの話題になったのだ。なんでも、都市では香草茶が健康志向の人々に好まれていて、香りを扱う専門職があり、癒しの効果を求めて客がつくという。それで、みんなで調香してみようとなったのだ。
 女官たちをも巻き込んで、教師役として調香師を呼び、みんなでああだこうだと言いながら作業したのは、とても楽しかった。まるで学生に戻ったような気がして、思い出し笑いをしているうちに、お茶が入った。湯気の立つ器をリュウの前に置き、ハナは彼の向かいに腰を下ろした。
「仕事の邪魔にならないよう、香りは控えめに、心地よく感じるようなものにしてみたの」
「前の香りがすると君のことを思い出したけれど、いまの香りも君に似合っているね」
「あら、ありがとう。褒めてもらえて嬉しいわ。あなたはいつも通り、とっても素敵だわ。私はあなたの手が好きなの。働き者の手ね」
「ありがとう。うーん、じっくり堪能したいものだけれど、なかなかなあ……」
 ふふ、と笑っていると、手を取られた。仕事柄、ハナの手はよく荒れる。衣服に焚き染めた香はともかく、触れる必要のある手に香りはつけられないので、香料の入っていない軟膏を毎日擦り込んでいる。
 リュウもまた、同じもので手荒れを防いでいた。ごつごつした手は、出会った当初から変わらない。医官として配属されたハナの指導役になった彼が、真剣な目をして、男っぽい手で繊細な薬を調合するところは、いまでも大事な恋の思い出だ。
「……うっわ……」
 机の上で手を触れ合わせていると、声がした。夫婦でそちらに目をやると、入り口に立っていたシキが、眉間に皺を寄せ、口の端を引きつかせて、後退りするところだった。
「おかえり、シキ。頼んで種苗の買い付けはできたかい?」
「あら、出掛けていたのね。おかえりなさい、シキ」
「ただいま、だけどどういう状況なのそれ? いや、いやいい、言わなくていい。僕が消えるから」
 帰ってきたのを迎えつつも、手を離さない二人から目を背け、荷物を置いて逃げ出す態だ。おやおやと思いながらハナは黙っていたが、こういうとき、リュウは口に出してしまう人だ。不思議そうに首を傾げた。
「別に恥ずかしがらなくてもいいじゃないか。私たちは夫婦なんだぞ」
「恥ずかしいよ!? 何十年も連れ添っていまだにそれって、嬉しいけど、嬉しいけどなんか嫌なんだよ!」
 耳まで真っ赤にしてシキが叫ぶ。
「うちの息子は初心だなあ。大丈夫だろうか、早く君のようないい人を見つけてほしいんだが」
「シキにはシキの理想があるわ。大丈夫、見る目があることは私がよく知っているもの」
 息子が、身分と種族が違うある女性に淡い思いを抱いていたことを察しているハナだった。もし彼女がただの人であったなら、息子の妻として大歓迎しただろう。だが残念なことに相手は既婚者で、その夫と張り合うのはシキには荷が重い。そうして、静かに思いを封じ、相手の幸せを願える息子は、本当に優しくていい子に育ったと思う。
「いい恋をしなさい、シキ。愛は人生を豊かにするぞ。なあ、ハナ?」
「ええ。その通りね、リュウ」
 にっこりと笑い合うハナとリュウに、シキは諦めたように首を振り「報告は後にします」と言って、医局を出て行った。そういう気遣いができるところも息子の可愛いところだと、二人は笑い合い、他の医官たちが姿を見せるまで、しばしともに過ごすのだった。



初出:2011拍手お礼
改訂版:20200118

<<  |    |  >>



|  HOME  |