―― 初 恋 と 運 命
<<  |    |  >>

 彼女は、最初から特別だった。リリスにおける立場も地位も、そしてセツエイの中でも。

 宙から降り立った一族、リリス。天の者。守護者。そのように呼ばれるものがセツエイの生まれ育った一族の根源であり、いずれ背負うすべての名だ。その象徴たるのが最高機関と称される聖地、命山である。いまも女神と始祖が住まい、役目を引いた族長とその伴侶が隠遁する、この世ならざる、あるいはこの世との境目にある場所。
 父コウエイに連れられて少年のセツエイはその地を踏んだ。次期族長候補である公子に選出され、後継として確定した直後だった。
 麓の街から登り、大門を通り、山道を行く。頂上へ至る道はよく霧が立ち込めているらしい。叛意を抱く者がここを通ると、永久にその白い世界に閉じ込められるのだと、大喝ではなく低く言い聞かされ、父の真の恐れを感じ取ったセツエイは馬を操りながら胸の内で静かに祈った。
(私たちに叛意はございません。どうぞ尊き方々にご挨拶させてください)
 祈るうちに視界が晴れたときにはほっとした。通る資格がある、と認められたような気さえした。
 そうして至った聖地の中心部は、不思議な場所だった。ずいぶん平かな山頂で、風は強くない。ほんのりと温かい大気に包まれて見上げる空は、どこまでも高く、青く、澄んでいる。
(恐ろしいほどの青だ)
 このような青き空を古き一族が往ったのだと、遥か神代に思いを馳せた。
 セツエイは強靭な肉体と身体能力を誇るリリスにしては、脆弱で病がちな子どもだった。それはいまでも変わらず、床に伏すことが多いせいもあって読書を趣味としてきた。父コウエイには書痴とまで言われたくらい、身体を鍛え、剣術に磨きをかけるよりも知の探究に心を傾け、新しい書だけでなく古書、古文書に触れてきた。そこにはセツエイにはとても想像できないような女神や始祖、リリスの祖たる一族のことが綴られていた。
 女神と始祖を残し、リリスの古き者たちは空の彼方へ飛び去った。当代のリリスよりも力を持つゆえに寿命も数倍あったという彼らが生きるには、この地は平穏ではなく、また将来的に安らぎが戻るとは到底考えられないと、女神が去り行くよう説き伏せたという。翼を持つ彼らはそれを受け入れ、彼らのみが暮らす楽土で静かに最期のときを、そして女神と始祖がやってくる日を待っている。
(同胞の力を借りてリリスに安寧をもたらす、とは考えなかったのだな……)
 リリスは現在モルグ族と長く交戦状態にあり、またヒト族にも不穏な気配を感じている。女神が案じたように安らかならざる世界になっているのだ。
(女神は慈悲深い。リリスの古き者の力でこの地を支配するよりも、争いを避け、力を手放すことを選んだのだ。そうしてリリスを閉じることでここまで長らえさせた……)
 そんな地上のリリスよりも神代に近い命山に住まう、女神と役目を退いた族長らが住む宮に仕える者たちは、セツエイたちと変わらないように見えて、どこか影が薄かった。蜃気楼のような、薄い膜がかかった気配の持ち主ばかりで、存在の濃い自分が異物に思えてならない。その一方でこの静けさをひどく好ましくも思う。
 父の後ろにつきつつ案内人を観察していたセツエイは、次に聖なる宮殿を見回した。迷宮のように、静かで冷たい空気が漂っている。これを清浄というのだろう。王宮にある神殿に通じるものを感じた。
 簡単に人を受け入れることはせず、異物を排除する、孤独なところ。掃き清められたすべてが一層異界を感じさせ、にわかに背筋が震えたが、父に気取られぬよう素早く呼吸を整え、背筋を伸ばした。
 これからセツエイは次期族長に内定したことを、退いた前族長夫妻に報告する。主である女神リリスや始祖との対面は叶わない。彼女たち自身が望まねば姿を見せることはなく、ゆえに、ここに地上からやってきた住人がいる間はその者たちが代理としてその役割を果たす。今回はそれが前族長夫妻なのだ。
 族長の紹介という形でセツエイは先達に挨拶をする。決まった型通りの口上を述べると、同じように返答があった。それで務めを果たしたことになる。
「……そなたはまるで、水辺の柳のようだな」
 役目を終えて、ふう、と息を吐いたとき、正面からそんな呟きが聞こえてきた。はたと瞬きをすると、それまで厳しくしていた白髪の老爺が慈しみの表情でこちらを見ていた。
 前族長は、シェン家の人ではない。ゆえにセツエイともコウエイとも血の繋がりはない。リリス族なのでまったく血の繋がりがないわけではないのだが、異なる姓を持つ他家の人だ。
 リリス族の歴史を学んだセツエイは、目の辺りに皺を集めて微笑するその人が、武勇を誇り、内乱を鎮めた苛烈な族長であったと知っている。だからその眼差しが、未だ守るべきものとしてリリスを愛し、年月を経て役目を継ぐセツエイを祝福しているのだと深く感じられた。
「そのしなやかさは、必ず救いの術となるだろう。リリスを頼んだぞ」
「――はい」
 セツエイは心を込めて叩頭した。普段は息子を「軟弱だ」とか「へらへらするな」と詰るコウエイも、前族長から直接励ましの言葉をかけられて誠意を示す息子に満足したようだ。天様と話があるから、とよくやったという表情でセツエイの退出を促した。
 現在「天様」と呼ばれている父は前族長を天様と呼ぶのだなあ、と笑いそうになったが、微笑むことで堪えた。
 退出すると案内役が待っていたが、せっかく一人になったのだ、貴重な機会なので少し散策したいと告げた。
「この季節は、中庭の薫衣草が見頃でございます。よろしければご覧ください」
 特に反対はされず、そう言ってセツエイを見送った。
 一人にされたのには驚いたがしばらく歩いているうちに理由を知る。
 あちこちに、気配があるのだ。こちらに見えないよう動く者たちの視線は、ちゃんと客人の動向を把握している。見張られていると、薄気味悪く思う者が多いかもしれないが、咎め立てるようでも敵意も感じられなかったので、気の向くままにあちこちを見て回った。
 宮殿はリリスの王宮によく似ていた。同じ人間が設計し同じ人々が建てたのだと説明されても違和感がない。一人で歩き回っていても緊張しないのは生まれ育った場所に共通するものを抱いているからなのだろう。柱や、廊下、窓の装飾、見える風景。そうしたものが馴染み深く、気持ちを落ち着かせていく。
(こんなに静かな気持ちになったのは久しぶりだな)
 次期族長に内定してから非常に慌ただしい毎日だった。父に言わせれば「のらくらとして他人事」な態度でこなしてきたが、内心は必死だった。必死さが伝わると周囲の者が不安がるとわかっていたので、常に微笑んでいるよう心がけていた。
 それは思いがけずセツエイの心をざらつかせたらしい、ここに来て疲労感が癒されていく。
 そもそもセツエイはあまり外向きの性格をしていない。コウエイは外に出掛け、狩りをし、友人たちと酒杯を交わすのを楽しみとする人だが、セツエイは読書を主として、楽器を奏でたり、絵を愛でたりといったことを好む。幼い頃は何もせず、太陽の光を、風の動き、空の色を観察することもあり、母のサオも息子ののんびりした性格は誰に似たのか、とよく首を傾げていた。
 だがそんな自分が族長に向いていないのかというと、そうでもない、と思っている。
 確かにコウエイとは性質が異なるが、逆に正反対の方法を用いる長になれるはずだった。むしろ父と同じやり方で続けていけるものは少なかろう。ヒト族やモルグ族をはじめとした異種族に変化があるように、リリスも情勢の変化に適応する必要がある。セツエイはそのための族長になるのだと、すでに心を定めていた。
(族長となり、次代に役目を継いで、その後、私はここに来るのだな……)
 不思議な感覚だった。遠い未来に思いを馳せても、とてもそれが現実になるとは思えない。どこかで夭折してしまう気がするのは、静穏を愛する性格のせいだろうか。
 夢を漂うように歩いていると薫衣草が咲き群れる場所にたどり着いた。
 匂い立つ香りは、まるで世界を淡紫に染めるように、色濃く風となって流れていく。気持ちが落ち着いて、セツエイはほっと息を吐いた。
 美しい場所だ。地上の草原も嫌いではないが、このように幻想的な風景は、特別好ましい。ずっとここにいたいと思ってしまう。
 しゃがみ込み、花の海にそっと自らを沈ませた。ゆらゆらと揺れる花の穂は、まるで赤子の眠りを誘う玩具のようだ。
 命山を訪れるため、いつもより早い時間に起床して支度を整えたのだが、一人になって気が緩んできてしまったらしい。息をするごとに眠気が押し寄せ、目を閉じる。ここはとても心地がいい。寒くもなく、暑すぎない。強い風が騒音を運んでくることもない。
 安らぎとともに、意識が遠くへ運ばれていく。
「…………」
 ゆったりとしたうたたねが、どのくらい続いたのか。
 呼吸するように自然と目を開け、何気なく視線を上げる。目を閉じる前と同じように、花々が穏やかに揺れているはずだった。
 けれどそこに、薄墨のような女性がいた。
 距離は、遠い。しゃがむセツエイに向こうは気付いていないのだろう。
 白い手を伸ばし、指先を当てるか当てないかの優しさで、花に触れている。舞踏のようだった。仙女が、静かな舞を舞っている。長い黒髪は艶やかで、玉を散りばめたかのように輝いていた。透き通る肌に白い衣と緋袴が映える。
 こちらを向かないだろうか。その人は、まるで図っているかのように後ろ姿ばかりを見せている。横顔が見れる、と思ったら髪に邪魔されたり、目の先で揺れる薫衣草が隠してしまう。こちらを向いてほしい。どんな顔をしているのか。その瞳の色を、表情を、教えてほしい。どうか。どうか。
「――……」
 その願いを、命山の女神は聞き届けてくれた。
 くるり、と身を翻した彼女は、呆気ないほど簡単にセツエイに顔かたちを捉えさせた。
 想像していた通り、儚げな美しい人だった。
 想像できないほど、たおやかで美しい人だった。
 柔らかな目元と眼差しは、いまにも泣き出してしまいそうなほど。なのに、薄紅色の唇は活き活きと咲く花のように綻び、微笑みを形作っている。伏せた目の、長い睫毛。冬鳥のような細い首。身体つきは華奢で、少なくとも成長が止まる二十歳は過ぎているのに、セツエイと同じ歳の少女のように見える。そして、セツエイが知る誰よりも、美しい。
「……巫女姫様、ライカ姫様。お迎えにあがりました」
「ありがとう、いま行きます」
 春の雪のような綺麗な声だ、と思ったときには、すでにその姿は消えていた。
 セツエイはしばらくその場で瞬きを繰り返していたが、恐る恐る立ち上がり、周囲を見回した。薫衣草の海は、訪れたときのまま、潔癖なくらいに静かで綺麗だ。花の海を乱した手など存在しないとでも言い聞かせるかのよう。
 もしかして、あれは夢だったのだろうか。この地に焼き付いた光景が、夢うつつの目に幻として映っただけなのか。
 ぼうっとしていると、肩を掴まれた。厳めしい顔の父コウエイだった。
「こんなところにいたのか。どうした、まるでいま目覚めたような呆けた顔をして」
「父上。ライカ様という方をご存じですか?」
 もしあの人が幻影なら、父は、夢でも見たのだと一笑に伏すだろう。
 そして、そうはならなかった。
「ああ、命山の巫女だ。滅多に姿を現さんのだが、お前、会ったのか」
「お姿をお見かけしただけです」
「そうか。また見える機会もあるだろうが、ライカ様は夢見の力をお持ちで、過去や未来を夢に見る。ゆえに非常に独特な言い回しをなさるので覚えておけ」
 コウエイが、こうも真っ直ぐに助言をしてくれるのは珍しい。丁寧な物言いをするのも。
「美しい方でした」
「そうだな。それで命山に居る者のうち女神と始祖に次いで長命という。神威があるのだろう」
 すなわちとんでもない長命だと知って、合点がいった。長く生き、このように俗世と離れた場所にいれば、あのように浮世離れした美しさになるのだ。彼女は確かに地上の毒に侵されていない仙女なのだった。
 そのようにしてセツエイの初めての命山来訪は終わった。
 しかし、心のなかに、ライカという名とあの美しい佇まいはしっかりと焼き付いて離れなかった。
 会いたい、会いたい、もう一度会いたい、ひと目だけでもと心の内で恋い続け、族長となるにふさわしい人間になるべく日々を過ごした。年齢と容姿が彼女に十分釣り合うと感じられるようになった頃には数多の女性の誘いがあったが、そのすべてを断ってしまうくらいに、彼女はずっと特別だった。そして、運命だった。
 一目見ただけの彼女との結婚を望むのは、セツエイが族長に就任することが決まった、ある年の春のことである。



初出:20101024
加筆修正:20141231
改訂版:20220805

<<  |    |  >>



|  HOME  |